第225話 戦える人間
中国で発生したスタンピードから、国内の空気は明らかに変わっていた。
政府が異常空間緊急事態宣言を出した当時、その内容を大げさだと評する声は少なくなかった。
人の立ち入りを制限し、自衛隊と警察を配置し、探索者の登録制度を作る。政府が異常空間由来品を管理し、活動内容の報告まで求める方針には、過剰な統制だという批判も出ていた。
中国の都市部をモンスターが走る映像が拡散してから、その見方は急速に後退した。
『異常空間緊急事態宣言の発出から、政府は入口の管理、民間探索者制度、自衛隊による調査を進めてきました』
朝の情報番組では、宣言当時の映像が繰り返し使われていた。
会見場で政府関係者が、異常空間は既存の災害や治安問題とは異なり、国家全体で対応すべき危険だと説明している。
当時の番組では、その直後に経済への影響や自由な研究を妨げる危険性が議論されていた。
今は同じ映像を見た出演者が、別の表情をしている。
『少なくとも、政府は最初から危険性を警告していたわけですね』
『ただ、警告していたなら、なぜスタンピードを完全に防ぐ仕組みを作れていないのでしょうか』
『国内ではまだ発生していません。未知の現象を、事前に完全に防げというのは難しいのでは』
『国民の生命が懸かっているんですよ。難しいで済ませていい問題ではありません』
政府の対応は、諸外国と比較しても早い方だった。
入口の確認、立入制限、登録制度、自衛隊による調査、民間探索者の育成、回収品の研究、負傷者への補償。制度は問題が起きるたびに修正され、探索活動を完全に止める方針も採られていない。
それでも、不安を感じた人間が、政府の対応を十分だと認めるとは限らなかった。
危険性を説明すれば、なぜ対策が完成していないのかと問われる。防壁や避難計画を整備すれば、日本でも起きると知っているから準備しているのだろうと疑われた。
何も発表しなければ隠蔽と呼ばれ、発表すれば不安をあおっていると言われる。
政府側にとっては、以前から続いていることだった。
『政府は本日、異常空間探索者制度の拡充案を公表する予定です』
画面が切り替わり、内閣府の庁舎前へ中継が移った。
今回公表される案には、探索者の登録可能年齢を十八歳まで引き下げることが含まれている。
現行制度では、安全性や責任能力を理由に、若年層の参加は厳しく制限されていた。改正案では、高校卒業相当の年齢に達した者について、訓練と適性検査を条件に、正式な探索者登録への道を開く。
年齢だけを引き下げるものではない。
国や自治体が管理する訓練施設の増設、登録前教育の標準化、装備の貸与、負傷時の補償、民間団体による訓練事業への助成も盛り込まれていた。
一定の経験を持つ探索者については、活動のたびに細かな許可を取り直す必要を減らし、承認された範囲内で行動を選択できる制度も検討されている。
管理を弱めるのではなく、戦える人間を増やしながら、経験者を無用な手続きで止めないための見直しだった。
午後の会見で、担当大臣は資料を前に説明を始めた。
「中国で発生した事案について、現時点で日本国内の異常空間と同じ条件が揃っているとは確認されていません。しかし、異常空間内部の個体が外部へ流出した場合、警察や自衛隊だけですべての入口へ同時に対応することは困難です」
記者席から手が上がった。
「つまり、民間人を戦力として動員するということでしょうか」
「強制的な動員を行う制度ではありません。希望者に対し、適切な訓練と装備、補償を用意し、安全に活動できる人材を増やすものです」
「十八歳では若すぎるという批判もあります」
「年齢だけで活動を認めることはありません。適性検査、基礎訓練、実地評価を通過する必要があります。また、当初の活動範囲は浅い階層に限定します」
「若者を危険な場所へ送り込む制度だと受け止められる可能性は?」
「危険だからこそ、無許可で入る若者を放置せず、正規の訓練と管理の中へ入れる必要があります」
別の記者が質問を引き継いだ。
「探索者の自由度を高める案について、政府の管理を緩めることになりませんか」
「経験や実績にかかわらず、すべての行動へ同じ手続きを求める制度では、緊急時に機能しません。活動記録と責任の所在を明確にした上で、現場判断を認める範囲を広げます」
「深い階層への進入も自由化される?」
「深層進入については、別の基準を設けます。今回の見直しは、無制限な攻略を認めるものではありません」
会見を見ていた視聴者の反応は分かれた。
『十八歳をダンジョンに入れるとか正気か』
『自衛隊だけで全部守れないなら、増やすしかないだろ』
『危険な仕事なら消防も警察も十八歳から採用してる』
『探索者になりたい若者を止めたら、勝手に入るだけでは』
『もっと早くやるべきだった』
『制度を作った時は軍国化だとか騒いでたのに、今度は遅いって言うのか』
『装備と保険を国が出すなら、今よりはまともになる』
制度拡充を支持する者の中にも、動機はさまざまだった。
国を守る人間を増やすべきだと考える者もいれば、探索者という新しい職業へ期待する者もいる。モンスター由来の素材や薬品による利益を逃すべきではないという意見もあった。
反対側も一枚岩ではない。
若者を危険にさらすことへの懸念、民間武装への不安、探索者の増加がダンジョンを刺激するのではないかという疑念。国が責任を負わず、民間へ危険を押しつけているという批判も出ていた。
ただし、以前のように探索者制度そのものを不要だと断じる声は減っている。
中国の映像が、入口の外にいる人間も無関係ではいられないと示していた。
国内では保存食や水、防災用品の売り上げが伸び、入口のある自治体には避難経路についての問い合わせが殺到した。
店舗では購入数の制限が行われたものの、客は列を作って順番を待った。品物がなくなれば店員へ不満を漏らす者はいても、商品を奪い合うような騒ぎにはなっていない。
学校や企業は、地震や火災とは別に、異常空間からの流出を想定した避難計画を作り始めた。
入口から遠い地域でも、不安は消えなかった。
異常空間が世界各地に存在する以上、海外へ行けば安全になるとは限らない。管理能力の低い国では、日本より危険な可能性が高い。
インターネット上では、ダンジョンが確認されていない離島の土地や賃貸物件を調べる者が増えていた。
だが、現在入口がないことと、今後も発生しないことは同じではない。
離島で物流が止まった場合の危険や、医療体制の不足を指摘する声もあり、調べるほど安全な場所が分からなくなっていく。
「どこへ逃げたらいいんだろうね」
夕方の報道番組で、街頭取材を受けた女性がそう答えた。
隣には小学生ほどの子供が立っている。
「海外にもあるんでしょう。山の中にもできるかもしれないし、島なら大丈夫とも言えない。だから、逃げる場所を探すより、今いる場所で何をすればいいのか教えてほしいです」
その言葉は、多くの人間が感じている不安に近かった。
外国の状況は、日本より深刻だった。
政府の管理が機能している国でも、入口の封鎖や企業による攻略停止を求める大規模デモが起きている。
議会前に数万人が集まり、警察と衝突した国もあった。入口周辺の住民が道路を封鎖し、探索者や企業車両を通さない地域もある。
政府の統制が弱い地域では、事態はさらに悪化していた。
武装集団が入口を占拠し、回収品の利益を独占する。住民が都市から脱出しようとして道路が塞がり、民兵が独自の検問を設ける。軍や警察が撤退した地域では、企業の警備部隊が事実上の支配権を握っていた。
中には、ダンジョンのない安全地帯を名乗り、通行料や居住料を徴収する集団まで現れている。
日本のニュース番組は、燃える車両や武装した群衆の映像を流した後、国内の訓練施設へ並ぶ若者たちを映した。
探索者登録の相談窓口には、制度拡充案の発表直後から問い合わせが増えていた。
十八歳への引き下げは、まだ正式決定ではない。それでも、実施時期、必要な体力、訓練期間、報酬について質問する高校生や保護者が相次いでいる。
「戦える人間を増やすべきだと思います」
相談窓口を訪れた十九歳の男性は、取材にそう答えた。
「自分が強いとは思ってないです。でも、何か起きた時に逃げるしかないのは嫌なので。訓練して、できることがあるなら覚えたいです」
別の保護者は、不安を隠さなかった。
「息子が行きたいと言っても、簡単には賛成できません。ただ、国が禁止しても、興味のある子は勝手に行くかもしれない。だったら、訓練を受けさせた方がいいのかとも思います」
政府は、探索者を英雄として扱う方針を示していない。
浅い階層での活動であっても負傷や死亡の危険はあり、訓練を受ければ誰でも戦えるようになるわけでもない。
それでも、戦える人間を増やさなければならないという認識は、政府の中だけのものではなくなっていた。
異常空間緊急事態宣言が発せられた時、多くの人間にとってダンジョンは、政府が大げさに騒いでいる未知の穴だった。
今は、その穴から何が出てくるのかを世界中が知っている。
日本では暴動も略奪も起きていない。電車は動き、学校も会社も通常通りに続いている。
その日常を保つために必要なものが、避難所や防壁だけではないことも、少しずつ理解され始めていた。




