第258話 沼の洗礼
八層へ入って一時間ほど進んだところで、俺は早くも七層とは探索の仕方を変えた方がいいと考え始めていた。
入口付近では足首ほどだった水深が、少し進むだけで膝近くまで深くなる場所がある。泥の下には木の根や沈んだ枝が隠れており、見た目だけでは足場の状態も判断しづらい。狼型たちも普段より歩幅を狭め、蜥蜴人は長い尾で身体のバランスを取りながら進んでいた。
周囲から聞こえる音も途切れなかった。水面を走る小さな影、泥の中へ潜る細長い生物、枝から枝へ移る鳥らしい姿が次々に視界へ入り、少し遠くでは大型の生物が水へ入ったような音まで響いてくる。
「生き物が多いのはいいけど、足元が面倒だな」
入口からそれほど離れていないうちは、深追いしないつもりだった。初めて入った階層で戦力を広く散らすのも避け、鳥型二体だけを上空へ出し、狼型とトカゲ型、蜥蜴人は近くに置いている。
俺自身は泥水の中を歩いていても、今のところ皮膚に異常は感じていなかった。以前に取り込んだものの影響なのか、寄生体が体表や粘膜を守っている感覚は以前からあったが、ここではその働きが普段より強く出ているようにも思える。
だからといって、連れている連中まで同じとは限らない。
前を歩いていた狼型が急に足を止めた。
鼻先を低くして水面を見つめ、喉の奥から低い音を出している。もう一体もすぐに反応し、少し離れていたトカゲ型が身体の向きを変えた。
「いるのか」
俺が足を止めた直後、五メートルほど先の水面が大きく膨らんだ。
濁った水を押し退けながら現れたのは、全長二メートル近いイモリに似た生物だった。太い胴体は黒褐色で、背中から脇腹にかけて黄色と橙色の斑点が並んでいる。四肢は短いが太く、平たい尾が水中で大きく動くたびに泥水が波打った。
目立ったのは背中だった。皮膚の間から指ほどの長さの細い棘が何十本も突き出し、その根元には半透明の液体が滲んでいる。
「見るからに触りたくないな」
狼型を下げようとした瞬間、イモリ型が身体を大きく捻った。
太い尾が水を叩き、その勢いに乗って背中の棘が数本飛んでくる。
俺は腕へ白い糸を集め、顔と胸の前を覆った。二本の棘が白い表面に当たって弾かれ、一本が横へ避けた狼型の肩へ刺さる。
狼型はすぐに棘を振り落とそうとしたが、数歩動いたところで前脚が崩れた。
「おい」
身体を震わせながら立とうとしているものの、脚へうまく力が入っていない。刺さった場所からの出血は少なく、傷そのものも深くは見えなかった。
問題は別にある。
「毒か」
俺が狼型へ向かおうとすると、イモリ型が再び身体を捻った。今度は蜥蜴人が前へ出て、大きな骨盾で飛んできた棘を受け止める。
盾に刺さった棘の根元から透明な液体が垂れ、表面に付着した泥へ薄く広がった。
長く付き合う必要はなさそうだった。
俺は右手をイモリ型へ向け、小さな火球を水面ぎりぎりへ飛ばした。火が水へ触れて蒸気を上げると、イモリ型が反射的に横へ逃れ、その進路へ狼型の一体とトカゲ型が回り込む。
正面を塞がれたイモリ型が再び身体を捻ろうとしたところへ、蜥蜴人が踏み込んだ。
背負っていた断骨刀が振り下ろされる。
厚い背中へ刃が食い込み、イモリ型の身体が水面へ叩きつけられた。まだ動こうとする頭部へトカゲ型が食らいつき、最後は蜥蜴人がもう一度断骨刀を振るって動きを止めた。
俺は倒れたイモリ型より先に、棘を受けた狼型のところへ向かった。
刺さっていた棘を抜くと、傷口の周囲がすでに赤黒く変色していた。白い糸は傷を塞ごうとしているが、脚の震えは続いている。
「傷を治せば終わりって感じじゃないな」
寄生体へ意識を向けても、すぐに毒を消せる様子はなかった。症状の進行を抑えようとはしているらしく、狼型が完全に動けなくなるところまでは進んでいない。
俺は倒したイモリ型へ近づき、寄生体へ意識を向けた。
「こいつ、使えるところあるか?」
白い糸が指先から伸び、傷口からイモリ型の体内へ入り込んでいく。普段なら新しい個体として起こすことも考えるが、今は毒を受けた狼型を先にどうにかしたかった。
しばらくすると、寄生体から伝わってくる感覚が変わった。
以前、大型キノコを取り込んだ時に近い。身体の中へ入った異物に対して、どう処理すればいいのかを新しく覚えていくような感覚がある。
「いけそうか」
イモリ型から戻ってきた白い糸を狼型の傷口へ集める。
すぐに立ち上がるほど急激な変化は起きなかったが、しばらく待っていると脚の震えが少しずつ弱まった。赤黒く変色していた傷の周囲も広がらなくなり、狼型は自力で身体を起こして座れるところまで戻ってきた。
「毒そのものを消したっていうより、効きにくくしたのか」
正確なところは自分でも説明できない。ただ、さっきまで対応できていなかった毒へ寄生体が明らかに反応できるようになっている。
大型キノコから麻痺に強い性質を得た時と似ているが、今回のものは別の種類らしい。これで八層にいる毒持ちすべてへ対応できると考えるのは早いだろう。
俺は回復途中の狼型を入口方向へ戻すことにした。
「今日はやっぱり、あまり奥まで行かない方がいいな」
探索を続けながらも、進む速度を落とした。水面から出ている根を選び、深い場所はトカゲ型を先に進ませて安全を確認する。鳥型から大きな危険を知らせる反応は来ていなかったが、目の前の一体だけでも、この階層では見た目以上に厄介な生物がいることは十分だった。
その後、一度も戦わずに済んだ時間は一時間ほどだった。
今度は蜥蜴人が先頭を歩いている時だった。
腰ほどの高さまで生えた水草の横を通り過ぎた瞬間、泥の中から細長い頭部が飛び出した。ワニに似ているが、口は異様に細長く、並んだ牙の間には黒ずんだ粘液がこびりついている。
蜥蜴人は骨盾を差し込んだものの、完全には間に合わなかった。
閉じた顎が盾の縁を滑り、そのまま左腕へ噛みつく。
俺と狼型が動くより早く、蜥蜴人は噛みつかれた腕ごと相手を引き寄せた。右手で断骨刀の柄を掴み、近距離から首へ刃を叩き込む。
一撃では切れなかったが、噛む力が緩んだ瞬間に腕を引き抜き、続けて狼型とトカゲ型が左右から食らいついた。最後は俺が伸ばした白い糸で頭部を固定し、蜥蜴人が首を切り落として戦闘を終わらせた。
噛み傷は深かった。
白い糸がすぐに傷口へ集まり、裂けた肉を繋いで出血を止めていく。そこまではいつもと変わらなかった。
違和感が出始めたのは、その場で休ませてから十分ほど経った頃だった。
「……治り方がおかしいな」
塞がり始めていた傷の周囲が熱を持ち、皮膚の下が少しずつ腫れている。白い糸が何度も集まっているのに、赤みはむしろ広がっていた。
俺は切り落とされた細長い頭を見た。
牙の間には、まだ黒い粘液が残っている。近づくと腐った肉と泥を混ぜたような臭いが強く、口の中には古い肉片らしいものまで詰まっていた。
「毒……だけじゃないか」
噛まれた場所へ触れると、寄生体が傷そのものとは別のものへ反応している。
細菌なのか、このダンジョンにいる別の微小な生物なのかは判断できない。ただ、牙と一緒に傷の奥へ入ったものが、塞いだ内部で増えているような嫌な感覚だけはあった。
傷を治せても、中へ入ったものまで自動的に消えるとは限らない。
「厄介だな」
俺は倒した細長いワニ型の胴体へ白い糸を伸ばした。
こいつ自身は、あの口の中を持ったまま普通に生きていた。腐敗したような粘液や、そこに含まれているものと共存できる仕組みが体内にある可能性は高い。
白い糸が死体へ入り込み、吸収を始める。
イモリ型の時より時間がかかった。
寄生体が欲しがっている部分も違うらしく、口の周辺だけでなく喉や腹の内側まで白い糸が広がっていく。やがて俺の中へ戻ってきた時、今度は身体の奥がざわつくような感覚が長く続いた。
蜥蜴人の腕へ新しい白い糸を送り込み、しばらく様子を見る。
腫れがすぐ消えたわけではなかったが、皮膚の下で広がっていた熱が少しずつ狭い範囲へ押し戻されていった。寄生体も、傷口を塞ぐだけだった先ほどまでとは違い、内部に残った異物を探すように細かく動いている。
「……覚えたのか」
今日一日だけで、八層が今までの階層とは違う意味で厄介な場所だということは十分に理解できた。
牙や爪が強いだけなら、見れば警戒できる。巨大な相手なら距離を取ることもできる。
ここには、触れた後や噛まれた後になって初めて危険が表へ出てくる生物がいる。
俺は入口へ戻る方向を決め、まだ探索を続けたがっているらしい寄生体の感覚を受け流した。
「今日はここまで。増やすのは、ここのやり方をもう少し覚えてからだ」
湿地から返ってくる鳴き声は、来た時からほとんど減っていなかった。水面の下でも草木の間でも多くの生物が動き続け、その一つ一つが、この環境で生き残るための性質を持っている。
入口へ向かって歩きながら、俺の中の白い糸は、さっきまでより少しだけ湿地に馴染んでいるように感じられた。




