第276話 交渉の成果
ホテルを出た男は、戸張の姿が駅前の人混みに消えるまでその場に立っていた。
最後に言われた言葉が、耳に残っている。
『正式な窓口から話が来たら、そのときは内容を見て考えます』
完全な拒絶ではなかった。
しかし、自分との取引は拒否された。
金額も待遇も聞こうとせず、被害状況を説明しても態度を変えない。それどころか、最後には家族への言及を脅迫として受け取り、交渉を打ち切った。
男は舌打ちを堪えながら、ホテルを離れた。
近くに借りている部屋へ戻り、上着を脱ぐ前に端末を取り出す。報告先として指定されていた番号を呼び出すと、数回の呼び出し音のあと、低い声が返ってきた。
『結果を報告しろ』
「接触には成功しました」
『それは聞けば分かる。成果は』
男は一瞬だけ答えを選んだ。
「本人は、高階層由来物品の供給について、完全に否定しているわけではありません。少なくとも正式な手続きと用途の確認があれば、一部提供を検討する余地があると発言しました」
通話の向こうで、短い沈黙があった。
『本人がそう言ったのか』
「はい。ただし、日本政府を窓口にすることを条件にしています。こちらの会社名義による直接取引には応じませんでした」
『当然だ』
返ってきた声には、呆れが混じっていた。
「しかし、政府間の交渉では時間がかかります。私から継続して接触すれば、条件を――」
『待て。お前は何を話した』
男はわずかに眉を寄せた。
「提示可能な金額と待遇です。本人が望むなら、住居、警備、事業支援、家族への保障も用意できると説明しました」
『家族への保障?』
「はい。本人は家族への言及に反応しました。交渉材料として有効だと思われます」
通話の向こうから返事が来なかった。
「もし次回、もう少し強い形で――」
『誰が家族を交渉材料にしろと言った』
声が低くなった。
「危害を加えるとは言っていません。今後の安全を考えれば、こちらとの協力が最善だと――」
『それを脅迫と言う』
男の口が止まった。
『命令は、本人を傷つけず、供給経路を失う行動を避けながら接触することだった。お前は初回の接触で家族を持ち出し、相手に警戒させた』
「ですが、完全に交渉を打ち切ったわけではありません」
『お前との交渉を打ち切ったのだろう』
その一言で、男の表情が固まった。
『本人は正式ルートなら交渉の余地があると言った。それだけで十分だ』
「私が引き出した回答です。次の接触も私が担当すれば――」
『必要ない』
「しかし」
『分かった。本国には私が話を伝えよう』
男は端末を握る手へ力を込めた。
「今回の報告には、私の名前を――」
『報告書は提出しろ。あとは指示を待て』
通話は一方的に切れた。
静かになった室内で、男はしばらく端末を耳に当てたまま動かなかった。
正式ルートであれば交渉の余地があるという回答を引き出したのは自分だ。戸張を見つけて接触場所を選び、直接話し、条件まで聞き出した。それなのに、上司は成果だけを本国へ持っていくつもりだった。
「ふざけるなよ」
端末を机へ放り投げる。
最初から慎重すぎると思っていた。
戸張は軍人でも官僚でもない。ただの民間探索者だ。少し深い層まで潜ることができ、日本政府へ珍しい物を流しているというだけの男に、なぜそこまで気を使う必要があるのか。
金を積めば動くと思っていたし、それで駄目なら家族や生活へ触れれば、自分がどれほど無防備な立場にいるか理解するはずだった。
それなのに、戸張は最後までこちらを見下していた。
『何を出されても、あなたとは無理です』
思い出すたびに苛立ちが増す。
男は冷蔵庫から酒を取り出し、グラスも使わずに口へ運んだ。
一杯目を飲み干しても腹の中の熱は消えなかった。二本目を開け、上司への不満を口にしながら部屋の中を歩き回る。
自分が危険を冒して接触したのに、成果は奪われる。本国へ報告が上がれば、上司は慎重な交渉によって供給の可能性を見つけたと説明し、自分の名前など報告書の端に残ればまだ良い方だろう。
「何が供給源だ。少し珍しい物を持ってるだけだろうが」
酒が進むにつれ、怒りの向きは上司だけではなくなっていった。
戸張が最初から素直に応じていれば、こんなことにはならなかった。金額を聞き、条件を出し、少しでも品物を渡すと約束していれば、自分が叱責されることもなかったはずだ。
家族の話を出された程度で脅迫だと受け取り、こちらを犯罪者のように扱った戸張にも責任がある。酔いが回るほど、その考えが正しいように思えてきた。
「一回、痛い目に遭わせれば分かるんだ」
誰もいない部屋で口にすると、胸の中にあった苛立ちが少し軽くなった。
殺す必要はない。骨の一本か二本でも折り、周囲の人間を少し怖がらせればいい。自分がどれほど無防備な立場にいるかを理解させたあと、改めて条件を提示すれば態度も変わる。
正式ルートの交渉が始まる前なら、まだ間に合う。
男は端末を拾い上げ、登録されていた別の番号を呼び出した。
数回の呼び出し音のあと、眠そうな声が応じる。
『誰だ』
「俺だ」
『こんな時間に何の用だ』
「例の奴の件だ」
相手が黙った。
「そう、日本人の探索者だ。少し身の程を分からせてやれ」
『上からの許可は』
「必要ない。殺せとは言っていない」
『相手は探索者なんだろ』
「少し深くまで潜れるだけの民間人だ。数で囲めばどうにでもなる」
男は椅子へ座り、残っていた酒を口へ流し込んだ。
「本人だけじゃなく、近くにいる人間を使ってもいい。ただし、取り返しがつかないことはするな。怖がらせて、本国からのお願いを喜んで受けるようにしろ」
『面倒なことにならないか』
「こちらで処理する。成功すれば報酬も出す」
相手は少し考えたあと、場所と行動時間を調べる必要があると答えた。
「急げ。正式な交渉が始まる前にやれ」
通話を切る頃には、男の気分はかなり良くなっていた。
上司に成果を奪われても、戸張が自分から条件を受け入れる状態を作れば、交渉を進めたのは自分だと証明できる。戸張も二度と、あのような態度は取らないだろう。
男は端末を握ったまま、ソファへ深く沈み込んだ。
酒瓶はいつの間にか空になっていた。瞼が重くなり、室内の照明を消すこともなく、やがて意識は途切れた。
呼吸が一定になった頃、髪の一部に紛れていた黒い糸が、ゆっくりと色を失い始めた。
数本の髪に絡みついていた群体は擬態を解き、白く細い形へ戻る。眠る男の首筋から頬へ移動し、閉じられた瞼の縁で止まった。
男が戸張本人への襲撃を指示し、その周囲にいる人間まで利用しようとしたことは、群体の中に情報として残っていた。戸張や家族、知人へ実際の危害が及ぶ可能性は、すでに無視できるものではない。
白い糸は瞼の隙間へ入り込み、眼球の表面を越えて奥へ進んだ。
男の指が一度だけ動いたが、それ以上の反応はなく、室内には一定の呼吸音だけがしばらく残った。
翌朝、報告の電話が鳴り続けても男は応じなかった。
戸張と、その周囲にいる人間へ危害を加えるよう命じた男が、再び目を覚ますこともなかった。




