第241話 四層の壁
壁面いっぱいに映し出された世界地図には、国境線とは別に無数の点が打たれていた。
確認済みの異常空間。そのうち継続的な進入が行われているもの、政府管理下に置かれたもの、民間人の活動が確認されているもの。それぞれに異なる記号が割り振られ、地図の横には国別の推定保有数と管理状況が並んでいる。
会議室に集められているのは、国防、情報、外交、科学部門、それに国内の異常空間対応に関わる担当者たちだった。
「日本との協議で、方向そのものは共有できた」
正面に座る男が資料を開いたまま言った。
「だが、世界規模の管理構想と言葉にするのは簡単だ。実際に何を共有し、どこまで各国に求めるのか。その前に、主要国が現在どう動いているのかを整理する必要がある」
画面が切り替わり、最初にフランスが表示された。
「フランスでは地域行政による入口管理を基礎としながら、危険度の高い異常空間については中央で基準を統一しています。軍、憲兵、警察、救助組織のほか、認可された民間要員も活動していますが、自由な進入を広く認める方式ではありません」
「到達深度は?」
「複数地点で三層までの継続活動を確認。四層到達例もあります。ただし、四層を安定した活動域にできているとは評価していません」
次にイギリス。
「こちらは構造が少し違います。政府機関だけでなく、地域機関、研究組織、認可された民間事業者など複数の主体が活動しています。それらを認可制度と情報共有によって接続する形で、活動記録の集約も比較的進んでいます」
「同じく四層か」
「はい。先行する複数のチームが四層へ入っていますが、損耗を抑えながら継続的に活動できる段階には達していません」
画面はドイツへ移った。
「ドイツは州ごとの権限が強く、異常空間対応も初期には地域によって差がありました。現在は共通化が進んでいますが、入口ごとの運用にはまだ違いがあります。一方、安全管理、撤退基準、救難体制、遠隔観測については非常に慎重です」
「結果は?」
「三層までの事故率は、確認できる主要国の中でも低い部類です」
「四層は」
「停滞しています」
会議室の一人が資料から顔を上げた。
「事故が少ないのに、先へ進めない?」
「正確には、安全に進めると判断できる範囲から出ていない、と見るべきでしょう」
最後にインドが表示された。
「インドは一国として平均化すること自体に注意が必要です。中央政府、州政府、治安機関、災害対応組織に加え、地域によって民間活動の規模にも大きな差があります。正規に把握されている活動では三層が主要活動域で、四層への進入が先行例です」
「未登録の探索者は?」
「完全には把握できていません。ただし、それを理由に未確認の深層到達者がいると判断することもできません。現時点で裏付けられている範囲では、他国と大きな差はありません」
四か国の資料が縮小され、同じ画面に並んだ。
制度も違う。
軍や警察の関わり方も違えば、民間人をどこまで活動させるかにも大きな差がある。それでも、到達深度だけを並べると似たところに集まっていた。
三層までは活動域として定着し始める。
その先、四層で急激に進みが鈍る。
「日本も、一般探索者と公的部隊の公式記録だけを見れば、大きく外れてはいません」
「つまり、制度の違いだけでは説明できない」
「はい。軍事力の差だけでもありません」
アメリカ自身も例外ではなかった。
浅い階層では、現代火器は圧倒的に有効だった。多少頑丈な生物が相手でも、複数人による射撃、高威力の弾薬、防護装備を組み合わせれば対処できる。
深くなるにつれて、その優位が崩れていった。
速い。
硬い。
致命傷を受けても即座には止まらない。
狭い地形から突然接近され、射線を作る前に距離を詰められることも増える。
銃弾がまったく効かなくなるわけではない。だが、銃を持ち込めば人間側が一方的に処理できるという低層の常識は、四層付近から明確に通用しなくなっていた。
「そして、もう一つあります」
担当者が資料を切り替えた。
今度は、各国の探索者に確認されている身体能力の変化が表示された。
「異常空間内で継続的に活動した人間に身体能力の向上が起こる。この現象そのものについては、主要国の多くがすでに把握しています」
「そこに大きな認識差はない?」
「ないと見ていいでしょう。筋力、持久力、反応速度を含め、通常の訓練だけでは説明しにくい変化は複数国で確認されています。問題は、なぜ同程度の期間活動している人間同士で、成長幅に大きな差が出るのかです」
資料の中央に、四人分の記録が追加された。
ハウンド。
彼らが異常空間へ入り始めてからの活動記録と、身体検査の結果が時系列で並んでいる。
「我々については、この点はすでに単なる推測という段階を越えつつあります」
「ハウンドか」
「はい。彼らの協力によって、過去の検査記録と現在の測定値を照合できています。探索履歴、使用装備、戦闘内容についても本人たちから詳細な聞き取りを行いました」
数値の変化を示す線が、いくつも右肩上がりに伸びていた。
筋力。
瞬発力。
持久力。
反応速度。
いずれも、単なる訓練効果では説明しづらい変化を示している。
「重要なのは、伸び方が一定ではないことです。初期、銃火器による遠距離戦闘を主体としていた時期と、深い階層で接近戦や直接的な戦闘への関与が増えた時期では、身体能力の変化量に明確な差があります」
「モンスターを倒した数では?」
「一致しません」
「滞在時間は」
「それだけでも説明できません」
担当者は画面を拡大した。
「現時点で最も強く相関しているのは、本人が戦闘にどれだけ直接関与したかです。使用した武器、敵との距離、戦闘時間、身体への負荷。それらをハウンドの記録と照合すると、単純な撃破数よりもこちらの方が身体能力の変化と一致します」
「銃を使うと成長しない、ということか?」
「正確には違います」
担当者はすぐに答えた。
「現代火器そのものが成長を阻害している証拠はありません。銃を使えば、遠距離から短時間で敵を処理できます。その結果、身体能力の変化を引き起こす条件を満たす機会が減っていると考える方が自然です」
「つまり、強い武器を使ったから育たなかったんじゃない。強い武器のおかげで、本人が戦わずに済んだ」
「現段階では、その可能性が極めて高いと見ています」
誰かが椅子へ深く背を預けた。
「皮肉だな」
未知の危険生物がいる。
ならば、より強い武器を持たせる。
距離を取り、安全に排除する。
国家としては当然の判断だった。
実際、その判断によって低層で多くの人間が生還している。
だが、その安全性が、人間自身がダンジョンに適応する機会まで減らしていた可能性がある。
「他国はどこまで気づいている?」
「身体能力向上そのものについては把握しています。成長幅に個人差があることも、おそらく多くの国が認識しています。ただし、その差を戦闘への直接関与と結びつけて、我々と同程度の確度で確認している国は多くないでしょう」
「理由は?」
「比較できる対象が少ないからです」
ハウンドの資料が再び表示された。
「六層まで到達し、その過程の記録が残っていて、帰還後も継続検査と詳細な聞き取りに協力している探索者集団は極めて珍しい。浅い階層だけを活動する多数の探索者からでも身体能力向上そのものは確認できますが、何が成長率を左右しているかを切り分けるには不十分です」
「フランスやドイツがまだそこまで確信していないのも、そのせいか」
「そう見ています。各国とも似た仮説には到達している可能性があります。強敵との戦闘、深度、滞在時間、負傷経験、撃破数。候補はいくつもある。しかし、それぞれを分離して検証する材料が足りない」
「我々にはハウンドがいた」
「はい」
それは、六層まで到達したという実績とは別の意味でも価値があった。
彼らは生きて帰った。
記録を持ち帰った。
そして、調査に協力している。
世界でもほとんど存在しない、深層探索者の継続観測データだった。
「だが、この情報を得たからといって、兵士から銃を取り上げるわけにはいかないな」
「当然です」
国家が探索者へ、
強くなるために危険な距離で戦え。
そう簡単に命じられるはずがない。
探索者の成長と、生還率。
両方を成立させる方法は、まだ見つかっていなかった。
画面が再び切り替わった。
中国。
ハウンド。
そして、日本。
「通常の傾向から明確に外れた事例があります」
中国は国家主導で深度を求め、その先で大規模な流出を起こした。
アメリカのハウンドは、世界的な停滞域を越えて五層を攻略し、六層へ到達した。
そして、その六層には彼らより先にいた存在がいた。
白い人型。
森の生物を従えている可能性があり、巨大生物を一撃で倒し、ハウンドとの会話まで成立させた人物。
「例外を基準に制度は作れない」
正面の男が言った。
「だが、例外を無視して制度を作ることもできない」
しばらく沈黙が続いた。
「管理構想の対象を整理しよう」
画面から各国の攻略深度が消え、新しい項目が並んだ。
異常空間の危険度。
確認された階層。
新種生物の情報。
異常な個体増加。
入口周辺での活動変化。
回収品による重大な危険。
流出の兆候。
そして、探索者に起きる身体的変化に関する情報。
「各国の探索制度を統一するのは現実的ではない。フランスとドイツだけを見ても構造が違う。インドに同じ制度をそのまま要求することもできない」
「探索者資格の共通化も後回しですか」
「最初からそこへ手を出せば、主権の問題で止まる」
別の人物が資料へ視線を落とす。
「なら、最初に共通化するのは」
「危険情報だ」
その言葉に何人かが頷いた。
「どこまで潜るかは各国が決めればいい。誰を入れるかも、何を持たせるかもだ。だが、ある国が六層で何かを見つけ、その情報を抱え込んだまま、別の国が何も知らずに同じ場所へ進む状況は終わらせる必要がある」
中国で起きたことが、その必要性を証明していた。
入口から大量の生物が溢れ、都市部が占拠され、軍が火力を投入しても事態を止めきれなかった。
同じ兆候が別の国で起きた時、その国が何も知らなければ、また最初から失敗を繰り返すことになる。
「危険度分類、階層到達情報、流出兆候、新種の危険生物、回収品の重大事故。それに探索者の身体変化と各国間の緊急通報網」
「最低限、そのあたりからでしょう」
「参加国が情報を出したがらない場合は?」
「利益を用意するしかありません」
別の担当者が答えた。
「受け取るだけではなく、出した国も他国の情報を得られる仕組みにする。共有した方が自国の探索者と国民を守れると判断させる必要があります」
理想だけでは国は動かない。
安全だけでも足りない。
自国にとって利益があると理解して初めて、継続する仕組みになる。
正面の男は世界地図へ視線を戻した。
無数の点は国境とは無関係に存在している。
アメリカにもある。
日本にもある。
中国にも、フランスにも、イギリスにも、ドイツにも、インドにもある。
そして、その中がどこまで同じなのかさえ分かっていない。
「世界を一つの制度で管理する必要はない」
男は静かに言った。
「まず、同じ失敗を世界中で繰り返さない仕組みを作る」
誰も反論しなかった。
世界規模の異常空間管理構想。
その最初の形は、各国の探索者を束ねる巨大な組織ではない。
国境を越えて危険と知見を共有するための仕組み。
そこから始めるしかなかった。




