第193話 漏洩2
ホワイトハウス地下の会議室では、ハウンド・スリーが持ち帰った五層の映像が繰り返し再生されていた。
画面の中で、細い通路に張られた糸が切れる。床の一部が沈み、壁から石杭が飛び出した。先頭が止まれば後方の足場が崩れ、助けに入った人間の位置へ別の仕掛けが作動する。
彼らは五層へ入った。そして、攻略を試みる前に撤退した。
大統領特別補佐官のミリアム・ヴォスは映像を停止させた。
「大人数の投入は推奨できません。軍の標準的な隊列は、五層では標的の数を増やすだけです」
国防総省の担当者が腕を組む。
「四人が入って生還した。それなら、同程度の人数で訓練された部隊を作ればいい」
「人数を減らせば、軍の利点も減ります。火力、搬送、通信、救護。必要な役割を四人へ詰め込めば、一人の損失で部隊全体が崩れます」
「では民間人へ任せ続けるのか」
「民間人だから除外する、という考え方を改めるべきです。五層へ入って生還した事実は、肩書より価値があります」
大統領のアーロン・コールドウェルは、机上の報告書をめくっていた。
ハウンド・スリーは四層で赤い小瓶、鉱石状物体、大楯、黒い槍を回収した。その後に五層へ入り、異常な罠密度を確認して撤退している。成果は十分だった。問題は、彼らの成功を再現できる組織がまだ存在しないことにある。
「保険会社は何と言っている」
コールドウェルが尋ねる。
商務側の担当者が資料を確認した。
「四層以降の活動を既存の商品へ組み込むことは拒否しています。新しい危険区分を設ける提案はありますが、死亡率も後遺障害率も算出できません。再保険会社も引き受けに消極的です」
「保険料を決めるための人数すら足りないということか」
「はい。政府保証を付けるなら商品化できる、と」
「つまり、利益は民間、損失は政府だな」
商務担当者は否定しなかった。
「製薬企業は」
「赤い小瓶の共同研究権を求めています。検査費用、治験設備、法務費用の全額負担に加え、製品化した場合の利益配分も提示しています。黒い槍については軍需企業三社が解析契約を希望しています」
「所有権は」
「ハウンド・スリー側に残します。政府が回収物を取り上げれば、次から隠されます」
コールドウェルは短く頷いた。
拘束より契約の方が安い。所有権を認め、保険と医療を用意し、成果へ価格を付ける。英雄として表に立たせた方が、秘密施設へ囲い込むより多くの人間を動かせた。
ヴォスが次の資料を表示する。五層へ再進入する場合の最低条件が並んでいた。
少人数。短い隊列。現場判断による即時撤退。帰路を残す複数の手段。目印が消されることを前提とした位置記録。罠を解除した後も安全と見なさないこと。
どれも軍の通常運用とは相性が悪い。
「五層は、現段階では攻略対象から外します」
ヴォスが言った。
「進入調査までです。階層の全体像も、罠の再作動条件も分かっていません。突破を命じれば、成果ではなく死者数だけが増えます」
国防総省の担当者が眉を寄せる。
「期限を設けずに待つのか」
「ハウンド・スリーの判断を尊重します。再進入するなら、政府が命じるのではなく、本人たちが準備を整えた後です」
「契約金を増やせば早まる」
「金額で慎重さを失う人間なら、五層から生還していません」
コールドウェルは停止された画面を見る。通路の端には、帰路の目印を消していた小さな生物の影が残っていた。人間が慎重になるほど、その行動を利用する階層。五層は、人員と装備を増やせば解決できる場所ではなかった。
会議室の扉が開いたのは、ヴォスがハウンド・スリーとの次回契約案へ話題を移そうとした時だった。
国家情報部門の連絡官が、大統領付きの警備担当とともに入ってくる。予定された出席者ではない。
「日本に関する情報です」
連絡官は暗号化された端末をヴォスへ渡した。
「同盟国からの正式な報告ではありません。複数の経路で一致が取れました」
ヴォスが画面を開く。最初に表示されたのは、日本人男性の身元情報だった。
戸張。三十歳。元会社員。
異常空間の政府発表後に退職し、日本国内の登録制度へ接触。その後の公開活動は限定されており、正式な等級記録だけを見れば、特に注目すべき人物ではない。
次の頁には、警察、管理窓口、医療、安全保障関係者との接触が記録されていた。通常の登録者には適用されない情報制限。監視対象に近い処理と、協力者としての扱い。行政処分の見送り。非公開の検証または訓練を示す施設利用。
そして、五層攻略済みという評価。
「表現は正確ですか」
ヴォスが尋ねる。
「原資料では、到達ではなく攻略完了に近い意味です。別経路の記録でも、五層までの活動をすでに終えたものとして扱っています」
国防総省の担当者が端末を覗き込んだ。
「日本に五層攻略者がいる?」
「日本政府の一部は、そう評価しています」
「部隊名は」
「ありません。自衛隊、警察、情報機関への所属歴も確認できません。異常空間が公表されるまでは一般企業に勤務していました」
コールドウェルが端末を受け取った。
戸張の経歴そのものに不自然な点はない。特別な訓練歴も、政府との関係も、異常空間発生以前には見つからなかった。不自然なのは、その後だった。
公的な攻略隊へ参加した記録がない。主要な公開入口へ継続して出入りした形跡も薄い。それにもかかわらず五層攻略済みとされ、日本政府は本人を通常の登録制度へ押し込まず、個別に交渉している。
「日本政府から共有されていない理由は」
コールドウェルが聞く。
「共有義務のある軍事情報ではない、という整理は可能です。本人は政府職員でも軍人でもありません。また、日本政府内でも共有範囲が制限されています」
ヴォスは、戸張に対する活動状況の照会記録を確認した。回答がなかったのか、回答内容が別管理なのかは判別できない。照会後も監視と交渉が続いている以上、日本政府が戸張を完全に管理しているとは考えにくかった。
「能力評価は」
「確定情報はありません。異常な身体能力、異常空間由来の生物を扱う能力、未公開の生体装備、特殊回収品、強化薬の使用。複数の仮説がありますが、どれも単独では説明し切れていません」
「戦闘映像は」
「本人と断定できるものはありません。関係が疑われる事件映像や記録には、編集、欠落、非公開処理があります」
ヴォスは戸張の登録履歴と、日本国内の攻略記録を並べた。
五層を攻略した人物が、公開された主要入口で活動していない。政府の公式部隊にも所属していない。海外で活動した形跡もない。
「非公開の入口を確保している可能性が高いですね」
「日本政府管理下の秘密施設ではないのか」
国防総省側が尋ねる。
「その場合、記録にもっと一貫性が出ます。通常登録者として処理した後に、活動状況を照会する必要はありません。最初から国家要員として扱えば済みます」
「個人で入口を持っている、と」
「本人だけが継続的に利用できる環境があるのでしょう」
コールドウェルは戸張の写真を見た。
公的記録から得られた、特別なところのない顔だった。英雄として売り出されてもいない。スポンサーもなく、回収物を市場へ出した記録もない。五層を攻略しながら、その成果を金へ換えようとした形跡が見当たらなかった。
「雇えるか」
コールドウェルが尋ねた。
会議室の視線が商務担当者へ集まる。
「契約条件だけなら作れます」
担当者は戸張の資料を受け取り、考えながら答えた。
「年間契約料。攻略成果への追加報酬。回収物の所有権。研究機関と企業への利用許諾料。医療費の終身保証。本人が希望する装備の優先調達。アメリカ国内で活動する場合は、専用施設と警備も用意できます」
「金額は」
「五層攻略が事実なら、通常の軍事請負契約では収まりません。最初の提示だけでも、数千万ドル規模になるでしょう。成果報酬を含めれば、それ以上です」
国防総省の担当者が言う。
「一人に払う金額ではない」
商務担当者は画面に映る五層の通路を指した。
「同じ成果を出す部隊を育てる費用と、失う人員を考えれば安い可能性があります」
「本人に国外へ移る意思がなければ」
「日本国内での助言契約でもいい。入口の共有を求めず、攻略記録だけを買う。訓練への参加、装備試験、回収品の優先交渉権。雇用以外にも契約の形はあります」
ヴォスは首を横に振った。
「問題は金額ではありません」
「誰にでも価格はある」
「この人物は会社を辞めた後、五層を攻略しています。それなのに、スポンサーも動画配信も、回収物の公開取引もしていない。金を必要としていないとは言いませんが、金を最優先にしているようには見えません」
「提示してみなければ分からない」
「提示した時点で、日本政府へ知られる可能性があります。本人が断れば、こちらがどこまで把握しているかを教えるだけです」
コールドウェルは机を指で軽く叩いた。
「雇用案は作れ。だが送るな」
商務担当者が頷く。
「条件はどこまで」
「金だけではなく、彼が日本で得られないものを並べろ。装備、研究、人員、医療、法的保護、回収物の権利。本人が入口を明かさない場合と、攻略記録だけを提供する場合も分ける」
「市民権や永住資格は」
「選択肢には入れろ。ただし、それを望む人物かは別だ」
ヴォスが端末へ記録する。
「日本政府への照会はどうしますか」
「戸張の名前は出さない。非公開の高深度到達者が存在する可能性について、情報共有の意思があるか確認しろ。こちらの5層情報を先に出して、人命優先とすれば口が軽くなるかもしれん」
「本人の周辺調査は」
「合法的に取れる情報から始める。公開記録、企業との契約、研究協力、医療処置、登録制度の例外。彼と接触した人物が、その後どの部署へ移ったかも調べろ」
連絡官が尋ねる。
「非公式な情報源は使用しますか」
「使う。ただし、日本政府の中枢へ直接手を入れるな。今ほしいのは機密文書ではない」
コールドウェルは戸張の資料へ指を置いた。
「この男が何を欲しがり、何なら断るのかだ」
ハウンド・スリーは名声を得た。スポンサーと契約し、回収物を保持しながら、政府や企業とも協力している。アメリカにとって理解しやすい関係だった。
戸張は違う。
五層を攻略しながら公表せず、利益へ変えず、日本政府にも全てを明かしていない。強さよりも、その行動原理が読みづらかった。
「ハウンド・スリーには伝えますか」
ヴォスが尋ねる。
「まだ必要ない。競争相手がいると知らせれば、準備不足のまま五層へ戻る理由になる」
「戸張は、どう分類しますか」
コールドウェルは少し考えた。
資産と呼ぶには、所有も契約もできていない。脅威と呼ぶには、敵対行動が確認されていない。協力者と呼ぶには、接触すらしていなかった。
「契約可能性のある独立した行為主体として扱え」
「契約に応じなかった場合は」
「その時に初めて、金で動かない相手だと分かる」
コールドウェルは戸張の資料を閉じた。
会議室の画面には、ハウンド・スリーの五層映像と、日本人男性の簡素な身元情報が並んでいる。
一方は、自らの成果を公開し、政府と企業の双方から支援を引き出したアメリカの民間探索者たち。
もう一方は、五層を攻略しながら、何を対価に求めているのかさえ分からない男。
アメリカが最初に考えたのは、戸張をどう支配するかではなかった。
いくらなら、こちらを向くのかだった。




