第205話 夜のオアシス
次に扉を潜った時、戸張が最初に気づいたのは、光の色がまるで違っていることだった。
前に来た時には、白く焼けるような日差しが砂の表面を照らし、遠くを見るだけでも目を細めなければならなかったはずだ。だが、石扉の向こうに広がっていたのは、昼の砂漠とは別の場所に見えるほど暗く、青みを帯びた夜のオアシスだった。
頭上には雲一つなく、数え切れないほどの星が空を埋めている。現実の街中では見ることのできない密度で光が散らばり、地平線の近くまで星明かりが続いていた。
戸張は、扉の前でしばらく足を止めた。
「夜になるのか」
前回とは時間帯が違うだけなのか、それとも扉を潜るたびに昼夜が切り替わるのかは分からない。こちらと現実で同じだけ時間が流れているとも限らず、六層との時間差まで考え始めれば、今の時点では確かめようがなかった。
ただ、昼間にはほとんど動くものが見えなかった砂漠が、夜になると全く別の表情を見せていることだけは、すぐに分かった。
砂丘の向こうを、大型の蠍に似た甲殻獣が歩いている。胴体を覆う外殻は星明かりを鈍く反射し、背から伸びた太い尾が、歩くたびに左右へ揺れていた。
少し離れた砂地では、細長いワーム型のモンスターが砂の中を泳ぐように進んでいる。その前方を、魚に似た何かが何度も砂上へ跳ね出しながら逃げており、追う側と追われる側の軌跡が、砂丘の斜面を横切って続いていた。
オアシスの水辺にも動きがあった。
浅瀬では小さな影が群れを作って泳ぎ、その外側を、脚の長い生物が水面を踏むように移動している。水を飲みに近づいた四脚の獣が甲殻獣の姿に気づき、警戒するように首を上げた後、音を立てずに別の方向へ離れていった。
昼間には、砂と熱気しかないように見えた場所だった。
だが今は、どこを見ても何かが動いている。
砂の下を進むものがいれば、その振動を避けるように離れるものがいる。水辺に集まるものがいれば、それを狙って距離を詰めるものもいる。夜の砂漠は静かではあったが、何もいない静けさではなく、それぞれが互いの存在を警戒しながら動き続けていることで成り立つ静けさだった。
戸張は、その光景に言葉を失った。
満天の星空の下で、見たこともない生物たちが追い、逃げ、水を飲み、砂へ潜っている。誰かに見せるためでも、戸張がここへ来たからでもなく、この場所では以前から同じ営みが繰り返されていたのだろう。
危険な場所だという認識は消えていない。
あの巨大なワーム型が、砂丘そのものを動かしながら遠くを進んでいることも見えていた。昼間に感じた、個人でどうにかする相手ではないという判断も変わらない。
それでも戸張は、しばらく目を離すことができなかった。
「すごいな」
口から出た言葉は、それだけだった。
六層の森でも、生き物同士が縄張りを持ち、捕食し、逃げ、群れを作っている様子は見てきた。それでも、昼と夜でここまで世界の姿が変わる光景は初めてだった。
砂漠は何もない場所ではない。
昼の熱を避けて隠れていたものが、夜になると一斉に動き始める。見えていなかっただけで、砂の下や岩陰や水辺には、これだけの生命が潜んでいた。
胸の奥に湧いた感情は、警戒や興奮とは少し違っていた。
戸張は、素直に感動していた。
そのまま夜空を見上げていた時、身体の表面を冷たい風が撫でた。
そこで初めて、暑さが完全に消えていることに気づく。
昼間は、立っているだけで体力を削られるような熱気があった。砂の照り返しも強く、寄生体の補助があっても長時間の行動は避けたいと感じるほどだった。
今は逆に、吐く息が白くなりそうなほど空気が冷えている。
「寒いな」
昼夜の気温差が大きいこと自体は、現実の砂漠でも起こると知識では知っていた。だが、数時間前まで灼けるようだった場所が、外套なしでは身体を冷やしそうな温度まで下がっていると、頭で分かっていても戸惑う。
戸張は肩に掛けていた外套の前を閉じた。
六層で倒した虎型の外皮を、小人たちが加工して作ってくれたものだった。毛皮の厚みは残しながら、動きを邪魔しないよう肩や腕の周囲が調整されており、内側には柔らかい革が縫い合わせてある。
受け取った時には、六層の森で雨や枝を防ぐために使うつもりだったが、まさか次の階層の寒さで役に立つとは思っていなかった。
「助かった」
ここにはいない小人たちへ向けるように呟き、戸張は外套の襟元を少し持ち上げた。
冷気を完全に防げるわけではないが、少なくとも身体から熱が逃げ続ける感覚は弱くなった。昼の暑さの方が対処しにくく、夜の寒さなら装備を増やすことで調整できる。
「暑いよりは、何とかなるかな」
休んで景色を眺め続けたい気持ちはあったが、ここへ来た目的を忘れるわけにはいかない。
戸張はオアシスの外へ視線を向けた。
遠くには、昼間にも確認した巨大なワーム型の影がある。今は砂の上へ姿を見せている時間が短く、長い身体の一部が現れては、再び砂丘の下へ沈んでいた。
すぐに戦うつもりはない。
今の戦力で挑む相手ではないことは、見ただけでも分かる。まず必要なのは、巨大な個体そのものよりも、その周辺がどうなっているのかを知ることだった。
どの範囲を移動しているのか、近くに他の大型種がいるのか、水場や岩場があるのか、砂の下に潜る敵がどれほど多いのか。逃げ道を確保できる場所があるかも確認しておきたい。
昼間には、動き出す前の敵を拾う手段がなく、砂の下からの不意打ちを受け続ける危険があった。
夜なら地上を動く生物が増える分、周囲の反応から砂中の異変を察知できる可能性がある。何かが一斉に逃げるなら、その先に大型の捕食者がいるかもしれず、ワーム型が避ける場所があるなら、そこには別の危険か安全地帯が存在するかもしれない。
遠くのボスらしき個体へ近づき、その周辺環境を探る。
今回の目標は、そこまでだ。
戸張は星明かりの下へ足を踏み出した。
昼には死んでいるように見えた砂漠が、夜には無数の気配を抱えて動き続けている。その中へ入っていく実感に、寒さとは別の震えが背中を走った。




