第259話 水の下
八層へ二度目に入ったのは、最初の探索から二日後だった。
毒を受けた狼型も、腕を噛まれた蜥蜴人もすでに普段通り動けるところまで戻っている。寄生体の方も、前回取り込んだ二種類の生物から得たものを身体の中で馴染ませたらしく、泥水へ足を入れた時に伝わってくる警戒は前より弱くなっていた。
今回は最初から少し長く探索するつもりで、前回より多めに個体を連れてきている。狼型とトカゲ型に加えて蜥蜴人を二体、鳥型も上空へ三体出し、入口周辺には戻ってきた時の目印になる個体を一体残した。
「前よりは動きやすくなったけど、水の中が見えないのは変わらないな」
膝ほどの深さを進みながら水面を覗いても、濁った水の中は数十センチ先すらまともに見通せない。水草の根元や泥の中では頻繁に生物が動いており、こちらが近づくたびに波紋だけを残して逃げていった。
鳥型が空から見つけられるのも、水面近くまで出ている相手が中心になる。七層では上空からの視界とワーム型の振動感知を組み合わせればかなり広い範囲を調べられたが、この階層では水の下に大きな空白が残っていた。
その空白が危険なのは、前回だけでも十分経験している。
しばらく浅瀬を進んだところで、先頭を歩いていたトカゲ型の足元から泥が大きく盛り上がった。
トカゲ型が横へ跳ぶと、さっきまで前脚があった場所を大きな口が噛み抜く。泥の中から姿を現したのは、ワニよりもトカゲに近い体型をした生物だった。
全長は三メートルほどで、胴体は低く横に広い。四肢には長い指があり、その間を厚い膜が繋いでいる。平たく太い尾まで含めると、水中を進むための身体だということは見ただけでも伝わってきた。
泥から飛び出した勢いのまま相手が尾を振ると、茶色い水が一気に跳ね上がった。
「下か」
視界を奪われた直後、今度は俺の足元で水が動いた。
俺は白い糸を脚へ集め、その場から横へ跳ぶ。直後に長い顎が水面を割り、さっきまで立っていた場所で閉じた。
地上へ完全に出てくれば、動き自体はそこまで速くない。だが水や泥の中へ身体を沈めた途端、見た目からは想像しづらい速度で位置を変えてくる。
狼型たちも相手を追おうとしているが、水深が増すほど動きが鈍る。その横を、相手だけが泥を押し分けるように滑っていった。
「そりゃ、ここで暮らしてる方が有利だよな」
俺は相手が水へ潜る直前に白い糸を伸ばした。尾へ絡みついた糸が強く引かれ、泥の中へ身体ごと持っていかれそうになる。
蜥蜴人の一体がすぐに白い糸を掴み、もう一体も加わった。三人分で引くと、水中へ逃げようとしていた相手の尾が少しずつ引き戻される。
水面から背中が出た瞬間、待っていたトカゲ型が飛びついた。
背中へ噛みつかれた相手が大きく暴れ、泥水を撒き散らしながら身体を捻る。その動きへ狼型も加わり、前脚と首へ左右から食らいついた。
俺は白い糸を尾から胴へ広げて動きを止め、蜥蜴人には殺さないよう伝えた。
「こいつは残そう」
前回の二体は、毒や体内へ入った異物への対応を優先して吸収した。今回は事情が違う。
目の前にいる生物は、この足場の悪い湿地を俺たちより遥かに速く移動できる。その身体をそのまま使えるなら、八層を調べる上でかなり役に立つ。
暴れる相手を押さえたまま、白い糸を傷口から入れていく。
抵抗は徐々に弱まり、やがて泥の中へ伏せたまま完全に動かなくなった。そこからしばらく待つと、白く置き換わった部分を身体のあちこちに残しながら、ゆっくりと頭を持ち上げる。
「歩けるか?」
水辺へ向かうよう意識すると、新しく加わった個体は迷わず泥へ入った。
四肢を左右へ大きく広げ、指の間の膜で泥を押さえながら身体を進めていく。水深が深くなると平たい尾も使い始め、狼型たちが立ち止まるような場所でも速度はほとんど落ちなかった。
「これは便利そうだな」
少し先まで行かせて戻すと、動きにも問題はない。浅瀬と水中の両方を移動できる個体が一体いるだけで、これまで近づきづらかった場所にも手を伸ばせるようになる。
そのまま新しい個体を先行させて進むと、探索の速度は明らかに変わった。
深い水場を見つければ先に入らせ、泥の底に大型生物が潜んでいないか確かめる。水草が密集している場所でも無理に俺たち全員が踏み込む必要がなくなり、危険があれば岸側から別の道を選べる。
ただ、水の中にいる生物すべてを見つけられるようになったわけではなかった。
新しく加わった個体も、基本的には自分の感覚で近くを探しているだけだ。少し離れた場所に何がいるのかまでは把握できず、濁った水の中という死角そのものは残っている。
その問題への答えは、日が傾き始める少し前に向こうから現れた。
先行させていた水陸両用の個体が、突然動きを止めた。
俺たちから二十メートルほど離れた深い水路で、身体を低くしたまま周囲を探っている。その直後、少し離れた水面が細長く盛り上がった。
黒い背中が一瞬だけ見え、すぐ水中へ消える。
俺は狼型たちを浅瀬へ戻し、水陸両用の個体だけをその場へ残した。
「近づいてくるか?」
水面にはほとんど動きがない。
しばらく待っていると、残していた個体が急に身体の向きを変えた。その直後、横から細長い生物が飛び出し、首元へ噛みつこうとする。
水陸両用の個体が身体を捻って避け、相手の姿が水面へ大きく出た。
全長は二メートルほど。太いウナギに似た身体をしているが、頭部の左右には細い髭のような器官が何本も伸びている。目は小さく、水中から出ても周囲を見回すような動きはしなかった。
相手は一度攻撃を外すと、すぐに水中へ潜った。
今度は正面ではなく、数秒後には背後から出てくる。
「見えてないのに、位置は分かってるのか」
水陸両用の個体を少しずつ岸側へ下がらせると、細長い生物は一定の距離を保ちながら追ってきた。水草が間に入っても迷う様子がなく、相手が泥を蹴って位置を変えるたびに進路を修正している。
岸まで誘い出せれば、捕まえるのは難しくなかった。
水陸両用の個体へ噛みつこうと水面近くまで上がったところへ白い糸を投げ、頭の後ろへ巻きつける。すぐに蜥蜴人と狼型が加わり、浅瀬へ引きずり上げた。
細長い身体は陸へ出ても激しく暴れたが、さっきの相手ほど力は強くない。白い糸で身体を何重にも押さえ、そのまま寄生を進めた。
二体目が起き上がる頃には、周囲はかなり暗くなり始めていた。
「試すだけ試して帰るか」
細長い個体を水へ戻し、少し離れたところまで進ませる。
俺からは泥水の下に白っぽい身体が消えたようにしか見えなかったが、本人は迷うことなく水草の間を進んでいく。途中で何度か方向を変えた後、急に一か所へ向かって速度を上げた。
数秒後、水面から小さな魚のような生物が跳ねた。
さらに別の方向へ進ませると、今度は泥の中に潜んでいた小型の甲殻類が一斉に逃げ出す。
「……なるほど」
目が良いわけではない。
水の動きなのか、生き物が出す別のものを感じているのか、俺にはまだ区別がつかなかった。ただ、濁った水の中にいる生物の位置を、かなり離れたところから捉えられるらしいことだけは確認できた。
二体を並べて動かしてみる。
水陸両用の個体が先へ進み、細長い個体が周囲の生物を探る。危険な反応があれば進路を変え、逆に小型の生物しかいなければそのまま進ませることができる。
今まで見えなかった水の下へ、ようやくこちらの目を入れられたような感覚があった。
「こいつら、何体か欲しいな」
そう考えた直後、細長い個体がまた別の方向へ反応した。
向かった先の浅瀬では、手のひらほどの甲殻類が水草の根元にびっしりと集まっていた。十匹や二十匹では済まない数が泥の上を這い、その周囲にも同じような小さな影がいくつも動いている。
近づいた俺たちに気づくと、一斉に水草の奥や泥の中へ逃げ始めた。
追わせようと思えば追える。
白い糸を広げれば、何匹かはすぐ捕まえられる距離でもあった。
俺の中の寄生体が急に騒がしくなったので、思わず足を止める。
「今日は帰るって言っただろ」
湿地へ入って二度目の探索で、ようやくここの動き方が少し見えてきたところだ。水の中へ入れる個体と、その中を探れる個体を手に入れた以上、次からは今まで避けていた場所まで調べられる。
そして、その先にはさっきの甲殻類のような小さな生物がいくらでもいるらしい。
入口へ戻るため身体の向きを変えると、新しく加わった二体も水の中からついてくる。少し先では逃げ遅れた甲殻類が泥へ潜り、そのさらに奥でも別の生物が水面を揺らしていた。
「増やすなら、ここはかなり良さそうだな」
前回より広く見えるようになった湿地は、それでもまだ入口からほんの一部しか調べられていなかった。




