第270話 当たり前になったもの
核を覆っていた白い糸の動きが、少しずつ緩やかになっていく。それを眺めているうちに、さっきまで身体の奥を満たしていた熱も急に引き始めた。
「……あー」
断骨刀を肩から下ろすと、途端に重さを感じた。戦っている最中は何度振っても気にならなかったはずなのに、今は両腕から肩、背中までまとめて重りをぶら下げられたように怠い。呼吸も落ち着き始め、空から落ちている時や断骨刀を振り回していた時の、何をしても身体が動くような感覚はもう残っていなかった。
興奮している間に身体を動かしていた脳内物質か何かが、一気に抜けたらしい。よく考えれば、あの高さから自分で飛び降りて、そのまま巨大な植物の上で叫びながら大鉈を振り回していた。
「……元気だったな、俺」
今やれと言われたらかなり考えるだろう。断骨刀を横へ置いて巨大植物の裂けた表面へ腰を下ろし、白鎧も必要な部分を残して縮めると、それだけで身体が少し軽くなった気がした。
足元では核の吸収がほとんど終わっている。黒に近い深緑色だった塊は大部分を白い糸に覆われ、砕けた部分から少しずつ崩れていた。そのたびに寄生体から、満足しているのが嫌でも分かるほどの感覚が返ってくる。
「……満足そうだな」
そこで、ふと引っかかった。
今の俺は、こいつが満足していると何の疑問もなく理解していた。
最初の頃に伝わってきたものはもっと単純だったはずだ。腹が減ったとか、食べたい、嫌だ、嬉しい、その程度の違いしか分からなかったと思う。それがいつからか、気になるものを見つければ期待し、止めれば不満を示し、上手くいけば喜ぶようになった。俺が何かを言えば、その意味まで理解しているように反応が変わることも珍しくない。
しかも俺は、それをずっと普通に受け入れていた。
「……いつからこうなった?」
考えても、はっきりした境目は思い出せなかった。たぶん少しずつだったからだろう。昨日まで分からなかったものが突然分かるようになったのではなく、気づけば一つ増え、その次にまた一つ増えて、そのたびに俺も慣れていった。
今では何かを見つけた時にこいつがどう反応するか何となく予想しているし、それを前提に行動することさえある。そう考えた瞬間、背中に戦いとは別の冷たいものが走った。
「……怖いな、これ」
俺の身体の中には、最初から俺ではないものがいる。寄生されているという、本来ならそれだけで十分に異常な状態なのに、いつの間にかこいつの感情を読み取ることも、その存在を前提に考えることも日常になっていた。
こいつが変わったのか、それとも俺の方が変わったのかは分からない。たぶん両方なのだろうと思えてしまうことも含めて、少し怖かった。
そう考えている間、寄生体から伝わってくる感覚は妙に静かだった。それすらこちらの様子を窺っているように感じてしまうのに、嫌悪感は湧いてこない。
むしろ、そのことの方が怖いのかもしれなかった。
俺は一度大きく息を吐いて、周囲を見渡した。
巨大植物はゆっくりと枯れ始めている。さっきまで俺を叩き落とそうとしていた蔓は力なく垂れ下がり、濃い緑だった葉も端から色を失っていた。周囲の木々へ巻きついていた蔓が緩むにつれて、何重にも重なっていた枝葉の間には少しずつ隙間が生まれている。
遠くでは巨大な根が沈んでいた泥へ水が戻り始め、何キロにもわたって広がっていた一つの身体が死んでいくことで、この辺り全体の姿までゆっくりと変わり始めていた。
やがて、覆われていた空が見えた。
湿地の上には思っていたより広い空があり、雲の切れ間から差し込んだ光が濡れた葉や水面に反射している。大型の鳥型が何羽か戻ってきて、その高いところをゆっくり旋回していた。
人間として普通に生活していた頃なら、絶対に見ることのなかった景色だ。まして巨大な植物の上に座り、隣に大鉈を置いて、身体の中に寄生生物を抱えた状態で眺めることになるなんて想像したこともない。
「まあ……こんな景色は、そうでもないと見れないよな」
口にすると、不思議と少し納得できた。
自分が何を失ったのか、どこまで変わってしまったのかは分からない。それでも、ここまで来なければ見られなかったものが確かにあると思えば、さっき感じた怖さだけですべてを否定する気にもなれなかった。
しばらく空を眺めてから立ち上がる頃には、核の吸収も終わっていた。
「さて、今度は何が増えた?」
試しに右手から一本だけ白い糸を伸ばす。いつも通りのつもりだったが、数メートル先まで伸びたところで先端が二つに分かれ、そこからさらに枝分かれを始めた。
「……おいおい」
二本から四本へ、そこからさらに細かく分かれ、白い糸が木の根を逆さまにしたような形で空中へ広がっていく。
意識を向けてみると、それぞれを別々に動かすこともできた。右側だけを曲げながら左側を伸ばし、中央の数本だけを地面へ下ろしても、以前のような扱いにくさがほとんどない。
一本から作れる枝の数だけでなく、それぞれへ力を伝える感覚そのものが変わっている。
試しに何本かを断骨刀へ絡ませてみると、手首から腕、肩へ伸びた白い糸と柄へ巻きついた糸が繋がり、武器の重さを支える力が何本にも分散した。
「……これ、もっと楽に振れるな」
今度は別の糸を地面へ這わせ、途中から何本も枝分かれさせてみる。
広げたうちの一本へ枯れかけた蔓が落ちた瞬間、どこに触れたのかが分かった。
「ん?」
見ていたからではない。
糸へ何かが触れて僅かに押された感覚が、離れた俺まで伝わってきている。何が触ったのかまでは分からないが、どの辺りへ、どの程度の力が加わったのかは大まかに感じ取れた。
目の前に広がった白い糸を見ながら、さっきまで戦っていた巨大植物を思い出す。
あいつも、こうして無数の根を広げながら、そのどこかで起きた異常を一つの身体で感じ取っていたのだろう。
「なるほど」
寄生体から、少し得意げな感覚が返ってきた。
それを何の疑問もなく「得意げだ」と理解した自分に気づき、俺は一瞬だけ黙った。
「……ほんと、感情豊かになったな」
怖いと思ったばかりなのに、結局また普通に話しかけている。
俺は少しだけ苦笑して、広げていた白い糸をゆっくり回収した。




