第207話 知っている範囲
管理窓口から連絡が来たのは、七層から戻った翌日だった。
内容は、今後の活動について確認したいことがあるため、都合の良い日に来てほしいというものだった。急を要する様子はなく、日時についてもこちらの予定を優先すると書かれていたが、今の状況で国側から呼ばれる理由にはいくつか心当たりがある。
その中でも、一番可能性が高いものについては考えないことにした。
中国で起きたスタンピードだった。
ニュースでは連日、流出した映像が取り上げられている。中国政府は映像の多くを事実と認めておらず、被害状況も発生原因もほとんど公表していない。それでも、道路を走るモンスターや逃げる人々、軍が戦闘している映像まで世界中へ広がった以上、何も起きていないと言い張れる段階は過ぎていた。
俺に聞かれても、答えられることはない。
そう思いながら指定された場所へ行き、何度か来たことのある部屋へ通されると、待っていたのは村瀬と管理窓口の職員二人だった。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
「いえ」
席に着くと、村瀬は机の上の資料を確認した。
「本題の前に、いくつか確認させてください。戸張さんが異常空間から持ち帰った装備品について、国側への売却を検討していただくことは可能でしょうか」
予想していなかった話に、少しだけ考える。
「装備ですか」
「はい。現在、異常空間由来の装備品について、性能評価や耐久試験を進めています。しかし、当然ながら入手できる数には限りがあります。戸張さんはこれまで複数の装備品を持ち帰っていますので、使用予定のないものがあれば、適正な価格で買い取らせていただきたいと考えています」
「全部ではないですよね」
「もちろんです。現在使用中のものや、今後使う予定のあるものまで求めるつもりはありません」
それなら特に断る理由はなかった。
暗渠から持ち帰ったものの中には、自分では使っていない装備もある。今後さらに奥へ進めば、同じように使い道のない装備が増える可能性も高い。
小人たちが作った装備も、一部なら売却を考えてよいかもしれない。森砕きの外皮を使った鞘やベルトの補強、虎型の爪や骨を加工した刃物、毛皮や革を組み合わせた防具類は、異常空間からそのまま持ち帰った装備とは性質が違う。
俺のために作られた外套や山刀用の装具を手放すつもりはないが、予備として作られたものや身体に合わなかったものなら候補にはできる。ただし、小人たちが作ったことまで国側へ話すつもりはなかった。
「使っていないものなら、いくつかあります。持ってきた方がいいですか」
「まずは一覧と簡単な用途を確認させてください。その後、売却可能なものを選んでいただければ結構です」
「分かりました」
職員の一人が書類へ記入する。
思っていたより軽い話だった。
村瀬はそれ以外にも、今後の活動予定や互助会準備会への協力についていくつか確認した後、手元の資料を閉じた。
その動きを見て、ここからが本題なのだと分かった。
「戸張さん」
「はい」
「中国で発生した事案については、ご存じですね」
「ニュースで見ている範囲なら」
「率直にお聞きします。今回のような事態について、何か心当たりはありませんか」
「ありません」
すぐに答えた。
実際、ない。
入口から大量のモンスターが出てくるところを見たこともなければ、その条件も知らない。暗渠では六層まで進み、今は七層を探索しているが、それを国側へ話すこともできない。
「似た現象を見たこともありません」
「そうですか」
村瀬に大きな反応はなかった。
俺が何か知っていると決めつけて呼んだわけではないのだろう。
「では、原因について何か考えられることはありますか。推測でも構いません」
「推測ですか」
「はい。今回、政府では異常空間に関わった経験のある方から広く意見を集めています」
そう言われて、少し考える。
ニュースで見た映像だけなら、俺にも分からない。ただ、ネット上では今回のスタンピードについて、いくつもの説が出ていた。
その中には、内部のモンスターが増えすぎたという話もある。
「間引き不足が原因だという話は見ました」
「はい」
「でも、中国のあそこには軍が入っていたんですよね」
「詳細はお答えできませんが、継続的な探索活動が行われていた可能性は高いと見ています」
「なら、単純にモンスターが増えすぎただけではないと思います」
村瀬が黙って続きを待つ。
「俺が知っている範囲だと、五層はかなり危険です」
「五層ですか」
「はい」
ここで話せるのは、公開されている情報と、国側がすでに俺の実績として把握している範囲に限られる。
「五層に入った海外の探索者が公開した映像は見ました。あそこは、出てくるモンスターが厄介なだけじゃない。人間を殺すための罠が多すぎます」
「具体的には」
「一人が踏んだ場所だけで終わる罠なら、被害はその周囲に限られます。でも、先頭が通過した後に作動して、後ろにいる人間を巻き込むものや、隊列そのものを分断するような仕掛けも考えられます。人数が多く、列が長いほど被害が広がる種類です」
答えた直後、村瀬の隣に座る職員のペンが止まった。
「ですが、戸張さんはお一人なのに、なぜ後方を――」
村瀬が視線を向けると、職員は言葉を途中で止めた。
言えない範囲があることについては、さすがに向こうも理解するようになってきたらしい。
「中国側の行動について、ネットで確認できる範囲ですが、大人数をまとめて内部へ入れていたという話があります」
「はい」
「それが本当なら、五層の罠と相性が悪すぎると思います」
「相性、ですか」
「大人数なら安全だと考えるのは普通だと思います。モンスターと戦うなら人数が多い方が有利ですし、負傷者が出ても運べる。でも、罠の方が集団を狙う構造なら、人数が多いほど逃げにくくなります」
前後を塞がれて隊列を分断されれば、後方にいる人間は先頭の状況を把握できない。負傷者が出れば助けるために足を止める者が増え、狭い通路に人員と物資が滞留する。そこへ別の罠やモンスターが重なれば、戦闘能力の高さだけでは対処できなくなる。
五層まで進める人間なら、普通のモンスターを相手に簡単には死なない。それでも、殺すために作られた環境の中で一度判断を間違えれば、人数の多さがそのまま被害の大きさにつながる可能性がある。
「今回のスタンピードと、五層で多数の死者が出たことに関係があると考えていますか」
「可能性は高いと思います」
答えてから、言い過ぎたかと少し考えた。
「もちろん、証拠はありません。ただ、軍が定期的に入っていて、それまでスタンピードが起きていなかったなら、今回だけ何か違うことがあったはずです」
「その違いが、多数の死者だと」
「俺なら、まず疑います」
村瀬は何も言わなかった。
「ダンジョンの中で人が一人死ぬのと、短時間に大勢が死ぬのが同じ扱いなのかは分かりません。モンスターが死体を食べるのか、血に反応するのか、それともダンジョン自体に何か影響があるのかも知りません。でも、普段と違うことが起きた直後にスタンピードが発生したなら、関係を調べる価値はあると思います」
「なるほど」
村瀬の隣に座る職員が、再び速い手つきで書き込みを始めた。
さっき罠について聞かれた時よりも、今の話の方が重要なはずだ。それでも、職員の資料には罠に関する部分にも何か印がつけられていた。
見られていることは分かる。
どこまで進み、何を見て、何を隠しているのかを、向こうも考えている。
「俺に聞くより、専門家に聞いた方がいいと思いますけど」
「専門家にも聞いています」
「そうですか」
「ただ、現在の異常空間について、誰が専門家なのかという問題があります」
返す言葉がなかった。
確かに、ダンジョンが公に認められてからまだ一年も経っていない。
「戸張さんは、一般の探索者より多くの異常空間へ入り、深い階層へ進んだ経験があります。そこで得た感覚的な意見も、現在は貴重な情報です」
言われると困る。
実際には、国側が把握しているよりもはるかに深く進んでいる。
「分かりました」
俺は少し考えてから答えた。
「個人でできることは少ないと思います」
中国で起きた規模の災害を、俺一人でどうにかできるとは思っていない。そもそも、自分のことでさえ完全には分かっていない。
「ただ、スタンピードに関係しそうな情報なら、今後は積極的に伝えます」
村瀬が顔を上げた。
「よろしいのですか」
「はい。今回みたいなことが日本でも起きたら困りますから」
話せないことまで話すつもりはない。
暗渠の存在も、寄生体のことも、白い群れのことも隠したままだ。
それでも、異常空間で見つけた変化の中に、スタンピードへつながる可能性があるものを見つけたなら、それを無視するつもりはなかった。
「ありがとうございます」
村瀬は頭を下げた。
「こちらとしても、戸張さん個人に過度な負担をお願いするつもりはありません。通常の活動の中で気づいたことがあれば、お知らせいただければ十分です」
「それなら」
俺は頷いた。
話が終わったところで、村瀬は最初に使っていた資料をもう一度開いた。
「では、先ほどの装備品についてですが、売却を検討いただけるものが決まりましたら、一覧をお送りください。査定方法と受け渡しについてはこちらからご連絡します」
「分かりました」
真面目な顔で答える村瀬を見て、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
スタンピードの原因など、俺には分からない。
それでも、五層で何が起きたのか、その先に何が続いたのかを知ることができれば、次を防ぐ材料にはなるかもしれない。
まずは家に帰ったら、使っていない装備を確認し、小人たちが作ったものについては、外へ出してもよい品があるかを考える必要がありそうだった。
◇
戸張が退出した後も、会議室には三人が残っていた。
管理窓口の職員は、戸張の発言を記録した資料へ目を落としたまま、罠に関する箇所を指先で示した。
「単独活動者の説明としては、少し具体的すぎます」
村瀬は、すぐには答えなかった。
「公開映像から推測できない内容ではありません」
「はい。ただし、先頭が通過した後に後方を狙う罠や、隊列の分断、負傷者の救護による滞留まで、迷いなく話しています。自分一人が罠を抜けることしか経験していない者の発想としては、集団行動時の被害をかなり具体的に捉えています」
もう一人の職員が資料を確認した。
「誰かと行動している可能性がありますか」
「互助会の同行案件は把握しています。しかし、そこで五層級の罠を経験したとは考えにくいでしょう」
「海外映像を詳しく分析しただけという可能性もあります」
「あります。ただ、戸張さんは五層を攻略した実績を持っています。本人が申告していない同行者、あるいは人間以外の同行戦力が存在する可能性も、完全には排除できません」
室内に短い沈黙が落ちた。
村瀬は資料を閉じた。
「現時点で追及はしません。本人がスタンピード関連の情報提供に応じると明言したことの方が重要です」
「監視を強めますか」
「これまでどおりです。売却される装備についても、通常の手続きで査定してください。今回の申し出を、本人が開示していない情報を探る手段として利用してはいけません」
「承知しました」
村瀬は、戸張が座っていた椅子へ一度だけ目を向けた。
「彼は何かを隠しています。それ自体は以前から変わりません。問題は、隠しているものがこちらにとって危険なのか、それとも今回のような事態を防ぐ側へ働くのかです」
今のところ、答えは後者に傾いている。
だからこそ、無理に扉を開けるべきではなかった。




