第271話 能力差
最後の測定を終えた探索者が、センサーの付いたベルトを外して台の上へ置いた。
異常空間の入口から少し離れた場所には、現実側とほぼ同じ測定機器が並べられている。握力、跳躍、短距離加速、荷重保持、反応速度など、一度だけ測って終わりではなく、時間を空けたり条件を変えたりしながら、同じ対象者に対して何度も測定を繰り返してきた。
今日が、その最後だった。
「お疲れさまでした。これで終了です」
「はい。じゃあ、戻っていいですか?」
「大丈夫です。ありがとうございました」
担当者が頭を下げると、探索者は軽く会釈して出口へ向かった。
扉が閉まる。
残った職員の一人が、端末へ送られてきた測定結果を確認した。
しばらく誰も何も言わなかった。
「……これで、数値は出揃いましたね」
「ああ」
画面には、探索経験が浅い者から一層を中心に活動する者、二層以降へ継続して入っている者まで、これまで何度も確認してきた傾向が並んでいた。
対象者には、元自衛官で探索者になる以前から細かな身体記録を残していた深町浩一をはじめ、長期的な比較が可能な者も含まれている。
測定人数を増やし、検証期間も延ばした。探索を始めたことで訓練量が増えた影響も考慮し、体調や睡眠、食事、測定時間についても可能な限り条件を揃えてきた。
それでも、結果は変わらなかった。
「やっぱり、そうだよなぁ」
誰かが小さく漏らした。
その言葉を咎める者はいなかった。今さら驚くような話ではなかったからだ。
異常空間へ入ると身体が軽く感じる。普段より力が出て、長時間動いても疲れにくく、反応まで速くなったように思える。
探索者からそうした申告が出始めたのは、ずっと前だった。
実際、初期の測定段階から数値にも一定の傾向は出ていた。
ただ、当時は対象者が少なく、探索を始めたことで体を鍛えるようになった者も多かった。異常空間という特殊な環境に入ることで、一時的に緊張状態となり、本来以上の能力を発揮している可能性も否定できなかった。
そのため結論を急がず、対象者と測定回数を増やしながら検証を続けてきた。
一人の職員が、過去の報告書を開いた。
そこには、可能性がある、傾向が認められる、追加検証が必要、現時点では断定できないといった慎重な表現が何度も使われている。
「目を逸らしてきたつもりはありませんが」
測定責任者が画面を見たまま言った。
「結果としては、似たようなものだったのかもしれませんね」
誰も否定しなかった。
数値そのものは以前から存在していた。問題は、その数値が何を意味しているのかだった。
異常空間の中で人間の身体能力が向上すると正式に認めれば、それは探索者制度だけの話では済まなくなる。
担当者の一人が椅子へ深く座った。
「政府も、もう目を逸らし続けることはできないな」
「ええ」
責任者は報告書の最終欄を開いた。
これまで使われていた文章を削除する。
『異常空間内における一時的身体機能変化の可能性』
数秒迷ったあと、新しい文章を入力した。
『異常空間内における身体機能増強を確認』
続いて、もう一つの項目を開く。
こちらはさらに慎重に書かれていた。
異常空間から帰還した後の数値と、探索を始める以前の記録、数か月前の測定値、そして現在の測定結果。それらを比較すると、内部で確認されるほど大きな差ではなく個人差もあるものの、長期間活動を続けている者ほど、現実側でも過去の本人記録を上回る傾向が積み重なっていた。
「こちらも入れますか」
「入れない理由がない」
「表現は?」
責任者は少し考えた。
「断定できる範囲だけでいい。帰還後も、一部の変化が残留している可能性が高い。それ以上は書くな」
「分かりました」
入力音が続いた。
探索者がなぜ強くなるのかは分からない。何をきっかけに変化し、どこまで伸びるのかも不明で、同じ期間活動していても個人差がある。階層や戦闘回数との関係についても、現時点では十分に整理できていなかった。
それでも、異常空間へ入り、継続して活動した人間の身体に変化が生じること自体は、もう曖昧にはできない。その変化は異常空間内でより強く表れ、一部は現実へ戻った後にも残っている。
報告書が保存された。
「上げます」
「お願いします」
データは、すでに設定されていた共有先へ送られた。
共有先には研究部門だけでなく、異常空間対策を担当する政府部門をはじめ、警察、防衛、厚生労働、文部科学の関係部署も含まれている。
これまで参考情報として共有されていた測定結果が、初めて事実認定を伴う報告書として送られた。
◆
同日午後、政府内の会議室では、送られてきた報告書が大型画面へ映されていた。説明役の職員が最後のページを表示する。
「以上から、異常空間内における探索者の身体機能増強について、今後は確認済みの現象として扱います」
大きな反応はなかった。
参加者のほとんどが、似た話をすでに何度も聞いていた。
報告書になる前から探索者の映像は数多く存在しており、普通なら転倒しかねない速度で走る者や、重い装備を身につけたまま長時間活動する者、大型の武器を扱う者も確認されていた。
異常空間の中で人間の動きが変わっていること自体は、すでに誰の目にも明らかだった。
問題は、それがどこまで一貫した現象なのかという点だった。
「……やはり、確定しましたか」
内閣府側の担当者が息を吐いた。
「はい。ただし原因、発生条件、上限については不明です」
「帰還後については?」
「内部ほどではありませんが、長期活動者を中心に、過去の本人記録を上回る状態が継続しています。現時点では、完全に元へ戻っているとは言えません」
資料をめくる音が重なった。
一人が小さく呟いた。
「そこも、やっぱりか」
その声には驚きよりも、諦めに近いものが混じっていた。
警察庁側の出席者が手を上げた。
「確認します。今後、探索者については、一般成人と同じ身体能力を前提に現場対応を組むべきではない。そう理解して構いませんか」
「少なくとも、継続的に活動している探索者については、その前提で考える必要があります」
「分かりました」
答えは短かったが、その場にいた何人かが警察側へ視線を向けた。
「随分、早いですね」
「早くはありません」
警察庁の担当者は資料から目を上げた。
「こちらも以前から想定はしていました。今日から、その想定を正式な前提へ変えるだけです」
別の出席者が口を開いた。
「探索者を危険人物として扱う、という意味ではありませんよね」
「当然です」
返答は即座だった。
「善良な人間でも、制止しなければならない状況はあります。酒に酔うこともあれば、事故で興奮状態になることもある。精神状態を崩すこともあるでしょう。そのとき、こちらが相手の力を知らないまま対応するわけにはいきません」
会議室が静かになった。
「通常の成人男性を想定した人数や拘束方法、装備がそのまま通用しない可能性がある。それだけです」
「探索者ごとの能力測定結果を共有することになりますか」
「そこは別問題です」
警察側の担当者はすぐに首を振った。
「必要だからといって、全探索者の身体能力を警察が常時把握する制度を作れば、事実上の監視対象になります。そこまで進めるなら、相応の根拠と議論が必要です」
内閣府側の担当者が頷いた。
「まずは現場対応の基準見直しですね」
「はい。一般人より強い可能性がある、という前提だけでも変えられる部分はあります」
そこで、これまで黙って資料を見ていた人物が手を挙げた。
「一つ、よろしいですか」
文部科学関係の席だった。
「今回確認された身体能力の変化ですが、当然、競技にも影響しますよね」
会議室の空気がわずかに変わった。
誰かが資料をめくる手を止めた。
「陸上、競泳、格闘技、重量競技だけではありません。反応速度や持久力まで変化するのであれば、ほとんどのスポーツが無関係ではいられません」
「それは……そうでしょうね」
「探索経験者をどう扱うんですか」
すぐには答えが返らなかった。
質問した本人も、簡単な答えがあるとは思っていないようだった。
「異常空間内と外で数値を比較すれば、ある程度は判別できませんか」
別の出席者が言った。
研究側の担当者が少し間を置いた。
「可能性はあります。同一人物について内外で複数項目を測定し、通常の測定誤差を超える差が一貫して出れば、増強を受けている可能性は高く判断できます」
「なら、それを基準に――」
「ただし」
研究側の担当者が遮った。
「本人が、異常空間内で全力を出していると証明できれば、ですが」
言葉が止まった。
「……手を抜ける?」
「握力でも走力でも、最大出力を出したという客観的な証明は困難です。外で百出せる人間が、内部では本来百二十出せるとしても、内部の測定で百しか出さなければ差は消えます」
「反応速度や心拍などは?」
「組み合わせれば精度は上げられます。ただ、それを競技資格の剥奪や失格判定に使えるほど確実かと聞かれれば、現時点では答えられません」
誰かが椅子にもたれた。
「簡単にはいかないか」
「むしろ、かなり難しいと思います」
文部科学関係の担当者が資料を閉じた。
「少なくとも、今日ここで扱える話ではありませんね」
内閣府側の担当者も、しばらく資料を見てから頷いた。
「……次回、関係する部署を増やしましょう」
「スポーツ庁も?」
「当然です」
会議資料の一番下に、新たな検討事項が追加された。
身体能力の増強そのものは、もう誤差として扱えない。原因も上限も分からないまま、異常空間へ入った人間自身が変化し、その一部を現実へ持ち帰っているという事実を、政府は正式な前提として扱い始めることになった。




