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寄生虫と行く現代ダンジョン  作者: 脳タリン


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第252話 とある企業の苦悩

 鏡を見る時間が、最近少しだけ長くなった。東央産業株式会社代表取締役社長、久世隆一は、洗面台の前で髪をかき分けながら、右側頭部にできた十円玉より少し大きな空白を確認した。


 昨日見た時より広がっているような気がする。それが事実なのか、睡眠不足で弱った精神がそう見せているだけなのかは分からなかった。


 医者には行ったし、原因も聞いた。ストレスでしょう、と言われたが、そんなことは自分が一番よく知っている。


 昨夜眠ったのは午前三時過ぎで、目が覚めたのは五時半だった。枕元には寝る直前まで読んでいた異常空間関連の報告書が置かれ、スマートフォンには海外支社から送られてきた未読メールが二十七件残っている。


 この数か月で、久世は知らない単語にずいぶん詳しくなった。異常空間、探索者、魔石、モンスター素材、ポーションと、半年前ならゲーム会社の企画会議で使われる言葉だと思っただろうものが、今では全部、自分の会社の経営会議に出てくる。


「社長、お時間です。本日は九時から異常空間関連事業戦略会議となっています」


 秘書の声に振り返り、久世は髪を元へ戻した。できれば今日一日は、この場所について考えたくなかった。


「今日の議題は?」


「異常空間由来素材の調達状況、研究開発予算の再配分、医療事業部からポーション関連研究の追加予算申請、海外企業による国内素材買い付けへの対応、それから新規回収品の――」


「もういい。聞いたら会議室まで辿り着けなくなりそうだ」


「まだ半分ほどありますので、残りは会議資料をご確認ください」


 秘書は否定も慰めもしなかった。その反応に、久世は自分の会社の秘書が優秀であることを改めて確認しながら、重い足取りで会議室へ向かった。


 東央産業は、国内外に数百の関連企業を持つ巨大企業グループだった。化学、金属、建設、物流、医療機器、エネルギー、不動産、食品、機械製造と、戦後から買収と統合を重ねてきた結果、何をしている会社なのかと聞かれると、説明する側が少し困る程度には手広い。


 だからこそ、ダンジョンの出現は最初、巨大な商機に見えた。未知の生物素材があり、未知の鉱石があり、既存技術では再現できない特性を持つ物質まであり、挙げ句には傷を治す不思議な液体まで発見された。


 最初の頃、役員会には確かに活気があった。未知の市場が突然出現し、しかも自社が抱える複数の事業分野へ同時に関係する可能性があるのだから、多少の混乱など巨大な商機の前では些細な問題に思えていた。


 今では違う。


 久世が役員会議室の扉を開けると、そこには日本有数の巨大企業を動かしているはずの人間たちが、揃って疲れ切った顔で座っていた。会長は眼鏡を外して眉間を揉み、副社長は胃薬を水で流し込み、専務は資料を開いたまま天井を見ている。


 医療事業担当の執行役員は分厚いファイルを三冊積み上げ、素材事業担当役員の前には試料写真が大量に並んでいた。中でも調達担当役員の顔色はひどく、昨日まで海外出張でもしていたのかと聞きたくなるほど目の下に濃い隈ができている。


 久世は自分の席へ向かいながら、ほんの少しだけ安心した。どうやら苦しんでいるのは自分だけではないらしい。


「揃ったな。始めようか、最近は会議をするたびに議題が増えている気がするが」


「気のせいではありません、会長。先月から異常空間関連だけで議題数が三割ほど増えています」


 久世が座ると会議が始まり、最初に調達部門から資料が配られた。画面には国内で流通が確認されているダンジョン由来素材と、その価格推移や取引量が表示されていく。


「では、異常空間由来素材の調達状況から報告します。国内の浅い階層から持ち帰られる一般素材については流通量そのものは増加しています。ただし、研究用需要の増加がそれを大きく上回っており、必要量の確保が困難になっています」


 甲虫型モンスターの外殻、獣型の皮、牙、骨、特殊な植物、核、一部のダンジョンで確認されている未知鉱石。数か月前までは存在すら知られていなかった品々が、今では一部の市場で恐ろしい値段をつけ始めていた。


「甲虫型の外殻はどうなった。前回、追加予算を承認したはずだが」


「前回提示した価格では予定量を確保できませんでした。価格引き上げ後に、海外資本の日本法人がさらに高い金額を提示しています」


 素材担当役員が身を乗り出して金額を確認すると、調達担当役員は資料の数字を指した。当社提示額のおよそ二・三倍です、と告げられたところで、素材担当役員だけでなく久世まで黙り込んだ。


「馬鹿なのか、その会社は。研究段階の素材にそこまで出して、採算をどうするつもりだ」


「おそらく向こうも、こちらを同じように評価していると思います。現在は将来の市場を見越した研究用需要が先行しており、通常の素材取引とはかなり違う状態です」


 日本は世界的に見れば、浅層素材の流通が比較的安定している方だった。探索者制度の整備が進み、低階層へ継続的に人が入るようになったことで、一定量の素材が市場へ出てくるようになっている。


 ただし、流通していることと、企業が必要量を安定して買えることはまったく別の話だった。国内企業だけでなく、大学や公的研究機関が欲しがり、海外企業まで日本法人や提携先を通じて買い付けに参加しているため、同じ甲殻一枚を世界中が研究したがっているような状態になっていた。


「こちらの強化繊維研究ですが、量産試験へ進むには同種外殻を最低でも月四百キロ確保したいとの要望が出ています」


「国内流通量はどれくらいだ。研究用以外も含めた数字でいい」


「先月確認できた分で約百六十キロです。なお、その全量を当社が購入できるわけではありません」


 久世は資料から顔を上げた。全部買っても足りないではないかと確認すると、調達担当役員は疲れた顔のまま頷いた。


「来月は増えるのか。それとも探索者が増えているなら、今後は徐々に供給も安定すると考えていいのか?」


「分かりません。増える可能性もありますが、探索先や討伐対象が変われば減少する可能性もありますし、そもそも同じ種類の素材が継続して持ち帰られる保証がありません」


 久世が右側頭部へ手を伸ばしかけたところで、素材担当役員がさらに資料を追加した。その内容を聞いて、伸ばしかけた手を静かに机へ戻す。


「加えて、別のダンジョンで回収された外見の近い甲虫型外殻を比較したところ、強度と耐熱性に差が確認されています。同系統のモンスターと考えられますが、産出したダンジョンが異なります」


「同じ甲虫じゃないのか。見た目が似ていて、同じような階層にいるなら混ぜて使えないのか?」


「現在研究中ですが、少なくとも完全に同一の素材として扱うのは難しいと考えています。規格統一も品質保証も、安定供給そのものが成立していない現状では、その前段階です」


 次に特殊鉱石の資料が表示されると、今度はエネルギー部門担当役員が身を乗り出した。特定のダンジョンから少量だけ持ち帰られている鉱石で、既存金属とは異なる電気的性質が確認されているという。


「追加試料が必要です。最低でも五キロ確保できれば、現在止まっている試験を複数進められます」


「ありません。正確には市場へ出ること自体はありますが、まとまった量を確保できる状態ではありません」


 調達担当役員が即答すると、エネルギー担当役員はまだ金額を言っていないと食い下がった。しかし金額以前にありませんと返され、会議室の空気が少しだけ重くなる。


「市場に出た分は誰が買っているんだ。こちらが価格を上げれば、多少は確保できるだろう」


「国内大手電機メーカー二社、海外半導体企業、日本法人を経由した海外ファンド、それから複数の大学研究機関です。国側も研究用として一定量を確保していると見られますので、競争相手はそれだけではありません」


 エネルギー担当役員は額を押さえた。それでも産出場所を直接押さえられないかと尋ねたが、国の管理下にあるダンジョンだと説明され、採掘量を増やす案にも簡単ではないという答えが返ってくる。


「採掘会社を入れて、探索者か警備要員を護衛につければいいんじゃないのか。うちには資源開発の経験もあるだろう」


「会長、相手は鉱山ではなくダンジョンです。モンスターが出ますし、現在の制度では企業が好きなだけ作業員を送り込んで採掘できるような場所ではありません」


 会長はしばらく黙ってから、昔は鉱山が欲しければ鉱山会社を買えば済んだのだがな、と小さく漏らした。久世も最近になって、それが非常に合理的で分かりやすい仕組みだったと理解しました、と心から同意する。


「嫌味か、久世。私が古い経営者だと言いたいのなら、もう少し遠回しに言え」


「本心です、会長。最近は買収できる相手が存在するだけで安心するようになりました」


 次に医療事業部の資料が開かれると、室内の空気がさらに重くなった。ポーションという文字が画面に表示されただけで、調達担当役員がわずかに目を伏せる。


「ポーション関連ですが、追加研究用サンプルの確保を要請します。可能であれば十本以上を継続的に確保できる体制が必要です」


「予算はいくら必要なんだ。研究の重要性は理解しているから、現実的な範囲なら追加を検討する」


「社長、値段の問題ではありません。研究機関、医療機関、製薬企業、国の需要に対して、流通数そのものが圧倒的に不足しています」


 それまで眉間を揉んでいた会長が顔を上げた。この会社で何十年も経営に携わってきた人間にとって、金額の問題ではないという言葉は、それだけで警戒に値する。


「倍出せばどうだ。市場へ出た分を優先的に買える程度には積めるだろう」


「会長、ありません。市場へ出ることはありますが、継続的な大量確保を前提にできる状態ではないという意味です」


「なら三倍ならどうだ。研究で先行できるなら、その程度は――」


「会長、ない物は三倍払ってもありません」


 会長が黙り込み、久世は調達担当役員を少しだけ尊敬した。今、この会議室で会長へそれを真正面から言えるのは彼くらいだろう。


「しかし、研究を止めるわけにはいきません。既存の創傷治療とは明らかに異なる作用が示されていますし、負傷に伴う欠損状態そのものを補填している可能性があります。将来的な医療への影響を考えれば、他社に研究で遅れることは許容できません」


「こちらも同様です。モンスター由来素材には航空、自動車、防護材、建設分野を根本から変える可能性がありますし、今の段階で研究を止めれば、供給が安定した時には追いつけなくなっている可能性があります」


 医療担当に続いて素材担当、さらにエネルギー担当まで自分たちの研究の重要性を説明し始めた。それまで黙って聞いていた財務担当役員が静かに手を上げると、全員の視線が一斉にそちらへ向いた。


「一つだけよろしいでしょうか。皆さんの説明を聞く限り、医療の未来も、素材産業の未来も、エネルギーの未来も、全部当社が背負わなければならないように聞こえます」


 財務担当役員は手元の資料を一枚持ち上げた。各事業部から提出された異常空間関連研究の追加予算申請を合計すると当初予算の四・七倍に達しており、しかも設備投資と海外拠点分は含まれていないらしい。


「人類の未来を全部研究する予算はありませんので、どこかは諦めてください。ちなみに各事業部へ削減可能な分野を問い合わせたところ、ほぼ全員が『自分のところ以外』と回答しています」


 久世は深く息を吐き、それはそうだろうなと納得した。自分の担当分野こそ将来の基幹産業になると本気で考えているからこそ、彼らは役員会まで予算要求を持ってきている。


 経営判断というものには、普通は比較材料がある。市場規模、原価、供給量、競争環境、技術成熟度、投資回収期間といった数字を並べて、どこへ金を入れ、どこを諦めるか決めるものだ。


 ダンジョン関連には、その当たり前が通用しなかった。市場規模は分からず、供給量も読めず、同じ素材が来月も取れる保証すらなく、規制制度は整備の途中で世界中が同時に研究を始めているうえ、深い階層へ進めば今より優れた素材が出てくる可能性まである。


 久世は手元の事業計画書を眺めているうちに、あることに気づいた。ページを何枚か戻って確認してみても、その単語があまりにも頻繁に出てくる。


「この資料、『不明』という文字が多くないか。市場規模も供給予測も将来価格も、重要なところがほとんど不明になっているぞ」


「確認します……四十一か所あります。現時点で根拠のある予測が難しい項目については、そのように記載しています」


「これは事業計画書だよな。四十一か所も分からないことがある状態で、我々は一体何を計画しているんだ?」


「久世、哲学を始めるな。答えが出ない話を始めると、今日中に会議が終わらんぞ」


 会長に止められ、久世は素直に謝った。二時間しか寝ていないので思考がおかしくなっているのかもしれないと口にすると、会長が自分は三時間だと返し、少し離れた席では副社長が一時間半ですと名乗りを上げた。


 誰も勝者ではなかった。


 会議はその後も続き、海外素材の購入ルートを増やす案には各国が重要資源として輸出管理を強める可能性が指摘された。国内買い付けを増やす案には海外企業との価格競争が問題になり、大学との共同研究を増やそうとすると研究成果の権利配分で法務部が頭を抱え、探索者から直接買い取る案には制度上の手続きと品質管理の問題が出た。


 一つ解決策を出すたびに、新しい問題が二つ増えていく。昼を過ぎた頃には会長は血圧の薬を飲み、副社長は二錠目の胃薬へ進み、素材担当役員は冷めたコーヒーを三杯飲み終えていた。


 久世も頭痛がひどくなっていたが、資料を何度も見返しているうちに、すべての問題に共通しているものがあることに気づいた。


「待ってくれ。結局、我々がこれだけ必死になって集めようとしている物は、全部どこから来る?」


 何人かが顔を上げ、質問の意味を測りかねたように互いを見る。素材担当役員が当然のことを確認するように、ダンジョンですが、と答えた。


「それを誰が持って帰ってくる。甲殻も、牙も、骨も、鉱石も、核も、ポーションも、最初に外へ持ち出しているのは誰だ?」


「……探索者です。少なくとも、現在市場へ流れている回収品の多くはそうなります」


 久世は椅子に背を預けた。研究部門が喉から手が出るほど欲しがっている品々は、工場から計画的に出荷されるわけでも、鉱山会社が生産計画に従って掘り出すわけでもない。


 武器を持った人間が異常空間へ入り、モンスターと戦い、生きて帰ってきた結果として初めて市場に現れる。仕入れ計画も生産計画も、その一番手前にあるものが探索者の活動に依存しているのだから、既存の調達方法だけで安定させようとしても限界がある。


「なんというか……我々は巨大企業の経営会議をしているはずなのに、仕入れ先が毎日モンスターと戦っているという前提から考え直さないといけないらしいな」


「そう言われると、改めて酷い事業環境ですね。仕入れ先が死亡する可能性まで供給リスクに入れなければならない業界は、当社でもほとんど経験がありません」


 副社長の言葉に、会議室が再び静かになった。しかし今度の沈黙は、それまでとは少しだけ種類が違っていた。


 市場へ出た後の素材を海外企業と奪い合うのではなく、その前段階から関わる方法はないのか。探索者との直接契約や継続的な買い取り、装備や医療面での支援を通じて関係を作れば、少なくとも今より安定した調達経路を持てる可能性はある。


 何人かが同時に資料へ視線を落とし、別々の角度から同じ方向へ考え始めた。その中で副社長が少し迷ってから口を開くと、疲れ切っていた役員たちの視線が集まった。


「市場から買うだけでは限界があるという話なら、もっと直接的な方法も検討していいのではないでしょうか。当社自身で探索者を抱えて、自分たちで取りに行くという方法です」


 久世はすぐには答えず、会長も腕を組んだまま黙っていた。しかし数秒もすると、素材、医療、調達を担当する役員たちの表情が少しずつ変わり始めた。


 自社で探索者を雇い、必要なダンジョンへ継続的に送り込むことができれば、素材の安定確保に近づけるかもしれない。市場価格の高騰に振り回されることも減り、研究部門と連携して必要な素材を優先的に回収することもできる。


 長時間続いた会議の中で、初めてまともな解決策らしいものが見えたことで、久世自身も少しだけ頭痛が軽くなったような気がした。少なくとも、その案について具体的な検討を始める価値はありそうだった。


 ただし、その場にいた経営陣はまだ知らなかった。


 自社で探索者を雇えばいいという一見単純な発想が、人事、法務、労務、安全管理、保険、装備調達、回収品の所有権まで巻き込み、翌日の会議で今日以上の頭痛を彼らにもたらすことになるとは、この時点では誰も考えていなかった。

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