第227話 逆流
最初に動いたのは、扉の前を塞いでいた大きな狼型だった。
前脚で腐葉土を蹴り、低い姿勢のまま一気に距離を詰めてくる。
「正面!」
グラント・ヘイルが黒い槍を突き出した。
狼型は穂先へ飛び込まず、直前で進路を変えた。太い尾を振りながらグラントの右側へ回り、同時に左後方の一頭がケイレブ・ロークへ走る。
ケイレブが小銃を撃った。
三発の弾丸が狼型の肩から胸へ当たり、灰色の毛を散らす。
しかし、狼型は転倒しなかった。
上体がわずかに揺れただけで、そのままケイレブへ接近してくる。
「ケイレブ!嘘だろおい!」
コール・マーサーが横から射撃を加えた。
複数の弾丸を受けた狼型は進路を変えたものの、体から大量の血を流す様子はない。毛の下に小さな傷が付いている程度で、歩き方にも大きな変化は見られなかった。
「胴体には通ってない!」
エレナ・ルイスがドローンの映像を確認しながら叫ぶ。
「皮膚で止まってるのか?」
「そこまでは分からない。ただ、筋肉まで届いているようには見えない!」
右側にいた別の狼型も木の陰から飛び出した。エレナがドローンを急降下させ、搭載された小型機銃を撃つ。 弾丸は狼型の背中から首にかけて集中した。
狼型は顔を伏せ、射線から横へ逃れたが、やはり倒れない。外皮を叩かれること自体は嫌がっているものの、致命傷には程遠かった。
「ボスだけじゃないのかよ」
コールは小銃を構えたまま、背中に固定していた大口径狙撃銃へ視線を向けた。
五層の甲殻型を相手にした時は、通常の銃器がほとんど通じないことを事前に把握していた。
六層へ入って最初に遭遇した狼型まで、同じ基準で考える必要があるとは想定していなかった。
「顔を狙え!」
グラントが黒い槍で狼型を牽制しながら指示する。
「目と口の周りなら、同じ硬さじゃない!」
ケイレブが再び発砲した。 弾丸の一発が狼型の頬をかすめ、もう一発が目のすぐ下へ当たる。 狼型は初めて明確に頭を振った。
短く唸りながら数歩下がり、顔を前脚で拭うような動きを見せる。
「効いた」
「倒せてはいない。顔を向けさせるな!」
四人は互いの間隔を狭めた。
小銃で胴体を撃っても、狼型の動きを止めることはできない。それでも目や鼻、開いた口へ射撃を集中すれば、相手は顔を逸らして後退する。
致命傷を与えるためではなく、近づかせないための射撃へ切り替えるしかなかった。
扉の前にいた二頭が、左右へ分かれて動き始める。
一頭がグラントの黒い槍へ注意を向け、その間にもう一頭がコールへ回り込もうとした。
「右!」
エレナの声でコールが振り向く。 狼型はすでに数メートルまで接近していた。
コールが小銃を連射する。 胸や前脚へ当たった弾丸は、速度をわずかに鈍らせるだけだった。
狼型がさらに踏み込む。 コールは銃口を上げ、顔へ撃ち込んだ。
一発が鼻先に当たり、狼型の頭が横へ弾かれる。次の弾丸は目を守るように閉じられた瞼の近くへ命中した。狼型は飛びかかる動きを中断し、低く唸りながら後退した。
「目の周りなら追い返せる!」
「追い返すだけだ。弾を使わせてる」
ケイレブは周囲を警戒しながら弾倉を交換した。狼型は倒れない。攻撃を諦めてもいない。
四人が顔を狙うと理解したのか、頭を低く下げ、木々の陰から短時間だけ姿を見せるようになっていた。
正面へ出る個体が注意を引き、別の一頭が死角へ回る。顔へ銃口を向けられればすぐに下がり、別方向から入り直す。
群れは負傷を避けながら、四人の弾薬と集中力を削っていた。
「扉まで七メートル」
エレナが告げた。
「前の二頭をどかせば届く」
「小銃じゃ、どかすだけでも弾が要る」
グラントは扉の前に立つ大きな狼型を見た。
胴体にはすでに何発もの弾丸が当たっている。灰色の毛には血がにじんでいるものの、呼吸も姿勢もほとんど乱れていない。
「もう銃火器じゃあ対応するのは限界か」
グラントの言葉に、誰も反論できなかった。
通常の小銃やドローンの機銃では、弱点を正確に狙わなければ狼型一頭すら止められない。
五層のボスへ使った大口径狙撃銃なら、もう少し深い傷を与えられる可能性はある。しかし残弾は四発で、周囲には五頭いる。
一発で一頭を倒せる保証もなかった。
「試すしかない」
コールは小銃を下げ、大口径狙撃銃を背中から外した。
長い銃身が木の枝へ触れないよう体の向きを変え、立て膝になる。
「正面の大きい奴を止める。撃った後はしばらく動けない」
「左右はこちらで抑える」
グラントが黒い槍を構え直した。
エレナはドローンを扉の前へ移動させ、機銃で狼型の顔を狙う。数発が鼻先と耳の近くへ当たり、大きな個体が顔を振った。
「今だ」
コールが引き金を絞る。 森の中へ、五層のボス部屋で聞いたものと同じ発射音が響いた。 専用弾は狼型の左肩へ命中した。灰色の体が大きく横へ弾かれ、腐葉土の上を転がる。
「入った!」
小銃弾とは明らかに反応が違った。
狼型の肩には大きな傷が開き、血が毛を濡らしている。前脚を地面へつこうとしたが、体重を支えられず、すぐに崩れた。 それでも死んではいなかった。 狼型は三本の脚で立ち上がり、コールへ牙を見せる。
「これでも一発じゃ止まらないのか」
コールは反動で痺れた肩を押さえながら、次弾を装填した。
「効果はある。だが、残り三発だ」
大口径弾を受けた狼型は扉の前から退いた。代わりに、別の個体がその位置へ入ろうとする。
群れは負傷した仲間を守ろうとはしなかった。開いた場所を埋め、四人を扉へ近づけない配置を維持しようとしている。
「進むぞ!」
グラントが前へ出る。 黒い槍を大きく振り、扉の前へ入ろうとした狼型の顔を狙う。 穂先を嫌った狼型が横へ跳ぶ。四人はその隙に二歩前進した。
扉まで残り四メートル。
左側から別の狼型が飛び出し、エレナへ迫る。
ケイレブが顔へ射撃を集中させた。
頬と鼻先へ弾丸を受けた狼型は飛びかかる寸前で頭を逸らし、エレナの横を通り過ぎる。爪が防護服の表面を裂いたが、肉までは届かなかった。
「無事か!」
「表面だけ。まだ動ける!」
四人は扉へ寄ろうとしたが、狼型もすぐに配置を変えた。
大口径弾で負傷した一頭は後方へ下がり、残る四頭が左右から圧力をかける。扉の前を完全に空けるつもりはない。攻防はその後も続いた。
狼型が接近すれば顔へ射撃を集中させ、後退させる。四人が扉へ進もうとすれば、左右と後方から別の個体が飛び出し、隊形を崩そうとする。
小銃弾は減り続けていた。
狼型の体には多数の命中痕が残っているが、動きを止められた個体はいない。鼻や目の周囲を傷つけられた個体は警戒を強め、正面へ姿を見せる時間をさらに短くしていた。
「弾倉、残り二本」
ケイレブが言った。
「俺も同じくらいだ」
グラントは答えながら、黒い槍で接近した狼型を追い払った。コールの大口径狙撃銃には三発残っている。ドローンの機銃も、すでに残弾は少なかった。
まだ戦える。
しかし、このまま長引けば、先に攻撃手段を失うのはハウンド側だった。
「次は大口径で扉前を空ける」
コールが銃を構え直した。
「一頭を完全に倒せるまで撃つか?」
「そんな余裕はない。一発で退かせて、扉へ走る」
グラントは周囲の狼型を確認した。
「撃ったらエレナ、ケイレブ、コールの順で入れ。俺が最後まで正面を抑える」
四人が動く準備を整えた時、地面の奥から低い音が響いた。音というより、巨大な重みが地中を伝わってきたような振動だった。コールは引き金へ掛けていた指を止める。
「何だ?」
足元の落ち葉が細かく跳ねた。狼型も一斉に動きを止めている。 四人へ向けられていた黄色い目が、森の奥へ動いた。 地響きが再び届く。最初よりも明確で、間隔も短かった。
遠くで太い木が折れ、数秒遅れて地面へ倒れる音がする。さらに別の場所でも、枝葉が激しく擦れ合った。
群れの中で最も大きな狼型が、傷ついた前脚を引きずりながら頭を上げた。
耳が伏せられ、尾が低く下がる。これまで四人を追い詰めていた冷静さは、すでに消えていた。三度目の振動が足元を揺らす。狼型は戦いを捨てた。
負傷している個体も、扉を塞いでいた個体も、四人へ背を向けて一斉に走り出す。
隊形を保つ余裕はなかった。木々の間を最短距離で抜け、互いの位置すら確認せず、地響きから遠ざかろうとしていた。
「逃げた?」
エレナが呟いた。
「俺たちからじゃない」
ケイレブが答える。
「分かってる」
グラントは黒い槍を構えたまま森の奥を見た。 狼型を追い払うために、どれだけ弾を使ったか分からない。 その狼型が、戦うことも群れを維持することも忘れて逃げている。
「今のうちに戻る。エレナ、扉を開けろ」
エレナが取っ手へ向かおうとした。ケイレブが鋭く声を上げる。
「待て!」
四人の動きが止まる。
「今度は何だ」
ケイレブは噛まれていない腕で小銃を構え、扉のある方向へ耳を向けていた。
「向こうから来る」
「地響きの主が?」
「違う。もっと小さい。数が多い」
狼型が消えたことで静かになるはずだった森から、枝の折れる音が聞こえていた。
一つではない。高さも速さも異なる複数の音が重なり、五層へ戻る扉の方向から近づいてくる。
「ドローンを上げる」
エレナが残った機体を扉の上へ飛ばした。 枝葉の隙間を通して最初に映ったのは、低い草を跳び越える小型の獣だった。 その後ろを、角のある四脚型が走っている。
さらに高い位置では、羽を持つ生物が枝へぶつかりながら飛び、木の幹には何本もの脚を持つ細長い影が張りついていた。 どの生物も、互いを襲おうとしていない。
普段なら捕食する側とされる側に分かれるはずの生物が、同じ方向へ逃げている。
「数えられない」
エレナの端末に熱源が次々と現れる。
「十、二十……もっといる。種類も大きさもばらばら」
「進行方向は?」
グラントが尋ねた。 エレナはドローンの高度を上げた。
帰還路へ続く森の中で、枝葉が広い範囲にわたって揺れている。一本の獣道を通っているのではない。複数の群れが木々の間から流れ込み、扉の周辺へ集まりつつあった。
「こっちへ来てる」
コールが扉を見た。
「先に入れないのか」
「扉まで届く前に正面からぶつかる」
ケイレブが木々の隙間を睨む。
「速度が速い。それに、俺たちを避ける余裕もない」
狼型が逃げた方向とは反対から、鳥型が一羽飛び出した。
翼の片側を枝にぶつけながらも速度を落とさず、四人の頭上を越えていく。
続いて、猪に似た四脚型が茂みを突き破った。ハウンドの姿へ気づいても進路を変える余裕がなく、数メートル手前で無理に体を捻り、木の幹へ肩をぶつけながら横を通り抜ける。
その後ろからも、別の生物が迫っていた。地響きが一段と大きくなる。 逃げてくる生物の足音が重なり、森全体が騒がしく揺れ始めた。
グラントは扉と、狼型が逃げた方向を交互に見た。
帰還路は目の前にある。しかし、その手前へ向かって、森の生物が一斉に押し寄せていた。
「扉から離れろ。正面衝突を避ける」
「戻らないのか?」
「今は戻れない。流れが切れる場所を探す」
四人は扉の前から横へ移動し、太い木を盾にできる位置へ下がった。エレナがドローンをさらに先へ飛ばそうとしたが、画面の奥で巨大な枝が揺れ、機体との通信映像に激しい乱れが入る。ケイレブが目を細めた。
「狼だけじゃない。この階層にいるものが、まとめて逃げてる」
まだ姿の見えない何かが近づくたび、地面の揺れは確実に強くなっていた。




