第243話 親孝行
久しぶりに何も予定を入れていない日だった。
暗渠へ行く予定もなく、管理窓口から呼び出されてもいない。買い物も昨日のうちに済ませてあり、昼を過ぎても戸張は自宅のソファに座ったまま、適当に動画を流しながら過ごしていた。
こうして何もしないでいると、会社員だった頃の休日に戻ったような気分になる。明日の仕事を考えなくていいことと、数日前まで巨大な生物を相手にしていたことを除けば、生活そのものは以前とそれほど変わっていない。
「……そういえば」
テーブルに置いていたスマートフォンを手に取った。
先日、管理側から連絡が来ていたことを思い出したのだ。これまで持ち込んだ装備や素材について、正式な評価が終わっていないものも多いため、ひとまず一部を概算で前払いするという内容だった。
金額についても書かれていた気がする。確認した時にはずいぶん大きいなとは思ったものの、別件の連絡も重なっていたため、実際に入金されたあとの残高までは見ていなかった。
銀行のアプリを開いて認証を済ませると、現在の残高が表示された。
「…………」
戸張は画面を見たまま動きを止めた。
何かを見間違えた気がして一度アプリを閉じ、もう一度開いてみる。しかし表示された数字は変わらず、さすがにおかしいと思って入出金履歴まで確認した。
探索者としての報酬や回収品の買い取り、装備の評価額、それに今回の前払い分が何件かに分かれて振り込まれている。表示の不具合でも、どこかの誰かが間違えて送金したわけでもなさそうだった。
戸張はもう一度残高へ戻り、桁を右から数え始めた。
「一、十、百、千、万……」
途中でやめた。
「億あるじゃん」
口に出してから、余計に現実味がなくなった。
会社員だった頃なら、何十年働けば届くのか考えることすらなかった金額だ。しかも、これで全部ではなく、渡した装備や素材にはまだ評価の終わっていないものがあり、今後も持ち込む予定のものまで考えれば、さらに増える可能性の方が高い。
「どうすんだよ、これ」
誰に聞くでもなく呟きながら、使い道を考えてみた。
車や家を買うこともできるし、旅行へ行ってもいい。高い物を買おうと思えば、今までなら値段を見て諦めていたようなものにも大抵は手が届くだろう。
しかし、いざ自分が使っているところを想像すると、これといって欲しいものが思いつかない。今の家に特別な不満はなく、車も必要になれば買えばいい程度で欲しい車があるわけでもない。高級時計にも興味はなく、服に何十万円も使いたいとは思わないし、一人で毎日のように高級店へ食事に行く生活も面倒そうだった。
「……金って、持ったら持ったで困るんだな」
そんなことを言えば怒られそうだと思いながら、ソファへ背中を預ける。
しばらく考えているうちに、ふと両親の顔が浮かんだ。
会社を辞め、探索者になったことを以前ようやく話した時にも、ずいぶん心配をかけた。考えてみれば、仕事を始めてから今まで、まともに親孝行らしいことをした覚えもほとんどない。
誕生日に何かを送ったことや、帰省した時に食事を奢ったことくらいはある。それでも、親孝行をしたと言えるほどのことではなかった気がする。
「家……か」
実家のことを考えた。
昔から住んでいる家で、当然ながら古くなっているところもある。建て直そうと思えば今なら余裕で費用を出せるし、どうせなら別の場所へ移ってもらってもいい。
セキュリティのしっかりしたマンションでもいいし、土地から探して新しく家を建てることもできる。
そこまで考えたところで、戸張の中で話が単なる金の使い道ではなくなった。
自分の今の立場を考えれば、家族がこれまで通りの生活を続けていて本当にいいのかという問題がある。
日本政府にはすでに自分のことをかなり深いところまで知られているし、海外でも自分の存在に気づき始めた人間がいるかもしれない。いや、いるだろう。スパイ天国日本を信じてはいけない。
今のところ、戸張透という名前と六層でハウンドを助けた人間が公に結びついているわけではないが、それが永遠に続く保証もない。
自分を直接どうにかするより、家族を狙った方が簡単だと考える人間が現れないとも限らなかった。
「……引っ越してもらった方がいいか」
そう思ったところで、すぐに別の問題に気づいた。
どう説明すればいい。
危ないから引っ越してほしいと言えば、当然、何が危ないのかと聞かれる。探索者だからと答えれば、今度はどれくらい危険なことをしているのかという話になり、そこから先はほとんど説明できない。
「無理じゃないか?」
戸張は電話帳を開いたまま、十分近く悩んだ。
単純に金が入ったから家を買うというだけなら簡単だ。しかし、急に億単位の金を持っていると話せば、まずその理由から説明しなければならない。
探索者として稼いだと言えば済むのかもしれないが、普通の探索者がどの程度稼いでいるのか、両親が調べていない保証もない。何より、深い階層へ行っているから高額な報酬を得ているなどと説明すれば、確実に余計な心配をかける。
「最近ちょっと稼いだから、家買わないか……軽すぎるな」
口に出してみたが、どう考えても説明不足だった。
「探索者の仕事が順調だから……いや、順調って何だよ」
もう一度考え直し、なるべく普通に聞こえる言い方を探す。
「今の家も古くなってきたし、建て直さないか……これならまだ自然か」
金は自分が出す。必要なら土地も買い、防犯設備を充実させた丈夫な家にすればいい。
そこまで細かく言う必要はない。まずは建て直すか引っ越す気があるかだけ聞けばいいのだと自分に言い聞かせ、ようやく電話をかけた。
数回の呼び出し音のあと、母親が出た。
『もしもし? どうしたの』
「ああ、俺。今、大丈夫?」
『大丈夫だけど。何かあった?』
「いや、何かあったわけじゃないんだけど」
そこで言葉が止まった。
頭の中では何度も説明したはずなのに、実際に電話が繋がった途端、急に全部言いづらくなっている。
『何よ』
「……家さ」
『家?』
「そっちの家、結構古くなってきただろ」
『まあ、古いは古いけど』
「建て直さない?」
電話の向こうが少し静かになった。
『なんで?』
「なんでって……古いから」
『まだ住めるわよ』
「いや、住めるけど。俺が金出すからさ」
『いいわよ、そんなの』
あまりにもあっさり断られた。
「いや、まだ金額とか何も言ってないだろ」
『金額の問題じゃないわよ。今の家で別に困ってないもの』
「でも、防犯とかもちゃんとした方がいいし」
『鍵ついてるわよ』
「そういうレベルじゃなくて」
『何よ、そのレベルって』
当然の質問だったが、答えられない。
まさか、外国の政府が自分の存在に気づいている可能性があって、六層でアメリカ人を助けたことまで含めて今後何が起きるか分からない、などとは言えるはずもなかった。
「最近、物騒だから」
『昔から物騒な事件くらいあるでしょ』
「いや、そうなんだけど」
『それに、家を建て直すお金があるなら、自分のために使いなさいよ』
「俺は別に欲しいものないし」
『だったら貯めておきなさい』
「もう十分貯まってる」
『いくらあるの』
「…………」
『いくら?』
「まあ、それはいいだろ」
『怪しいわね』
「怪しくないよ」
『ちゃんとしたお金なんでしょうね?』
「国から振り込まれてるから、その辺は多分一番ちゃんとしてる」
『何したのよ、あんた』
「探索者の仕事だよ」
『危ないことしてないでしょうね』
完全に失敗した。
戸張は額に手を当てながら、どうにか話を戻そうとする。
「してないとは言わないけど」
『ちょっと』
「いや、ちゃんと安全には気をつけてる」
『あんたねえ』
「だから、その話じゃなくて家の話を」
『家なんかいいのよ。それよりあんた、自分のこと考えなさい』
「自分?」
『いつまで一人でいるの』
戸張は、話が嫌な方向へ進み始めたことをすぐに察した。
「今その話関係ないだろ」
『関係あるわよ。家を建てるお金があるなら、自分の家を建てなさいよ』
「今のところで困ってない」
『じゃあ結婚しなさい』
「話飛びすぎだろ」
『飛んでないわよ。もう三十でしょう』
「三十だけど」
『いい人いないの?』
「いない」
『探してないだけでしょ』
「今忙しいんだよ」
『会社辞めたんでしょう』
「探索者やってるって言っただろ」
『毎日会社行ってた頃より時間あるんじゃないの?』
「ないよ」
実際には会社員時代より自由に使える時間そのものは増えている。ただ、その大半を六層や七層で使っているため、暇かと聞かれれば全くそんなことはない。
『お母さんはね、家なんか新しくしてもらうより、そっちの方がいいの』
「そっちって」
『孫』
「まだ結婚もしてないのに順番飛ばすなよ」
電話の向こうで母親が笑い、少し離れたところから父親の声まで聞こえてきた。
『何の話してるんだ』
『透が家建ててくれるって』
『いらんだろ』
「聞こえてるぞ」
『それより嫁さんはどうした』
「揃って同じこと言うなよ」
『孫はまだか』
「だから順番があるだろ!」
久しぶりに家の中で大きな声を出した。
そのあとも、家はいらない、自分のために使え、いい人はいないのか、昔の同級生はどうだと話が続き、戸張は何度か元の話題へ戻そうとしたものの、結局引っ越しの話はまとまらなかった。
「……じゃあ、また考えといて」
『考えないわよ』
「即答するなよ」
『あんたこそ考えなさいよ。結婚』
「切るぞ」
『はいはい。また電話しなさい』
「ああ」
通話を切ると、急に部屋が静かになった。
戸張はしばらくスマートフォンを見つめたあと、そのままソファへ倒れ込む。
「……家一軒買う方が、六層より難しいんじゃないか?」
冗談半分で呟きながら、もう一度銀行アプリを開いた。
画面には相変わらず見慣れない桁の数字が並んでいる。金は十分にあり、その使い道もようやく一つ思いついたのに、肝心の相手にはあっさり断られてしまった。
戸張は銀行アプリを閉じ、スマートフォンを胸の上へ置いたまま天井を見上げる。
引っ越してくれないなら、別の方法を考えるしかない。
少なくとも、自分がいない間に何かが起きて、それから後悔するようなことだけは避けたかった。




