第206話 砂の下の目
夜の砂漠へ踏み出してから、それほど時間は経っていなかった。
オアシスの水辺を離れ、砂丘の斜面を回り込むように進んでいると、前方を歩いていた蠍型の甲殻獣が突然進路を変えた。さっきまで一定の速度で砂地を横切っていたものが、何かを避けるように尾を持ち上げ、横向きに走り始める。
その動きを見た瞬間、俺は足を止めた。
砂の表面には何も見えない。ただ、蠍型が離れていった場所だけが、わずかに盛り上がっていた。
「来るか」
山刀を抜きながら、重心を後ろへ移す。
次の瞬間、足元から少し離れた砂が弾けた。
細長い胴体が勢いよく飛び出し、口らしき裂け目を開いたままこちらへ迫る。昼間に遠くで見た巨大な個体とは比べものにならないが、それでも人間の胴ほどの太さがあり、全長は地上へ出た部分だけでも数メートルはあった。
予兆を見つけられていた分、避けるのは難しくなかった。
横へ踏み込みながら外皮へ山刀を振り下ろす。刃は表面を滑りかけたが、寄生体が腕と刃を覆うように伸びたことで、そのまま硬い外皮を押し切った。
ワーム型は身体を大きくよじり、切断された部分を砂へ叩きつける。そこから再び潜ろうとしたが、俺は逃がさず、露出した胴体へ続けて刃を入れた。
外皮は硬いものの、動き自体は単純だった。砂の下から直線的に飛び出し、噛みついた後に引きずり込もうとする。最初の奇襲さえ外せば、六層で戦った相手よりも対処しやすい。
最後に頭部らしき先端を斬り落とすと、ワーム型は砂の上でしばらく痙攣した後、動かなくなった。
「これなら問題ないな」
巨大な個体を見た後だったせいで警戒しすぎていたが、今倒したものは七層では小型か、せいぜい中型に分類されるのだろう。
寄生体が腕の表面から伸び、ワーム型の切断面へ入り込んでいく。
白い糸が外皮の内側へ広がり、残った肉や器官を包み込んでいく。吸収が進むにつれて、砂の下を進むための身体の使い方や、外皮の内側へ伝わる細かな振動の感覚が、寄生体を通じて俺の中へ流れ込んできた。
目で見る感覚とは違う。
砂に触れている身体の広い範囲で、周囲の動きを拾っている。どこか一か所で音を聞くのではなく、砂から伝わる揺れの強さと方向を、全身で感じ取っているようだった。
「なるほど。こいつらは、これで獲物を探してたのか」
吸収を終えた寄生体は、そのまま死骸の一部へ残った。
白い糸が切断された胴体を内側から補い、外皮の隙間を埋めていく。完全な元の姿ではないが、細長い身体を持つ白いワーム型が、砂の上でゆっくりと身をくねらせた。
一体だけではなかった。
切り分けられた死骸のうち、形を保っていた部分がそれぞれ小さなワーム型へ作り替えられ、砂の中へ潜っていく。地上から姿が見えなくなっても、寄生体を通じた繋がりは残ったままだった。
少し遅れて、足元から複数の感覚が返ってくる。
砂の下を進む白いワーム型が、それぞれ別の方向へ広がっている。実際の景色が見えるわけではないが、周囲にいる生物の移動や、砂丘の内側を走る振動が、以前よりもはっきり伝わってきた。
右前方には小さな反応が複数あり、一定の間隔で止まっては動いている。左側には、砂の深い場所をゆっくり移動する大きな反応がある。後方のオアシス側では、水辺に集まる生物の細かな動きが重なっていた。
数や形まで正確に分かるわけではない。それでも、何かが近づいているのか、離れているのか、地上にいるのか砂の下にいるのかは、以前より明確に区別できた。
「これなら、昼でも動けるかもしれないな」
砂の下にいる敵を見つけられなかったことが、七層で最も大きな問題だった。
今までは、敵が動き出してから反応するしかなかった。だが、白いワーム型を周囲へ広げておけば、こちらへ近づく振動を先に拾える。完全に奇襲を防げるとは限らないが、少なくとも足元から突然飛び出される危険は大きく減る。
俺は白いワーム型を一定の距離から離れすぎないように動かしながら、砂丘の先へ進んだ。
少し進んだところで、右前方から強い振動が返ってきた。
砂の上へ視線を向けると、岩陰から蠍型の甲殻獣が姿を現す。尾を高く持ち上げ、こちらへ向きを変えた時には、すでに位置も距離も分かっていた。
正面から近づき、振り下ろされた鋏を避けて脚の付け根を斬る。体勢を崩したところで側面へ回り込み、甲殻の継ぎ目へ刃を差し込んだ。
蠍型は尾を大きく振り回したが、攻撃に入る前の身体の動きまで砂を通じて伝わってくる。見てから避けるよりも早く動けるため、危険を感じる場面はほとんどなかった。
倒した後、甲殻と尾の先端を回収する。
さらに先では、砂の表面を跳ねながら逃げる魚型の生物を二体仕留めた。身体の大半は柔らかかったが、頭部の周囲だけに薄い骨板があり、鱗も砂を弾くような硬さを持っている。
別の場所では、掌ほどの虫型が群れで潜んでいた。
白いワーム型が先に位置を知らせてくれたため、近づく前に砂を払い、まとまって飛び出したところを寄生体で叩き落とす。背の棘と甲殻をいくつか残し、それ以外は寄生体へ吸収させた。
戦闘を重ねるたびに、砂地を通じて返ってくる感覚が少しずつ整理されていく。
地上を歩く蠍型の重い振動と、砂の中を泳ぐワーム型の滑るような振動は明確に違う。小型の虫型が群れで動く時には、細かな揺れが一か所に集まり、魚型が跳ねる時には短い反応が途切れながら続く。
見えない敵を完全に把握できるほどではないが、七層へ入った直後とは状況が大きく変わっていた。
遠くにいる巨大なワーム型へ向かう道も、少しずつ見えてきた。
ただし、直接近づくにはまだ早い。
白いワーム型が拾った反応の中には、今倒したものよりはるかに大きい個体がいくつも混じっていた。巨大な個体の周囲には別の生物も多く、何も考えずに進めば、複数の相手へ同時に囲まれる可能性がある。
今回は周辺環境を探るのが目的だった。
砂丘をいくつか越え、巨大な個体が移動する範囲の外側まで近づいたところで、俺は足を止めた。
肩に掛けた袋には、蠍型の甲殻、尾の先端、魚型の鱗と骨板、虫型の背棘が詰まっている。寄生体で運べる量にも余裕はあるが、小人たちへ渡す素材としては十分だった。
持ち帰ったものを一度調べてもらえば、次に必要な部位や使い道も分かる。
白いワーム型による探索も、どこまで距離を離せるのか、どの程度の深さまで潜れるのかを確かめる必要がある。成果が出たからと、そのまま進み続ける理由はなかった。
「今日はここまでだな」
白いワーム型を周囲から呼び戻す。
砂の下を進んでいた反応が少しずつ近づき、足元へ集まってきた。何体かはそのまま砂中に残し、帰路の前方を探らせながら、俺はオアシスへ向けて引き返した。
行きと違い、帰り道では一度も奇襲を受けなかった。
砂の下から近づくものがあれば、白いワーム型を通じて先に分かる。避けられる相手なら進路を変え、仕留められる相手だけを選んで倒せた。
七層は、昼も夜も危険な場所であることに変わりはない。
それでも、何がいるか分からない砂の下へ足を置くしかなかった時とは違う。今は、見えない場所を先に探ってくれるものがいる。
石扉が見える位置まで戻ったところで、俺は一度だけ振り返った。
星明かりの下では、蠍型が砂丘を歩き、魚型が砂から跳ね、その後を別のワーム型が追い続けている。
その営みの下を、白いワーム型が音もなく進んでいた。
この階層でも、少しずつこちらの目が増え始めている。




