第233話 約束の重さ
エレナに続いてケイレブが扉を抜け、コールがその背後を守りながら五層側へ戻った。
最後にグラントが扉を通過する。
足が床へ着くと同時に振り返り、黒い槍を構えた。
開いた扉の向こうには、薄暗い六層の森が見えている。木々の間に白い人影はなく、追ってくる生物の姿もなかった。
「閉じるまで警戒を続けろ」
グラントの指示に、三人はそれぞれ武器を構えた。
扉が閉じ、六層の森が視界から消える。
直後、ケイレブが大きく息を吐いた。
負傷していない手で小銃を支えていたが、銃口は徐々に下がり、最後には床へ向けられた。閉じた扉から離れるように二歩下がり、壁へ背中を預ける。
森にいた時は一度も見せなかった疲労が、急に表へ出ていた。
「ケイレブ?」
エレナが呼びかける。
「大丈夫だ」
そう答えた声には、普段の落ち着きが戻りきっていなかった。
ケイレブは何度か深く呼吸し、閉じた扉を見た。
「追っては来ないみたいね」
エレナが周囲の計測値を確認しながら言った。
コールも大口径狙撃銃を下ろし、壁際へ腰を預ける。
「本当に帰ってこられたな」
「そうだな」
ケイレブが応じた。
それから隣にいるコールへ顔を向ける。
「さっきは助かった」
「狼に噛まれた方か?」
「違う。あいつに銃を向けた時だ」
コールの表情から軽い笑いが消えた。
ケイレブは閉じた扉へ視線を戻したまま続ける。
「お前が止めなければ、俺は撃っていた」
「引き金から指を外していたじゃないか」
「最初はな」
ケイレブは小銃を握る手を見た。
「あと少し止めるのが遅ければ、引いていた。だから礼を言っている」
コールは返事をせず、ケイレブの横顔を見た。
グラントも二人の会話を遮らなかった。
ケイレブ・ロークは、四人の中で最も周囲の変化に敏感だった。
足跡や折れた枝から生物の移動を読み、風向きと匂いから接近を察知する。動物が鳴かなくなった理由や、森全体が急に静まった意味を考え、目に見える前から危険を避けてきた。
本人はそれを、自然との対話と呼んでいた。
自然が言葉を話すわけではない。環境には常に変化があり、気づく者にだけ情報を渡している。ケイレブは、それを拾い続けて生きてきた。
六層でも同じように周囲を見ていた。
だからこそ、ほかの三人より早く気づいてしまった。
「あの森に入った時から、何かに見られていた」
ケイレブが話し始める。
「狼に囲まれた時とは違う。餌を狙う目でも、縄張りを守る生物の警戒でもなかった。木の上にも、茂みの中にも、俺たちが歩いてきた後ろにも何かがいた。姿は見えなくても、どこにいるかは何となく分かった」
エレナが端末から顔を上げた。
「白い人が現れた後も?」
「むしろ、あいつが現れてからはっきりした。周囲にいたものは、俺たちではなく、あいつを見ていた」
ケイレブは一度言葉を止めた。
何をどう説明すればよいのか迷っているようだった。
「俺はこれまで、森の中で何度も危険な目に遭った。捕食者に追われたことも、逃げ道を失ったこともある。人間に銃を向けられたことだって一度や二度じゃない。それでも、あそこまで悍ましいと感じたことはなかった」
「森にいた生物の数か?」
グラントが尋ねた。
「それだけじゃない」
ケイレブは首を振った。
「周囲から浴びていた視線より、あの一人から感じるものの方が強かった」
白い鎧に覆われた人型は、ほとんど動かなかった。
声を荒らげることも、武器を構えることもなかった。表情さえ見えず、スマートフォンを使って慎重に意思疎通を図ろうとしていた。
それでもケイレブには、周囲に潜む正体不明の生物すべてより、目の前に立っていた一人の方が不気味に感じられた。
「あいつが黙り込んだ瞬間、森が変わった。周囲にいたものが、全部こちらへ意識を向けた。命令する声も動作もなかったのに、何をすべきか分かっているように動いた」
ケイレブの手に力が入り、小銃の吊り紐が軋んだ。
「俺には、あいつが何かを考えたせいだとしか思えなかった。次の瞬間には、森中から襲われる。そう感じたから銃を向けた」
「それで、撃とうとしたのか」
「怖かったんだ」
ケイレブは認めた。
言い訳を挟まず、平坦な声で口にした。
「危険だと判断したんじゃない。あの時の俺は、恐怖から銃を向けた」
コールがゆっくりと息を吐く。
ケイレブは正面を見たまま、独り言のように続けた。
「あれが人?」
誰かへ尋ねたのではなかった。
「本当に?」
巨大生物を一撃で進路から弾き、周囲に潜む無数の生物を声もなく従わせる白い人型。
人間の道具を使い、自分を人間だと答えた存在。
「あれが人だというなら、ほかは一体何なんだ」
狼型も、森砕きも、周囲に潜んでいた生物も、人間が戦うべき怪物として理解できる。
しかし、あれを人間として受け入れるなら、人間と怪物を分けていた境界そのものが分からなくなる。
「俺たちも人間かと聞き返されたけどな」
コールが静かに言った。
ケイレブはしばらく黙った後、わずかに口元を緩めた。
「向こうも同じことを考えたのかもしれない」
「それなら公平な質問だったな」
「ああ」
ケイレブはようやく扉から視線を外した。
「もう一度言う。止めてくれて助かった」
「次からは、止められる前に言ってくれ」
「努力する」
いつものケイレブなら、もっと皮肉を返していたはずだ。
その余裕が戻っていないことに、コールも気づいたらしい。それ以上は何も言わず、ケイレブの肩を軽く叩いた。
グラントは自分の装備に残った記録を確認した。
胸部と肩のカメラは作動を続けている。巨大生物との遭遇から、白い人型が現れた場面、その右腕が異常な大きさへ変化し、突進していた巨体を横から殴り飛ばすまでが残っていた。
映像を見返す必要すらない。
あの光景は、当分忘れられそうになかった。
巨大生物に対して、自分たちの銃火器はほとんど意味を持たなかった。大口径弾でも止められず、黒い槍を使える距離まで近づけば、攻撃する前に踏み潰されていた可能性が高い。
それを白い人型は、一撃で進路から外した。
しかも、倒す必要すらないと判断したように追撃しなかった。
「人間だと言っていたわね」
エレナが戸張とのやり取りを記録した端末を確認する。
「少なくとも、本人はそう答えた」
「その後で、俺たちにも同じことを聞いたけどな」
コールが言った。
「あれは公平だっただろ。俺たちだって、向こうから見れば銃を持って森に入り込んできた正体不明の四人組だ」
グラントは黒い槍を壁へ立てかけた。
「人間かどうかより、何者なのかが問題だ」
人間の道具を使い、スマートフォンの翻訳機能も理解していた。ハウンド・スリーの存在を知っており、自分から接触する方法も持っているらしい。
それだけなら、どこかの国に所属する未公表の探索者とも考えられる。
しかし、六層の生物へ指示を出し、巨大生物さえ逃げ出すほどの何かを従えている人間となれば、話はまったく違ってくる。
「お願いという形ではあったけど、断れる状況ではなかったわね」
エレナが言った。
コールが彼女を見る。
「取引は取引だろ。向こうも一度だけ力を貸すと言った」
「こちらが断った場合、どうなっていたと思う?」
エレナの問いに、コールはすぐには答えなかった。
グラントは閉じた扉を見た。
白い人型は、二度と六層へ入らず、ほかの人間を案内しないよう求めた。守るものがあるとも言った。
あの森で感じた視線の数を考えれば、守ろうとしているものが一つや二つではない可能性もある。
「実質的には命令だ」
グラントが言うと、コールが苦笑した。
「ずいぶん丁寧な命令だったな」
「その代わりとして、自分の力を一度だけ差し出した。こちらの顔を立てるためか、本当に対等な取引にしたかったのかは分からない」
「どちらにしても、安い約束ではないわ」
エレナは記録映像を止めた。
「あの力を一度使える権利が、どれほどの価値になるかは計算できない」
「だからこそ、簡単には使えない」
グラントは三人を順に見た。
「依頼できるのは、ここにいる四人だけだ。政府にも軍にも権利は渡せない。内容を決めるのも、依頼が終わったと判断するのも向こうだ」
「報告したら、確実に使い道を提案されるぞ」
コールが言う。
「提案されるだけなら構わない」
「命令されたら?」
「断る」
グラントが即答すると、コールの表情から笑いが消えた。
ハウンド・スリーは政府の支援も受けている。
装備、輸送、情報、医療体制のすべてを提供されてきた。個人だけで五層まで到達できたとは、グラントも考えていない。
それでも、六層で交わした約束まで政府の所有物になるわけではなかった。
「記録は提出するしかない」
グラントは続けた。
「六層が別の入口とつながっていることも、白い人型と接触したことも隠さない。だが、俺たちは戻らないし、誰かを案内もしない」
「地図や映像を渡すことは、案内に含まれないのか?」
ケイレブの声には、先ほどまでの揺れが少し残っていた。
グラントは考えてから答える。
「映像は任務記録だ。隠せないし、隠すべきでもない。ただし、六層へ向かう部隊の編成や経路確認には協力しない」
「向こうが同じ解釈をする保証はない」
「その時は、こちらから説明する機会もあるだろう」
いつになるかは分からない。
白い人型は、約束が守られていれば自分から接触すると言った。
つまり、ハウンド・スリーが帰還した後の動きを確認する手段を持っている可能性がある。
それが単なる脅しなのか、本当に国外の動きまで把握できるのかは不明だった。
グラントは、後者であることを前提に行動するべきだと考えていた。
「まずはケイレブの処置だ」
エレナが応急処置用の装備を広げる。
「傷口をもう一度確認する。ここで感染が始まったら、約束の話どころではなくなる」
「狼に噛まれて感染症を気にする日が来るとは思わなかったな」
「普通の狼なら、もっと簡単に済んでいたわ」
ケイレブが壁際へ座り、エレナが防具を外し始める。コールは残弾を確認しながら、閉じた扉へ目を向けた。
「名前くらい聞きたかったな」
「聞いただろ」
「断られた。だから、俺たちで呼び名を決める必要がある」
「勝手につけるな」
グラントが言ったが、コールは聞いていない様子だった。
「白い鎧、森を従える、化け物みたいな腕。候補はいくらでもある」
「本人の前で呼ぶつもりなら、慎重に選びなさい」
エレナがケイレブの傷を確認しながら言う。
「次に会った時、気に入らない名前を聞かせたら、あなた一人だけ森に残されるかもしれない」
「一度助けた相手を、呼び名だけで殺すようには見えなかったけどな」
「あなたは相手を信用しているの?」
「命を助けられたことは信用してる。それ以外は分からない」
コールの答えに、グラントはわずかに頷いた。
今の時点で持てる評価としては、それが最も正確だった。白い人型は自分たちを助け、帰還を認めた。
一方で、周囲の生物を動かし、四人が再び六層へ入ることを禁じた。
味方ではない。
敵でもない。
少なくとも、今は約束を交わした相手だった。
エレナがケイレブの処置を続けていると、五層側の床に淡い光が走った。
最初は、装備の照明が何かへ反射したように見えた。
しかし光は消えず、何もなかった床の一部へ円を描いて広がっていく。
「全員、下がれ」
グラントが黒い槍を取り、光と仲間たちの間へ入った。
コールも狙撃銃を構え直し、エレナはケイレブを支えながら距離を取る。
エレナが携行端末を向け、反応を測定する。
「来た時にはなかった」
「六層で言われたとおりだな」
コールが光の円を見つめる。
「戻った後に現れるワープ」
「近づくな」
グラントは念を押した。
この場所から踏み込めば、どこへ転移するのかはまだ分からない。
ただし、白い人型は、自分も同じようなワープを使用しており、今のところ問題は起きていないと説明していた。
エレナが端末へ残した翻訳記録を呼び出す。
「彼が禁じたのは、ワープを使って六層へ戻ることよ」
画面に残っている文章を確認してから、グラントへ向ける。
「帰還するための使用まで禁じたとは書かれていない」
「俺たちは、まだ五層にいる」
コールが言った。
「これを使って入口側へ戻るなら、六層へ入ることにはならない」
「転移先が入口側だという保証は?」
ケイレブが尋ねる。
「確実な保証はないわ」
エレナは光の円を測定し続けた。
「ただ、反応の向きは六層の扉とは逆。私たちがこれまで使ってきた帰還用の転移地点に近い」
グラントは閉じた六層の扉と、床に浮かぶ光の円を見比べた。
約束したのは、ハウンド・スリーの四人がワープを利用して六層へ再び入らず、ほかの人間も案内しないことだった。
六層から離れるために使うことまで禁じられたわけではない。
事故や別の経路で六層へ入ってしまった場合も、脱出のためにワープを使うことは約束の目的に反しないはずだった。
「無人機を六層側へ送り込むのは駄目だな」
コールが言う。
「ああ。それは調査目的で六層へ戻すことになる」
グラントは答えた。
「だが、俺たちがここから帰還するために使う分には問題ない」
「それでも、最初に入る人間は必要ね」
エレナの言葉に、コールが狙撃銃を背負い直す。
「俺が行く」
「俺が先だ」
グラントが黒い槍を持ち直した。
転移先に危険があれば、最初に対応する必要がある。
コールは反論しかけたが、ケイレブの負傷とエレナの装備を見て諦めた。
「分かった。十秒待って、反応がなければ続く」
「そうしろ」
グラントは光の円へ足を踏み入れた。
一瞬、体の輪郭が淡い光に包まれ、その姿が床へ沈むように消える。
残された三人は武器を構えたまま待った。
数秒後、通信装置へ雑音が入り、途切れながらグラントの声が届く。
「問題ない。帰還地点だ」
コールが息を吐いた。
「本当に何でも知ってるんだな、あの白い奴」
「少なくとも、嘘はついていなかった」
エレナはケイレブを立たせる。
「先に負傷者を送るわ」
「一人で歩ける」
「知っている。でも転移先で倒れられると邪魔になる」
ケイレブは言い返さず、光の円へ向かった。
踏み込む直前に、一度だけ閉じた六層の扉を見る。
先ほどまで自分を包んでいた恐怖が、扉一枚を隔てただけで完全に消えたわけではない。
それでも、あの森から離れる方向へ進んでいるという事実だけで、呼吸はかなり楽になっていた。ケイレブの姿が光へ沈み、消える。
続いてコールがワープの前へ立った。
「女性を先に、とは言わないのか?」
「狙撃銃を持ったあなたが転移先でつまずく方が危険よ」
「信用がないな」
「あなたの日頃の行いの結果ね」
コールは笑いながら光の中へ入った。
残ったエレナは、周囲に忘れ物がないかを確認する。
記録端末、計測機器、応急処置用品。狼型との戦闘で破損した装備の一部まで回収し、最後に閉じた六層の扉を撮影した。
ヘルメットを被り直した際、首筋へ垂れていた髪を片手でまとめる。
エレナは五層側に誰も残っていないことを確認し、光の円へ足を踏み入れる。
淡い光が全身を包み、姿が消えた。寄生体も離れなかった。転移の感覚は一瞬で終わった。
エレナが次に足を着いたのは、攻略隊が出発時に通過した入口側の帰還区画だった。
床へ描かれた転移地点の周囲には、封鎖用の柵や計測装置が並んでいる。先に戻った三人のほか、警備要員と医療班が、突然現れたハウンド・スリーを見て一斉に動き出した。
「四名を確認!」
「負傷者一名、医療班を前へ!」
「装備には触れるな。未知の付着物を確認しろ!」
ケイレブはすぐに担架へ座らされ、エレナが負傷の経緯を説明する。
コールは大口径狙撃銃を降ろしながら周囲を見回し、ようやく完全に安全な場所まで戻ったと理解したようだった。
グラントは閉鎖された帰還区画の外へ目を向ける。
防護服を着た要員、監視カメラ、厚い隔壁。
六層の森とはまるで違う、人間が管理する空間だった。
それでも、あの白い人型が本当に約束の履行を確認できるのなら、ここも完全に六層から切り離された場所ではない。
「グラント、報告を」
エレナの声に頷き、グラントは通信装置を起動した。
「ハウンド・スリーより帰還拠点へ。四名とも生存。負傷者一名。五層攻略後、六層への到達を確認した」
周囲の動きが止まり、記録担当者が端末へ視線を落とす。
グラントは一度言葉を切った。
森砕き、銃器の通用しない狼型、別の入口から同じ六層へ到達した事実。そして、森全体を従えているように見えた白い人型。
どこから説明を始めても、簡単な報告では終わらない。
「追加で、緊急報告事項がある」
エレナの後頭部で、ヘルメットからわずかにはみ出した一本の髪が、ほかの髪より遅れて静かに揺れた。
それが六層から一緒に帰還したものだと気づく者はいない。
「六層には、先行到達者がいる」




