第242話 六層到達
五層最奥の扉を前に、六人の隊員が短い休止を取っていた。
誰も座り込んではいない。呼吸は多少深くなっているものの、それも数分前まで戦闘をしていた人間として見れば異様なほど軽く、防具に付着した血を布で拭い、刃の状態を確認し、水分を補給しながら周囲への警戒を続けている。
彼らが五層へ入ってから、ここまで銃声はほとんど響いていなかった。銃を持っていないわけではなく、各員の装備には火器も含まれているが、それを使う条件は事前に厳しく決められている。
撤退が困難になった場合。近接戦闘では対処できない敵が現れた場合。そして、隊員の生命に直結する緊急事態。
それ以外では可能な限り使用しないという方針を支えているのが、彼ら自身の身体能力と、身につけている特殊な装備だった。
一般に流通している探索者用装備とは、形からして違う。胸部を覆う防具は異常空間由来の外皮を幾層にも重ねながら身体の動きをほとんど阻害せず、肩や肘、膝の防護も必要な場所だけが厚く補強されている。腰にはそれぞれ異なる長さの刃物が収まり、主武装には槍、長刀に近い刃物、重量のある鉈状の武器まで混在していた。
どれも同じ規格品には見えない。
握りの太さや重心、刃の角度、防具との干渉まで、使用する人間に合わせて細かく調整されている。それを作った者たちが誰なのか、どこで製作されているのかについて、隊員たちは詳しい説明を受けていなかった。
知る必要がないと判断された情報を、彼らから尋ねることもない。
「五分経過」
「異常なし」
短いやり取りだけが交わされる。
今回投入された六人について、正式な所属名を知る者は限られていた。書類上でも部隊名は必要以上に記されず、選抜過程や訓練内容の詳細まで把握しているのは、今回の探索計画に直接関与する一部の人間だけだった。
ただ、その動きを見れば、通常の部隊とは違うことだけは分かる。
誰か一人が周囲を確認するとき、別の誰かが自然に死角を補っている。武器を点検している間にも警戒は途切れず、指示の大半は短い言葉か手振りだけで通じていた。通常任務では想定されない装備を渡されても短期間で扱い方を組み立て、五層までの戦闘でも隊形を大きく崩していない。
先頭の男が、耐水性の袋から一本の巻物を取り出した。
褐色の皮を巻いたような外見で、表面に文字らしきものは見当たらない。先ほど倒した五層のボス、その撃破後に確認された唯一の報酬だった。
「これ一本か」
「確認できたものはな」
ボスの死体周辺だけでなく、部屋の壁や床まで調べている。見落としを防ぐため二度確認したが、それでも回収できたものは、この皮の巻物一本だけだった。
これまでに確認された異常空間では、ボス撃破後に複数の回収品が出現した事例もある。それを考えれば、今回の報酬は不自然なほど少ない。
「スクロールと仮称。現地使用はしない」
「了解」
効果は分からないが、過去の事例から何らかの特殊な作用を持つ可能性は高い。未知の回収品を、退路も完全には保証されていない深層で試す理由はなく、持ち帰って検証することは最初から全員の共通認識だった。
先頭の男が巻物を収納して立ち上がる。
「予定通り、扉の先を確認する。進入後は周辺確認のみ。交戦は避け、地形、環境、生物の有無を記録する。危険度に関係なく予定時間で離脱だ」
異論はなかった。
今回の目的は六層を攻略することではなく、到達を確認し、最初の情報を持ち帰ることにある。五層を突破できたという事実だけで、そのまま未知の階層を進み続ける理由にはならない。
二人が扉の左右につき、残る隊員が後方と側面を警戒する。記録装置が正常に作動していることを確認したあと、先頭の男が扉へ手をかけた。
「開けるぞ」
重い扉がゆっくりと動き、隙間から白く明るい光が差し込んだ。これまでいた五層とは明らかに違う自然光に近い明るさが広がり、扉が完全に開いたところで先頭の隊員が一歩だけ進む。
続いて外へ出た六人は、その先に広がる光景を前に一瞬だけ動きを止めた。
「……記録」
「継続中」
目の前に広がっていたのは、緩やかな起伏を持つ野原だった。
青い空の下に草地が遠くまで続き、薄い雲が流れ、風に吹かれた草が同じ方向へ揺れている。異常空間の内部だという事実を除けば、その範囲までは理解できる景色だった。
問題は、その上にある。
巨大な岩が、空に浮いていた。
一つではない。数十メートルはある岩塊が地面から完全に離れた位置で静止し、さらに遠方には小さな山の一部をそのまま切り取ったような巨大なものまで浮かんでいる。
何かに吊られている様子はなく、岩の下面からは土や植物の根らしきものが露出し、その上には草木まで生えていた。それでも落下する様子はなく、空中の決まった場所に固定されているように見える。
「距離測定」
「近いもので推定八百。高度、およそ百二十」
「移動は?」
「少なくとも目視では確認できない」
一人が小型の測定機器を向け、別の隊員が倍率を上げた光学機器で遠方を確認する。
浮いているという事実以外、何も分からなかった。どうやって浮いているのかも、なぜ落ちないのかも、これまでの階層で蓄積してきた知識では説明できない。
「映像、広角でも残せ。遠方と空もだ」
「了解」
驚いていないわけではない。
それでも、誰も不用意に浮岩へ近づこうとはしなかった。頭上の異常よりも先に足元を確認し、草の状態、地面の硬さ、風向き、臭気、周囲で動くものの有無を調べていく。
未知の光景に意識を奪われること自体が危険だと、全員が理解していた。
「現時点で生物反応なし。目視でも動くものは確認できない」
「扉から百メートルを上限に確認する」
六人は互いを支援できる距離を維持したまま進んだ。
地面は普通に歩くことができ、少なくとも隊員自身が感じ取れる重力の異常もない。草を踏めば倒れ、拾った小石を軽く投げれば地面へ落ちる。
それなのに、頭上の岩だけは落ちてこない。
「時間、残り二分」
先頭の男は周囲を見渡した。
野原はさらに遠くまで続いており、その上には大小の浮岩が点在している。さらに遠方には、地面から伸びているのか、空から垂れ下がっているのかさえ判別できない巨大な影も見えていた。
調べるべきものはいくらでもある。
だからこそ、今日はここまでだった。
「撤退する」
全員が即座に反転した。
何があるのか知りたいという気持ちと、進むべきかどうかの判断は別のものだった。六層到達、地形確認、映像記録という当初の目的はすでに達成しており、未知の環境で予定を変更する理由はない。
六人は扉まで戻り、一人ずつ五層へ抜けた。
最後尾の隊員が通過したあと、改めて周囲の安全を確認していた一人が、床の一点を見て動きを止める。
「待て。進入前に、あれはあったか?」
全員の視線が同じ場所へ向いた。
五層ボス部屋の床に、淡い青白い光が円形に広がっている。
「なかった」
「記録を確認」
携行端末で六層進入前の映像を呼び出す。ボス撃破後、部屋を調査した時点の床には何もなく、現在光っている場所もはっきり映っていた。
「進入前には存在しない。六層到達後に出現した可能性が高い」
「触れるな。距離を取って記録する」
隊員たちは円形の光へ不用意に近づかず、複数方向から映像と測定記録を残した。
光そのものに明確な変化はなく、一定の明るさを保ったまま床に存在している。熱源として目立った反応はなく、音も振動も確認できない。
「ゲームだと転移装置だな」
「否定はできない」
「戻るぞ」
「了解」
判断に時間はかからなかった。
未知の装置へ入った結果、どこへ移動するのか分からない。戻れる保証もなく、六層到達という重要な記録と、未確認のスクロールまで持っている現状で試す価値はなかった。
必要な映像と測定値だけを残し、六人は予定していた撤退経路へ向かう。
五層のボスを突破し、その先にあった六層を確認した。
空に岩が浮かぶ、これまでとはまるで異なる野原。
そして、六層到達後に突然現れた正体不明の光る円。
持ち帰るべきものは、十分すぎるほど増えていた。




