第190話 乾いた風
外側で用事を片づけてから、俺は暗渠ダンジョンへ入った。
入口から一層ボス部屋までの道は、もう迷うような場所ではない。油断していいという意味ではないが、どこで足音が響き、どこで視界が狭くなり、どのあたりで小型の敵が出やすいかは体が覚えている。最初に来た時のような息苦しさはない。
一層ボス部屋に着くと、床にある光る円を確認し足を踏み入れる。
視界が白く揺れ、足裏の感触が一瞬だけ抜けた。次に戻ってきたのは、一層の硬い床ではない。そこから見慣れた経路を進み、奥の扉を抜けて、六層側の拠点へ向かった。
小人たちの拠点は、前に見た時よりもまた形が変わっていた。森砕きが倒れたあとの通り道は、小人たちの手で運搬路のように均され、太い骨や牙、外皮の一部があちこちに分けて置かれている。肉を干している場所も増えていて、煙の匂いと血の匂いと、土を掘り返した匂いが混じっていた。
俺が姿を見せると、小人たちが何人かこちらを振り向いた。騒ぐというより、作業の途中で確認した、という感じだった。最近は俺が出入りすることにも慣れてきたのか、一斉に集まってくるようなことはない。
それでいい。
俺がいない間に自分たちで動けるなら、その方がいい。毎回こちらの顔色をうかがわれても困るし、俺も全部に指示を出せるわけじゃない。小人は小人で勝手に判断して、危ない時だけ逃げてくれれば十分だった。
近くにいた一人が、森砕きの外皮を細く切ったものを差し出してきた。ベルトの補強材らしい。まだ完成品ではないが、厚みのわりにしなやかで、端の処理もきれいだった。こういう加工を見るたびに、道具が足りない環境でよくここまでやるなと思う。
「ありがとな。あとで合わせてみる」
俺がそう言うと、小人は頷き、すぐに作業へ戻っていった。
負傷していた猪型と鳥型、蜥蜴人の様子も見る。寄生体を通じた補修は進んでいるが、戦える状態に戻ったと判断するにはまだ早い。傷そのものは塞がっていても、動きの奥に重さが残っている。無理に連れ回して再び傷を開かせる必要はなかった。
今日は、狼型と蜘蛛型を連れていく。鳥型の中にも動ける個体が一体いたので、上を見る役としてついてこさせた。小人は何人かが当然のように荷物を持ち、何人かは手ぶらで歩き出した。
止める理由はない。
行きたければ来ればいいし、途中で別のものに興味を持つならそれでもいい。全員をこちらの行軍に合わせようとすると、かえって面倒になる。小人たちは小人たちで、何かを見つけ、拾い、試している。その動きまで俺が管理する必要はなかった。
森砕きが開いた道を進む。前は巨大な体が無理やり押し広げた破壊の跡だったが、今は小人たちが運搬に使うせいで、枝や倒木が脇へ寄せられていた。踏み固められた部分もあり、森の奥へ続く道のようになっている。
森砕きの通った先は、思っていたよりも長く続いていた。折れた幹が斜めに倒れ、削られた地面には深い溝が残っている。ところどころに森砕きの外皮らしい欠片が落ちていて、小人たちはそれを見つけるたびに勝手に拾っていた。使えるものかどうか、俺には分からない。小人たちが持っていくなら、たぶん何かにはなるのだろう。
しばらく進むと、森の匂いが変わった。
湿った土と葉の匂いに、乾いた石の匂いが混じっている。地面はまだ土だが、木の根元に灰色の岩が増え、草も背の低いものが多くなっていた。森砕きの道はそこで少し曲がり、浅い谷のような場所へ降りていく。
鳥型が低く鳴いた。
上を見る。枝の間を、黒い影が走った。猿に似ているが、腕が長く、尾がない。顔の部分だけが白く、木の幹に貼り付くように動いている。数は三体。こちらを見ている。
狼型が唸る。蜘蛛型は脚を低く広げ、すぐ横の木へ寄った。
小人たちは散った。荷物を持っている者は倒木の陰へ入り、手ぶらの者は石の後ろへ回る。こちらの指示を待っている感じではない。勝手に危なそうな場所から離れ、見える位置に残っている。
それで十分だった。
白い顔の猿のようなものが、枝を蹴って跳んだ。狙いは俺ではない。荷物を持った小人の一人へ、上から落ちるように向かう。
俺が動く前に、鳥型が横から突っ込んだ。羽ばたきの音が乾いた森に響き、白い顔の横腹をかすめる。猿のようなものは空中で体勢を崩し、地面へ落ちる前に長い腕を伸ばして枝を掴んだ。
そこへ蜘蛛型の糸が飛ぶ。
白い顔の腕に糸が絡み、動きが一瞬だけ止まった。狼型が地面を蹴り、木の根元を駆け上がるように跳ぶ。牙が足に届き、石を割るような音ではなく、湿った肉が裂ける音がした。
猿のようなものが甲高く鳴く。
残り二体が同時に動いた。一体は俺の頭上へ回り込み、もう一体は小人たちのいる倒木へ向かう。俺は腰のナイフを抜き、頭上の気配へ合わせて半歩ずれた。落ちてきた腕が肩をかすめる。爪が服を裂いたが、皮膚までは届かない。
「速いな」
呟きながら、伸びきった腕を掴む。
寄生体が内側で筋肉を押し上げた。俺はそのまま腕を引き、落ちてきた体を地面へ叩きつける。骨の折れる感触まではない。こいつらは軽いが、体が柔らかい。受け身のように体を捻り、すぐ逃げようとした。
逃がす必要もない。
ナイフを逆手に持ち替え、首の付け根へ突き入れる。白い顔が大きく開き、歯の奥から細い舌が覗いた。暴れる腕が俺の前腕に絡んだが、力はすぐ抜けた。
倒木側では、小人たちが勝手に動いていた。荷物持ちは下がり、別の二人が森砕きの骨を削った短い槍のようなものを構えている。猿のようなものが倒木を越えた瞬間、足元に張られていた細い紐が引かれた。
罠というほど大げさなものではない。拾った蔓を低く張っていただけだ。それでも、勢いよく走っていた相手には効いた。白い顔が前のめりに崩れ、そこへ小人の槍が二本刺さる。
浅い。
だが、痛みで動きが乱れたところへ狼型が回り込み、首筋に噛みついた。
最後の一体は、それを見て逃げた。枝から枝へ飛び移り、森の奥へ消えていく。鳥型が追いかけようとしたが、途中で旋回して引き返してきた。深追いしない判断をしたらしい。
俺は倒れた二体を確認する。白い顔。長い腕。黒い体毛。爪は薄く、木に引っかけるための形をしている。魔石のようなものがあるかどうかは、すぐには分からない。
小人たちはもう死体を見ていた。警戒している者もいれば、毛をつまんで引っ張る者、爪を見て何か話している者もいる。倒木の近くで転んだ一人は、服についた泥を払っていた。
俺は口を出さなかった。
必要なら持って帰るだろうし、いらないなら捨てるだろう。俺が素材の価値を分かっているわけでもない。小人たちはしばらく死体の周囲で動き、爪と歯、それから白い顔の皮を少し切り取った。肉は持っていかないらしい。
先へ進む。
森はさらに薄くなっていった。地面に岩が増え、草はまばらになり、木々の間隔が空く。風が通りやすくなったせいか、葉擦れの音よりも、どこか遠くで砂が擦れるような音が混じる。まだ砂地ではない。だが、湿った森の奥に向かっている感覚はもうなかった。
森砕きの通った跡は、やがて途切れた。
正確には、途切れたというより、そこで森砕きが止まったらしい。木が大きく倒れ、地面が広く抉れている。暴れた跡だ。周囲の幹には深い傷がいくつもあり、森砕きの体が何度もぶつかったように見える。
その奥に、岩壁があった。
自然の崖に見えるが、近づくと違う。岩肌の一部が直線的すぎる。蔓と苔が張り付き、土が被さっていたせいで遠目には分からなかったが、そこには明らかに人工物のような輪郭があった。
扉だ。
一層のボス部屋や、これまで見てきた扉とは雰囲気が違う。石でできた大きな扉が、岩壁に半分埋まるように立っている。表面には風で削られたような模様があり、中央には丸い窪みがあった。取っ手はない。押すのか、引くのか、それとも何か条件があるのかも分からない。
小人たちが先に近づいた。
俺は止めなかった。小人の一人が扉の下部を叩き、別の一人が苔を剥がし、さらに別の一人が丸い窪みに指を入れようとしている。触った瞬間に死ぬようなものなら困るが、全部を俺が先に試すのも違う。彼らは彼らで、危ないものへの見方を持っている。
蜘蛛型が扉の上へ糸をかけた。鳥型は岩壁の上を回り、狼型は扉の前で鼻を鳴らしている。
俺は扉の中央へ近づき、丸い窪みを見た。そこには砂が詰まっていた。こんな森の奥に砂。指で少し掻き出すと、乾いた粒がぱらぱらと落ちる。水気はない。六層の森とは合わない乾き方だった。
「この先か」
誰に聞かせるでもなく呟く。
丸い窪みに手を当てると、寄生体が内側で反応した。強い拒絶ではない。通れる場所を見つけた時の、あの奇妙な感覚に近い。皮膚の下を白い糸が撫でるような気配が走り、扉の奥から、乾いた風の匂いが漏れた。
扉が動いた。
重い音が森の奥に響く。石同士が擦れ、長く閉じていたものが無理やり開くように、扉はゆっくり内側へ沈んでいった。隙間から差し込んできた光に、小人たちが一斉に顔を向ける。
白い。
最初に見えたのは、光だった。次に、熱を含んだ空気が頬に触れる。森の湿った匂いが押し返され、乾いた砂と、遠くの水の匂いが混じった風が流れ込んできた。
俺は扉の向こうへ一歩入った。
足元で、土ではないものが崩れる。
砂だった。
視界が開ける。頭上には高すぎる空があり、白っぽい光が一面を照らしていた。前方には緩やかな砂丘がいくつも続き、その間に、場違いなくらい濃い緑が見える。木のような植物が集まり、その中心で水面が光っていた。
オアシス。
森の奥の扉を抜けた先にあったのは、水没した地下空間でも、石造りの部屋でもなかった。
第七層は、砂漠だった。




