第192話 漏洩
国家異常空間管理委員会の会議室には、各地の異常空間を示す地図が投影されていた。
中国国内で封鎖、管理されている入口のうち、安定して人員を投入できる場所は増えている。低層で採取された鉱石、薬液、魔石に類する物体も、量だけを見れば世界最大級だった。研究設備も人員も不足してはいない。
だが、深度が伸びない。
周立言は、壁面に並ぶ報告を見ながら指先で机を叩いた。
三層への到達例は珍しくなくなった。四層へ入った部隊も複数ある。しかし、同じ部隊を繰り返し投入すると負傷率が上がり、交代させれば経験が引き継がれない。軍人だけで固めれば命令への服従は得られるが、異常空間では命令通りに動くことが最善とは限らなかった。
慎重に進めば時間を失い、成果を急がせれば人を失う。
その間にも、アメリカの民間探索者は四層を越え、五層へ入った。しかも国家の選抜部隊ではなく、自分たちで組んだ少人数の集団だった。
「国家契約探索者の第一期候補は、四十八名まで絞りました」
担当者が一覧を切り替えた。
「軍出身者十九名。警察、消防出身者十一名。民間の仮登録者に相当する者が十八名です。医療、保険、家族保障を国家側で負担し、回収物と活動記録は原則として全て提出させます」
陳国梁が資料から目を上げる。
「民間人に撤退権限を与えすぎている。国家が装備と医療を用意する以上、任務を途中で放棄する判断まで個人に委ねるべきではない」
「異常空間では、その判断が遅れた部隊ほど損耗しています」
梁雪梅が答えた。
「命令を待つ時間があるとは限りません。現場の一人が異常を感じた時点で、全体を止められる仕組みが必要です」
「一人の恐怖で任務が中断される」
「一人の恐怖を無視して、部隊全体を失った例がすでにあります」
陳国梁は反論せず、表示された損耗記録へ視線を戻した。
四層で失われた人員のうち、半数近くは撤退開始後に負傷していた。進行中の戦闘では持ちこたえた部隊が、帰路で隊列を崩し、搬送対象を増やし、残っていた装備と体力を使い切っている。
周立言は、国家契約探索者の制度案を閉じさせた。
「候補者の選抜より先に、運用を詰める。誰を入れるかではなく、何をもって撤退させるかだ。三層までの成功例を、そのまま四層以降へ持ち込むな」
「期限はどうしますか」
「七日以内に再提出しろ。人数を増やした案と、少人数へ分けた案を両方出す。大部隊を投入したという事実そのものを成果にするな」
周の言葉に、何人かが端末へ書き込む。
会議の主題は、中国国内の攻略体制だった。
各地の入口で得られた地形情報。四層到達部隊の行動記録。薬液の優先配分。家族保障を含む契約制度。民間探索者へどこまで裁量を与えるか。どれも急いで決めなければならない問題だった。
その途中で、会議室の扉が開いた。
入ってきたのは、委員会の職員ではなかった。濃い色の背広を着た男が、警備担当者とともに入口で立ち止まる。手には紙の資料と、封印された記録媒体があった。
周立言は時計を見る。
「今でなければならないのか」
男は一度だけ頷いた。
「日本に関する情報です。確度の確認が取れました」
アメリカではなく、日本。
その言葉で室内の空気が変わった。
周が入室を許可すると、男は梁雪梅の隣まで進み、薄い資料を机へ置いた。表紙には整理番号しかなく、件名も記されていない。
梁が最初の一枚を開く。そこにあったのは、特別な肩書を持つ人物ではなかった。
日本人男性。三十歳。元会社員。
異常空間の存在が政府から公表された後、勤務先を退職。国内の登録制度へ接触した記録はあるが、公開されている等級や認定状況に目立った点はない。
「これが何だ」
陳国梁の声には、隠さない苛立ちがあった。
男は答えず、梁が次の頁をめくるのを待った。
そこから内容が変わった。
警察、異常空間管理部門、医療関係者、安全保障部門。通常なら一人の民間探索者を扱う際に、同時には動かない部署の記録が並んでいる。すべての資料が揃っているわけではなく、黒く塗られた部分や、件名だけが残っているものも多い。
それでも、同じ人物を指していることは読み取れた。
戸張。
名前は苗字だけが繰り返し現れ、資料によっては個人名そのものが削られている。
「日本政府内で、共有範囲が意図的に制限されています」
情報を持ってきた男が説明した。
「一部の記録では通常の登録者として扱われていますが、別の記録では、行政処分や活動制限の対象から外されています。監視対象を示す処理と、協力者に近い処理が同時に存在します」
「矛盾しているな」
周が言う。
「はい。日本側が管理方法を統一できていないか、最初から通常の制度へ入れる意思がないと考えられます」
梁は、資料の中央に添付された一文で手を止めた。
五層攻略済み。
短い記載だった。
到達ではなく、攻略。翻訳上の揺れがある可能性は注記されているが、元資料でも、単に五層へ入った人物を示す表現ではなかった。
「五層を?」
陳国梁が資料を引き寄せた。
「部隊の一員か」
「個人を中心とした活動記録として扱われています。同行者の有無は確認できません。ただし、日本側の公的な攻略隊や自衛隊部隊に、この人物が所属した記録はありません」
「ハウンド・スリーより先か」
「時系列を確定できる情報はありません。少なくとも、日本政府の一部は、アメリカの四層攻略が公になる以前から、この人物を通常の登録者とは異なる対象として見ていた可能性があります」
会議室に沈黙が落ちた。
中国国内の三層、四層攻略をどう安定させるか。その議論をしていた最中に、隣国の元会社員が五層を攻略していたという情報が持ち込まれた。
しかも、日本はそれを公表していない。
周立言は資料を最初から読み直した。
戸張に関して、得られている情報は多いようで少ない。住所や元勤務先、退職時期、登録窓口との接触記録。一般的な個人情報は揃っている。一方で、どの異常空間を攻略したのか、どんな装備を使ったのか、何人で活動しているのかは欠けている。
戦闘能力についても、直接的な測定値はない。
複数の事件記録に、説明のつかない欠落がある。現場にいたはずの人物が資料から外され、負傷者の救助経緯が簡略化されている。訓練または検証を示す施設使用記録も見つかっているが、結果は閲覧できない。
「能力の推定は」
周が尋ねる。
梁は添付された分析を読む。
「身体強化型、未公開装備の使用者、異常空間由来の生物を操作する能力、特殊な回収品の所持。現時点では四系統の仮説が並んでいます。どれか一つとは限りません」
「日本政府が育成した人員ではないのか」
陳国梁が聞く。
「その可能性は低いと分析されています。退職以前の経歴に、軍、警察、情報機関との接点は見つかっていません。政府側が能力を与えたのではなく、能力を得た後に接触したと見る方が自然です」
周は椅子へ深く座り直した。
「入口を持っているな」
誰もすぐには答えなかった。
五層攻略済みでありながら、国内の公的攻略記録に名前がない。部隊所属でもなく、公開されている主要入口での継続活動も確認できない。
それなら、知られていない入口へ出入りしている可能性が高い。
「未申告、または非公開の異常空間を保持している疑いがあります」
男が慎重に言葉を選んだ。
「日本政府が場所を把握しているかは不明です。資料上、本人に対する活動状況の照会が行われていますが、十分な回答を得た形跡は確認できません」
陳国梁が眉を寄せる。
「政府にも場所を明かしていないのか」
「少なくとも、広い範囲では共有されていません」
「それで拘束しない?」
「拘束できない理由があるのでしょう」
梁雪梅の言葉に、陳が視線を向けた。
「五層を個人で攻略できるからか」
「それだけではありません。日本側の処理は、危険人物を監視している形とも、価値の高い協力者を保護している形とも読めます。本人に何かあった場合、日本が失うものが大きいと判断されている可能性があります」
周は机の上の国内攻略資料を見る。
四層へ何人送るか。撤退権限を誰へ与えるか。負傷した隊員をどこまで運ぶか。国家の組織と資源を使い、それでも越えられない場所を、一人の日本人が先に抜けている。
腹立たしさより、警戒が先に立った。
「この情報を知っている国は」
「現時点では確認できません。アメリカが独自に把握している可能性は高いですが、日本から正式に共有された記録は見つかっていません」
「本人への接触は」
「まだ行っていません」
「行うな」
周の返答は早かった。
「日本国内で、政府が特例として扱っている人物だ。こちらが先に接触すれば、日本側へ警告するだけになる。監視を続けろ。本人ではなく、周辺から埋める」
梁が問い返す。
「周辺とは、どこまでですか」
「接触した行政職員、医療関係者、探索者、配信者。戸張という名前が消された資料を洗い直せ。消された場所には、消す理由がある」
陳国梁は五層攻略済みという一文を見たまま言った。
「国内へ招くことは考えないのか」
「招待に応じる人間なら、日本政府も扱いに困っていない」
周は資料を閉じた。
「それに、五層を攻略した方法が分からない。本人の能力か、装備か、回収品か、入口そのものが特殊なのか。何も分からない状態で人間だけを手に入れても、同じ成果が得られるとは限らない」
会議室の壁には、再び中国国内の異常空間が映っていた。
三層。四層。負傷者数。投入人数。回収物。必要予算。
その横に、梁が新しい項目を追加する。
日本。戸張。五層攻略済み。
国家部隊でもなく、軍人でもなく、研究機関が育てた人員でもない。日本政府の命令だけで動いている様子もない。
周立言は、その一行をしばらく見ていた。
日本が隠していたのは、新しい部隊ではなかった。
国家の枠に収まらないまま、五層を越えた一人の人間だった。




