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寄生虫と行く現代ダンジョン  作者: 脳タリン


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第272話 人間の範囲

 前回より出席者の増えた会議室では、開始前から資料をめくる音が途切れなかった。


 スポーツ庁、厚生労働省、文部科学省、警察庁、防衛省、消防関係。異常空間そのものを担当してきた部署だけでなく、これまで探索者制度とは距離のあった担当者も席についている。


 大型画面には、前回正式に認定された一文が表示されていた。


『異常空間内における身体機能増強を確認』


 その下には、帰還後にも一部の変化が残留している可能性が高いという追記がある。


「まず確認しておきたいのですが」


 内閣府側の進行役が口を開いた。


「今日の議題は、この現象をどう防ぐかではありません。現時点で防ぐ方法も、元へ戻す方法も確認されていません」


 何人かが資料から顔を上げた。


「異常空間へ入った人間の身体能力が変化し、その一部が外でも残る。この前提に立った場合、既存制度のどこに影響が出るのか。それを洗い出します」


 最初に手を挙げたのは、前回から参加している警察庁の担当者だった。


「警察としては、すでに現場対応基準の見直しに入っています。ただ、現時点では探索者を一律に特別扱いする方向ではありません」


「理由を聞いても?」


「能力差が分からないからです」


 即答だった。


「探索者だからといって、全員が同程度に強くなるわけではない。活動期間だけでも判断できず、階層、戦闘経験、その他の条件との関係も分かっていません。それなのに探索者登録だけを理由に危険度を引き上げれば、過剰対応になります」


「しかし、実際に一般人を超える可能性はある」


「ですから、そこが難しい」


 警察庁の担当者は手元の資料を開いた。


「我々が慣れているのは、ある程度予測できる範囲の個人差です。体格が大きい、格闘技経験がある、筋力が強い。その程度なら、事前情報や現場の観察で対応を変えられます」


 そこで一度言葉を切った。


「探索者の場合、その見た目と実際の能力が一致する保証がありません」


 会議室の何人かが黙って資料へ視線を落とした。


 細身の人間が外見から想像できない重量を持ち上げたり、平均的な体格の人間が通常では追いつけない速度で動いたりする可能性があるうえ、その差が今後どこまで広がるのかも分かっていない。


「今までは、人間の個人差にもある程度の上限があることを前提にしていた、ということですか」


 進行役の問いに、警察側は頷いた。


「そうです。厳密な数字を決めていたわけではありません。しかし装備も人数配置も訓練も、最終的には人間を相手にすることを前提に作られています」


 その言葉に、消防関係の出席者が反応した。


「それは救助も同じですね」


 視線が集まる。


「担架の規格や救助方法という意味ではありません。救助される側ではなく、救助する側です。探索経験者が消防に入れば、単純な身体能力だけなら有利になる可能性がある」


「採用の問題ですか」


「採用だけでは済まないでしょう」


 消防側の担当者は資料を指で押さえた。


「同じ訓練を受けた二人のうち、一人だけが探索経験によって明確に高い身体能力を持っている場合、現場では当然そちらの方ができる仕事が増えます。重い資機材を運べる、長く動ける、救助速度も上がる。それ自体は組織にとって利益です」


「では、積極的に採用すればいいのでは?」


 別の出席者の言葉に、消防側はすぐには答えなかった。


「それを始めたら、採用されたい人間が何をすると思いますか」


 会議室が静かになった。


 今度は厚生労働省側の担当者が資料から顔を上げた。


「異常空間へ入りますね」


「おそらく」


「身体能力を上げるために」


「可能性はあります」


 そのやり取りを聞きながら、進行役がペンを止めた。


 探索者になりたいわけでも、探索そのものに興味があるわけでもなく、就職や昇進、競争で有利になるために異常空間へ入るという、これまでとは異なる動機が生まれる可能性があった。


「その時点で、異常空間への入域を単なる探索活動として扱えなくなりますね」


 厚生労働省側の担当者が言った。


「身体能力が収入や採用に影響する職種は消防だけではありません。警備、建設、運送、そのほかにも体力が評価される仕事は多い。探索経験者が明確に有利だという認識が広まれば、本人の自由意思だけで済むかという問題も出てきます」


「会社が入れと言い出す?」


「直接命令する会社が出るかどうかは分かりません。ただ、『探索経験者優遇』が一般化すれば、実質的に入らざるを得ない人間は出るでしょう」


 誰かが小さく息を吐いた。


「危険な場所へ入って身体を強くしないと仕事で不利になる、と」


「極端に言えば、そういう社会になる可能性があります」


 その言葉を境に、会議室の空気が少し重くなった。


 異常空間はモンスターが存在し、人が死ぬこともある場所であり、本来なら危険を理解した者が自分の意思で入るものだった。しかし、そこで得られる変化が本人の身体そのものに残り、現実で利益につながるのであれば、これまでと同じ考え方では扱えなくなる。


「スポーツは、それがもっと直接的です」


 スポーツ庁の担当者が口を開いた。


 手元には、複数の競技団体から寄せられた照会内容がまとめられている。


「現時点ではまだ公表前の情報も多いため、具体的な方針を求められているわけではありません。ただ、探索者の身体能力については以前から映像や噂が出ています。競技団体の一部は、すでに問題を認識し始めています」


「探索経験者の出場を禁止する話ですか」


「それを決められないから問題なんです」


 スポーツ庁の担当者は首を振った。


「一度でも異常空間へ入った人間を禁止するのか、一定期間以上活動した人間なのか。それとも能力増強が確認された人間だけを対象にするのか。どの基準にも問題があります」


 研究側の担当者が補足する。


「現在確認できている限りでは、入域しただけで一律に同じ変化が起こるとは言えません。増強幅には個人差がありますし、外で残留する変化にも差があります」


「つまり、一度入っただけの人間まで排除する根拠はない」


「はい」


「では測ればいい、という話も前回出ましたが」


 スポーツ庁側の言葉に、研究担当者は難しい表情を見せた。


「能力が高いことと、異常空間によって高くなったことを分離できません」


 元から足が速い人間も筋力に優れた人間もいるため、探索以前の正確な記録が残っていなければ、現在の能力が本人本来のものなのか、異常空間によって変化したものなのかを後から証明することは難しい。


「しかも、内外比較にも限界があります」


「手を抜けるからですね」


「ええ。内部で最大能力を出さなければ、差を小さく見せることはできます」


 スポーツ庁の担当者は腕を組んだ。


「禁止しても、判別できない可能性がある」


「現時点では」


「では逆に、認めるという選択肢は?」


 その問いに、しばらく答えが出なかった。


「探索経験者も普通に競技へ参加させる。その場合、どうなりますか」


 進行役が問い直す。


 スポーツ庁側の担当者は、少し考えてから答えた。


「勝ちたい選手ほど、異常空間へ入る理由ができます」


 競技で結果を残し、代表に選ばれ、記録を更新して契約を得たいと考える選手にとって、身体能力の向上が見込める場所の存在は無視できない。本人が望んでいなくても、結果を求める周囲が入域を勧める可能性まであった。


「ドーピングとは違うんですか」


 文部科学省側から質問が出た。


「似ている部分はありますが、同じには扱えません」


 スポーツ庁の担当者は答えた。


「薬物なら禁止物質を定め、検査するという考え方ができます。ですが探索経験そのものを体内から検出する方法はありませんし、確認されている変化も本人の身体機能そのものです」


「一度変わった身体を元に戻せないなら、出場停止期間を設けても意味がない可能性もある」


「そうです」


 誰かが資料の端を指で叩いた。


「これ、競技によって全然違いませんか」


「違います」


 スポーツ庁側は頷いた。


「身体能力への依存度が高い競技ほど影響は大きいでしょう。ただ、反応速度や持久力まで対象になるなら、完全に無関係と言える競技を探す方が難しいかもしれません」


 議論が止まりかけたところで、厚生労働省側の担当者が口を開いた。


「一つ確認したいのですが、この問題は競技選手だけを対象に考えていいんでしょうか」


「どういう意味です?」


「子供です」


 何人かの表情が変わった。


「今後、異常空間へ入れる年齢や条件が緩和された場合、身体能力の向上が広く知られれば、親が子供に探索経験を求める可能性があります」


「まだ年齢制限があります」


「今は、です」


 返答は静かだった。


「それに、制度上入れない年齢の話だけではありません。高校や大学で競技を続けるために、十八歳になった途端に入域する者が増えるかもしれない。就職に有利だからと考える人間も出るでしょう」


 進行役は、ここまでの議論を画面横の記録へ追加していった。


 治安では相手の能力を外見から判断できず、採用や労働では探索経験そのものが有利な経歴になり得る。スポーツでは公平性を守ろうとしても対象者を確実に判別する方法がなく、異常空間へ入ることに利益があるという認識が広まれば、本来の探索とは異なる理由で入域を望む人間が増える可能性まで考えなければならなかった。


「今すぐ答えを出せる話ではありませんね」


 進行役が言った。


「というより」


 研究側の担当者が画面を見ながら口を開いた。


「これまで、考える必要がなかったんだと思います」


「何をです?」


「人間の身体能力に差があることは、誰でも知っています」


 研究担当者は少し言葉を選んだ。


「ですが制度を作る側は、その差がどこまでも広がるとは考えてこなかった。ものすごく強い人間や速い人間がいたとしても、最終的には同じ人間の範囲に収まるという前提があったはずです」


 誰も口を挟まなかった。


「その前提が、本当に今後も使えるのか。それを確認しなければならないんじゃないでしょうか」


 大型画面には、現実側と異常空間内で測定された数値に加え、探索を始める以前の本人記録を重ねたグラフが残っていた。同じ人間から得られた数字でありながら、その間には無視できない差が存在している。


 内閣府側の進行役はしばらく画面を見たあと、次回までの検討項目へ新しい一文を加えた。


『身体能力増強を前提とした既存制度への影響整理』


 異常空間が現れる以前、人間が突然それまでの限界を超えて強くなることを前提に作られた制度はなかった。


 今後もその前提を使い続けられるのかを、社会の側が考えなければならなくなっていた。

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