第253話 とある企業の苦悩 2
翌朝、久世隆一は少しだけ機嫌が良かった。睡眠時間は三時間に増え、右側頭部の空白も昨日と比べて目立って広がったようには見えなかったので、最近の基準からすれば十分に良い朝だった。
何より、昨日の会議では久しぶりに前向きな案が出た。市場へ流れてきたダンジョン素材を国内外の企業と奪い合うだけではなく、自社で探索者を抱え、必要な回収品を自分たちで取りに行くという案である。
東央産業ほどの企業なら、資金も設備も人材もある。探索者を社員として雇用し、装備を用意し、専門部署として継続的に活動させれば、少なくとも今のように市場へ何が出てくるか分からない状態で待ち続ける必要はなくなる。
昨夜、眠る前にその構想を考えていた時には、なぜもっと早く思いつかなかったのかとすら感じていた。
その考えが甘かったことを、久世は午前九時七分には理解した。
「では、企業内探索部門の新設について、人事、法務、労務、安全管理、それぞれから検討結果を報告してください」
昨日と同じ役員会議室には、今日は新たに人事担当、法務担当、安全管理担当まで加わっていた。人数が増えた分だけ問題を解決できる人間も増えたはずなのだが、配られた資料の厚さを見る限り、問題そのものの方が遥かに速い速度で増殖しているらしい。
「まず人員の確保についてですが、経験者採用を中心に進める場合、現在活動している探索者を中途採用する形になると考えています。ただし、一定以上の実績を持つ探索者は現時点でも希少であり、複数企業がすでに接触を始めています」
「給与を上げればいいだろう。危険業務なんだから、一般社員と同じ給与体系にするつもりはない」
会長が当然のように答えると、人事担当役員は用意していたらしい次の資料を表示した。そこには探索者向け求人を想定した給与、成果報酬、危険手当、各種保険、装備支給などの試算が並んでいる。
「給与だけであれば対応できます。ただ、問題は雇用形態と業務内容です。探索者を正社員として採用した場合、ダンジョン探索を業務命令として行わせることになります」
「そのために雇うんだから当然だろう」
「当然なのですが、その社員が業務中にモンスターに襲われて重傷を負った場合、当然ながら業務災害として扱うことになります。死亡した場合も同様です」
会長の返事が少し遅れた。その横で法務担当が資料をめくり、安全管理担当も同時に何か言いたそうな顔をしたため、久世はまだ入口なのだと悟った。
「補償制度を作ればいい。危険な業務をしている社員は他にもいるだろう」
「それ自体は可能です。ただし、既存の危険業務とは前提がかなり異なります。現時点ではダンジョン内部の危険度を会社側が十分に把握できず、業務上必要な安全配慮をどこまで行えば責任を果たしたことになるのか、基準そのものが固まっていません」
法務担当の説明に続き、安全管理担当が口を開いた。
「例えば一層で活動するよう指示した社員が、現場判断で二層へ進んだ場合にどう扱うかという問題があります。会社が二層への進入を禁止していたのであれば規則違反になりますが、戦闘中の逃走や経路変更で意図せず進入した場合まで同じ扱いにはできません」
「なら階層ごとに活動範囲を決めればいいだろう」
「その階層の危険度を誰が保証しますか?」
会長が黙った。
久世は昨日も見た光景だと思いながら、水を一口飲んだ。何か一つまともな提案をすると、専門部署からそれを殺すための説明が返ってくる。
「国の危険度評価を参考にすればいいんじゃないのか。探索者制度の中で階層情報も集めているだろう」
「参考にはできます。ただし同じ階層でもダンジョンごとに環境や出現モンスターが異なりますし、未確認個体が出現する可能性もあります。会社として社員を送り込む以上、『国が入っていいと言ったから入りました』だけで安全管理上の責任を全て免れるとは考えにくいです」
「じゃあ安全を確認してから入れ」
「誰が安全確認に入りますか?」
また会長が黙った。
今度は副社長が胃薬の箱へ手を伸ばした。昨日開封したばかりだったはずだが、すでに残りが少なくなっているように見える。
「経験豊富な探索者を先行採用して、安全管理も担当させる形はどうだ。それなら現場を知っている人間が判断できる」
「その経験豊富な探索者が希少だという話から始まっています」
「そうだったな。すまん、少し眠れていなくてな」
「副社長、今日は何時間ですか?」
「二時間四十分だ。昨日より一時間以上増えた」
「おめでとうございます」
「ありがとう。久しぶりに人から祝われた」
何の会議をしているのか分からなくなりかけたところで、人事担当が咳払いして話を戻した。
「未経験者を自社で育成する案もあります。既存社員から希望者を募るか、新卒・中途で探索者候補を採用し、資格取得と訓練を支援する方法です」
「それなら人数は確保しやすいんじゃないか。うちには運動部出身者も多いし、警備や現場系の経験者もいるだろう」
久世が尋ねると、人事担当は少し困った顔をした。
「社内公募を想定した簡易アンケートはすでに実施しました。興味があると回答した社員は予想以上に多かったのですが、『会社の金で探索者になれるなら興味がある』という回答と、『仕事としてモンスターと戦いたい』という意思は必ずしも一致しません」
「具体的には?」
「説明文に『業務として継続的にダンジョンへ入り、必要に応じてモンスターとの戦闘を行う』と追記したところ、希望者が約八割減りました」
久世は数字をもう一度確認した。減り方があまりにも極端だったが、自分が同じアンケートを受けた場合を考えると、社員たちを責める気にはなれなかった。
「残った二割は?」
「その中には『強くなれそう』『魔法を覚えられるかもしれない』『動画配信も会社公認になりますか』という動機の者が一定数います」
「最後のやつは何なんだ」
「若手社員です」
「若いな」
会長が妙なところで納得した。
そこへ法務担当が、採用後の回収品所有権について整理が必要だと口を挟んだ。業務中に社員が取得した素材を会社所有とすること自体は契約や社内規定で整理できる可能性があるものの、個人に帰属する能力向上や、本人しか使用できない可能性がある回収品が出た場合は話が複雑になるという。
「能力向上を会社のものにするのは無理だろう。それは本人の身体なんだから」
「その点は当然です。ただ、会社の費用と勤務時間を使って継続的に探索した結果、社員個人の身体能力が大きく向上した場合を想定してください。その社員が翌月退職して競合企業へ移った場合、会社が投じた育成費用をどう考えるかという問題が出ます」
「退職を禁止するわけにはいかんだろう」
「禁止できません」
「競業避止は?」
「範囲と期間によりますが、身体能力そのものを元へ戻させることはできません」
久世は思わず目を閉じた。
普通の技術者なら、退職しても工場設備まで背負って出ていくことはない。しかし探索者の場合、会社が金をかけて育成した結果そのものが、本人の身体に残る可能性がある。
「考えれば考えるほど、人材が設備を兼ねているな」
「社長、その表現は人事としてあまり推奨できません」
「分かってる。社外では言わない」
今度は労務担当が勤務時間の問題を出した。ダンジョン内部で何時間活動するのか、休憩をどう管理するのか、泊まりを伴う探索を勤務時間としてどう扱うのか、移動時間や待機時間をどこまで含めるのかと、既存制度に当てはめようとするたびに細かい疑問が増えていく。
「泊まり込みの探索をした場合、睡眠時間は労働時間なのか?」
「行動の自由がどの程度制限されているかによります」
「ダンジョン内で寝てるんだぞ。行動の自由なんてあるのか?」
「その判断をするためにも、具体的な勤務形態を先に決めていただかないと」
「その勤務形態を決めるために聞いているんだが」
「ですから制度設計が必要です」
久世は両者の会話を聞きながら、昨日の事業計画書に書かれていた四十一個の「不明」が恋しくなってきた。少なくとも不明と書いてあるだけなら、こちらへ質問を返してくることはない。
「装備についても問題があります」
安全管理担当が新しい資料を出したことで、会議はさらに続いた。
「企業として社員を送り込む以上、防護性能が確認された装備を用意する必要があります。しかし現在流通しているダンジョン向け装備には、公的な統一規格が十分に整っていません。既存の防刃、防弾、防護服を流用する案もありますが、重量や可動性の問題があります」
「ダンジョン産の装備を買えばいいだろう。実際に探索者が使っているんだから性能は高いんじゃないのか」
「買えれば、ですが」
調達担当役員が静かに答えた。
会議室にいる全員が一斉にそちらを見た。その顔を見た瞬間、久世は昨日の話が再び戻ってきたことを悟った。
「まさか装備まで足りないのか?」
「良質な回収装備は当然ながら探索者本人からの需要が高く、出回る数も限られています。研究機関や他企業も性能評価用として購入していますので、まとまった数を揃えるのは難しいです」
「自分たちで素材を取りに行くための装備を買うのに、その素材を取りに行く探索者と競争するのか?」
「そうなります」
「誰だ、この事業を簡単そうだと言ったのは」
久世の問いに返事はなかった。昨日、自社で取りに行けばいいと言った副社長は、資料を読むふりをして目を合わせようとしなかった。
午前中だけで、採用、教育、安全管理、労災、勤務時間、退職、回収品所有権、装備調達という問題が並んだ。さらに保険担当から民間保険だけでは十分な補償設計が難しいという説明まで加わり、ホワイトボードに書かれた検討項目は順調に増え続けていた。
「一度整理しよう。つまり、自社探索部門そのものが不可能なわけではないんだな?」
久世が確認すると、人事、法務、安全管理の担当者たちは互いに顔を見合わせた。
「不可能ではありません。ただし、最初から大規模に始めるのは推奨できません。少人数で試験的なチームを編成し、国の制度と既存探索者の運用を参考にしながら、社内規程や補償制度を整備していくのが現実的だと思います」
「最初から百人採用して素材を大量に持って帰らせる、という話ではないわけだな」
「それをやった場合、おそらく人事と法務と安全管理の誰かが先に辞めます」
「分かった。やめよう」
久世は即答した。
自分の頭髪だけでなく、管理部門の人員まで失う必要はない。
結局、自社探索部門については、経験者採用と社内希望者から少人数の試験チームを編成する方向で検討を続けることになった。活動範囲も当面は情報の多い低階層に限定し、素材回収そのものより、企業として探索者を運用するための制度づくりと経験蓄積を優先する。
昨日考えていたほど直接的な解決策ではなかったが、それでも何もしないよりは前進だった。久世がようやく次の議題へ移れると思ったところで、企画担当の執行役員が別の資料を机へ出した。
「関連して、もう一件あります。国と複数の自治体が、地方にあるダンジョン周辺への企業誘致を本格化させる方向で調整しています」
「企業誘致?」
「はい。都市部から離れた場所に出現したダンジョンについて、探索者人口や関連事業が集まりにくく、十分に活用されていない場所があります。国としても探索の促進と地域振興を兼ねて、研究施設、素材加工、物流、宿泊、装備販売などを行う企業の進出を促したいようです」
画面には複数の候補地域が表示された。人口減少が進む地方都市や山間部に近い場所が多く、土地取得や税制面での優遇措置、インフラ整備への支援なども検討されている。
不動産担当役員が資料を見て身を乗り出し、建設担当も続いた。市場へ出た素材を買うだけではなく、ダンジョン周辺そのものに拠点を置けば、探索者との接点を作りやすくなり、素材の集荷、保管、一次加工、研究まで一体化できる可能性がある。
「これは悪くないんじゃないか。土地も都市部より遥かに安いし、研究所と物流拠点をまとめて置ける」
「自治体側も雇用が生まれますから、条件交渉はしやすいと思います。将来的にダンジョン関連産業が拡大するなら、早期進出には意味があります」
久世は久しぶりに、条件を聞くほど良く見える話が出てきたと感じた。
「候補地の交通条件は?」
「最寄りの高速道路インターチェンジから車で約一時間です。その後、一般道と山道を通ります」
「鉄道は?」
「最寄り駅から車で一時間四十分ほどです」
久世の期待が少し下がった。
「大型研究施設を置く場合の電力は?」
「現状では不足しますので、送電設備の増強が必要です」
「上下水道は?」
「追加整備が必要な区域があります」
「病院は?」
「近隣に地域診療所があります。大規模な救急医療については、車で一時間ほどの――」
「ちょっと待ってくれ」
久世は資料を止めさせた。
数分前まで夢の新産業拠点に見えていた場所が、話を聞くたびに山奥へ移動していくような感覚がある。
「つまり、ダンジョンの近くに研究と物流の拠点を作ろうとすると、最初に何をすればいい?」
企画担当が答える前に、建設事業担当役員が嬉しそうに口を開いた。
「道路ですね。その後に造成、電力、上下水道、必要なら通信インフラも整備できます。弊社グループでかなり受注できると思います」
久世は会議が始まってから初めて、心から楽しそうな顔をしている役員を見た。
「お前だけ急に元気になったな」
「本業ですので」
「良かったな。ようやく知ってる仕事が出てきて」
会長まで少し嬉しそうだった。
ダンジョンが現れてからというもの、誰に聞いても分からない、新制度が必要だ、前例がないという話ばかりだった。その中で道路を作り、土地を造成し、建物を建てるという仕事だけは、東央産業が昔から知っている世界だった。
もっとも、道路を作った先にあるのは相変わらずモンスターのいる異常空間であり、そこから何が出てくるのかは誰にも分からない。久世はその事実にはひとまず目をつぶり、企業誘致について具体的な候補地と投資規模を精査するよう指示を出した。
会議が終わったのは午後二時を過ぎてからだった。
自社探索部門は、小規模な試験運用から始める。地方ダンジョン周辺への進出も検討し、素材調達だけでなく研究、物流、加工を含めた拠点化の可能性を調べる。
昨日より問題は増えた気がするが、同時にやるべきことも少しずつ見えてきた。
役員たちが席を立ち始めたところで、久世はようやく肩の力を抜いた。
「今日は昨日より前に進んだ気がするな。少なくとも、自社で探索者を百人雇えば全部解決すると思っていた昨日よりは賢くなった」
「一日でそこまで成長できる社長はなかなかいないぞ、久世。明日も同じ速度で成長すれば、一年後には立派な経営者になれる」
「会長、私は一応もう社長なんですが」
二人のやり取りを聞いて、副社長が小さく笑った。
久世も久しぶりに笑いながら資料を閉じたが、その時、秘書が新しいファイルを持って会議室へ入ってきた。表紙には、最近正式な制度として動き始めた探索者ギルドに関する資料と、国内で設立準備が進んでいる団体の情報がまとめられている。
「社長、次回会議用の資料です。探索者ギルド制度への企業対応について、営業、法務、保険、医療、装備事業の各部門から提案が出ています」
久世は閉じたばかりの資料から手を離し、秘書が持っているファイルの厚さを見た。
「……次回って、いつだ?」
「明日の九時です」
久世はしばらく何も言わなかった。
会長は黙って血圧の薬を鞄へ戻し、副社長は胃薬の残量を確認していた。誰からともなく明日の会議資料を受け取り始めたあたり、この会社の経営陣はなんだかんだ言いながら適応だけはしているらしかった。




