第282話 引っ越し願い
実家の玄関を開けると、母が廊下の奥から顔を出した。
一度こちらを見て、壁の時計へ目をやる。夕食には早く、連絡も入れていなかった。靴を脱いでいる間に驚きは薄れ、代わりに呆れたような顔になる。
「この前帰ってきたばっかりじゃなかった?」
「そうだな」
「忘れ物?」
「違う」
「お金?」
「貸してくれって話じゃない」
母はそこで黙り、俺の背負っている鞄と手元を確認した。土産らしいものがないと分かると、先に居間へ引っ込んでいく。
「じゃあ面倒な話ね。お父さん呼ぶから、座ってなさい」
まだ何も言っていない。
それでも、何となく分かるものらしい。
居間のテレビでは、地方局の情報番組がダンジョン周辺の交通規制について伝えていた。音量を下げた母が向かいへ座り、麦茶の入ったコップを俺の前へ置く。
「それで、今度は何?」
「引っ越してほしい」
母の手がコップから離れる途中で止まった。
「誰が?」
「父さんと母さん。できれば、すみれも」
「どこへ?」
「国が管理しているダンジョンの近くに、関係者用の居住区がある。そこへ移ってほしい」
母はしばらく俺を見たあと、台所の方へ顔を向けた。
「お父さーん。透がまた変なこと言い出した」
「まだ何も聞いてないだろ」
「聞いたわよ。家族全員でダンジョンの近くへ引っ越せって」
奥で何かを置く音がした。
父が居間へ来るまでに、母はテレビを消した。さっきまで映っていたダンジョン周辺の規制情報が、黒い画面の中へ消える。
「理由は」
座った父は、前置きを飛ばした。
「俺の家が襲われた」
母の顔から、さっきまでの呆れが消えた。
父は何も言わず、続きを待っている。
「ちょっと質の悪い外国人に目を付けられてさ、ダンジョン絡みなんだけど、国レベルの団体さんに狙われてる」
「警察は?」
「来た。とりあえず襲って来た奴は全員捕まえて引き渡してる」
「透は」
「怪我はない、息子が狙われてるのに反応薄いな」
母が俺の腕や顔を見る。服の下まで確かめようとはしなかったが、信じた様子もなかった。
「いい年した大人が何拗ねてるんだい。それで、どうして私たちが引っ越す話になるの」
「普通に家族の事で脅されたし、俺の家知ってたし」
「久々にその尻を張り倒したくなって来たね」
「やめて下さい、死んでしまいます」
「頼める立場かい?」
声が少し高くなった。
俺はコップへ手を伸ばしたが、飲まずに置いた。喉が渇いているわけではなかった。
「次も俺の家に来るとは限らない。俺に直接手を出すより、家族を使った方が簡単だと考える相手はいる」
「簡単って……」
「俺にとっては、そうなる」
母の眉間にしわが寄った。
「そういう言い方はするもんじゃない」
「ごめん」
「自分だけで分かったような顔をして、いきなり引っ越せって言われても困るの。こっちにも生活があるのよ」
分かっているつもりだ。
この家には、父と母が何十年も使ってきた家具があり、近所付き合いがあり、通っている病院や店がある。俺が危険だと言えば、その全部を畳んで動いてくれるほど軽い生活ではない。
「完全に家を手放せとは言ってない。しばらく向こうで暮らして、状況が落ち着けば戻る方法もある」
「しばらくって、どれくらい」
「分からない」
「じゃあ駄目じゃない」
「ぐう」
母が口を閉じた。
言い方を間違えたと思ったが、言い直しても意味は変わらない。
父がテーブルの上で指を組んだ。
「国の管理している付近なら、安全なのか」
「うん、一応伝手があって、何かあれば助けてくれる」
「絶対ではない」
「絶対ではないよ」
父はそれ以上聞かず、視線を落とした。
母は父を見たが、すぐには助け舟を出してもらえないと分かり、俺へ向き直る。
「すみれは大学があるでしょう」
「通える場所を探してもらってる。難しければ、すみれだけ別の保護も考える」
「本人には?」
「まだ話してない」
「それを先にしなさいよ」
「母さんたちが断ったら、すみれだけ説得しても意味がないだろ」
「意味はあるでしょう。あの子はあの子なんだから」
それはそうだった。
すみれは家族の中で一番軽く動きそうに見えるが、自分だけ避難しろと言われて素直に従うとも限らない。面白そうだから行くと言い出す可能性もあり、それはそれで話がややこしくなる。
母は腕を組み、俺の顔を見た。
「前に帰ってきた時、そんな話はしなかったじゃない」
「その時は、ここまで必要だと思ってなかった」
「今回は思ったのね」
「ああ」
「七人来たから?」
「それだけじゃない」
装備の価値は上がり、俺が持っている情報を欲しがる相手も増えている。政府との関係が知られれば諦める相手もいるが、逆に価値があると判断する相手もいる。
「これから先、もっと増える可能性がある」
母は返事をせず、テーブルを指先で二度叩いた。
「その家はどんなところなの」
「まだ決まってない。候補はいくつかあるらしい。普通の集合住宅か、一戸建てになるかも分からない」
「買い物は?」
「周辺に店はある」
「病院」
「ある」
「お父さんの仕事は?」
父が横から口を挟んだ。
「俺はもう毎日出る仕事じゃない」
「そういう問題じゃないでしょ」
「まあ、第二の人生ってのも悪くは無いな」
父は俺ではなく母へ答えた。
母の顔が険しくなる。反対されると思っていた相手が、先に移る可能性を考え始めたのが気に入らないらしい。
「あなた、行くつもりなの?」
「まあ何だ、透、今楽しいか?」
「正直言って、最高に」
「はあ……馬鹿ばっかりだよ、本当に。あなたはいっつも肝心な所で、子供の……」
夫婦の話になりかけたところで、俺はポケットからスマートフォンを取り出した。
本当は、もう少し自分で説得するつもりだった。
母の質問は生活の話へ移っている。完全に拒絶しているわけではないが、ここから先は俺が答えるより、実際に手配する側から説明された方が早い。
「詳しい条件は、担当者から説明してもらえる」
「担当者って誰」
「国側の窓口」
「今から?」
「ああ」
母が目を細めた。
「最初から呼ぶつもりだったのね」
「俺だけじゃ信用が足りないと思って」
「自覚はあるのね」
「一応」
連絡先を開き、登録してある番号を押す。
二度目の呼び出し音で、村瀬が出た。
『はい、村瀬です』
「戸張です。今、実家に来ています」
『予定より早かったですね』
「話はしました。母が住居と生活環境を気にしています」
向かいで母が手を伸ばした。
「貸しなさい」
スマートフォンを渡すと、母は耳へ当てる前に一度画面を見た。表示された名前だけでは信用できなかったのか、通話をスピーカーへ切り替えてテーブルに置く。
「もしもし、戸張透の母です」
『初めまして。戸張さんの窓口を担当しております、村瀬と申します』
「息子から、国が管理しているダンジョンの近くへ引っ越せと言われまして」
『正確には、周辺の警備体制を利用できる地域への一時的な転居をご提案しています』
俺が言うより、ずっと穏当な表現だった。
「一時的って、どのくらいの期間になるのでしょうか」
『期限を断定できる状況ではありません。ただ、現在のお住まいに比べて安全を確保しやすく、生活への影響が少ない候補を複数ご用意します。実際に見ていただいたうえで、お断りいただくことも可能です』
「あら、断ってもよろしいんですか?」
『強制ではありません』
村瀬は一拍置いた。
『ただし、今回の襲撃を受け、私どもとしても転居を強くお勧めします』
母が俺を見た。
「お国の人も、そんなに危ないと?」
『戸張さん本人への直接襲撃だけで終わると判断できる材料がありません。ご家族の安全を優先するなら、現在の住居より警備しやすい場所へ移っていただく方が確実です』
「穏やかな話しではありませんね」
『ええ、しかし一般住宅地での常時警護は、ご近所や生活への影響が大きくなります。警護対象として分かりやすくなる問題もありまして』
母は何も言わなかった。
村瀬の説明は、俺が言おうとしていた内容とほとんど同じだった。それでも、受け取られ方は違う。
『転居費用、現在のお住まいの維持、通院や通勤、大学への通学についても個別に調整できます。まずは候補地をご覧いただくだけでも構いません』
「家を空けたままにしてもいいんですか」
『はい。売却や解約をお願いするものではありません』
「いつ見に行けます?」
『最短であれば、明日にも手配できます』
母が顔を上げた。
俺と父が黙って見ていることに気づき、少しだけ嫌そうな顔をする。
「見るだけですからね」
『もちろんです』
通話を終えると、母はスマートフォンを俺へ返した。
「最初から、あの人に全部話してもらえばよかったじゃない」
「俺が来る意味がないだろ」
「説得できてないでしょう」
「電話だけ来てもあんな話、詐欺にしか思えないだろ」
「わたしゃまだ疑ってるわよ。電話だけじゃね」
父が小さく笑った。
母はそちらを睨んでから、立ち上がる。
「明日見に行くなら、すみれにも連絡しないと。あの子、変なところだけ面白がるから、余計な言い方しないでよ」
「余計な事を聞かれる心配をして」
「上手く避けな。にいちゃんが狙われてる、なんて言ったら絶対駄目だからね」
「言える訳無いだろ、勘弁してくれ」
「せいぜい怯えながら反省してな」
母は文句を言いながら台所へ向かった。引っ越すとはまだ言っていないが、冷蔵庫に貼ってある予定表を外すと、明日の欄へ何かを書き始めた。




