第188話 先に言っておくこと
槙野は、見学中から届いた個別メッセージをしばらく眺めていた。
『槙野さん。亀山さんと槙野さんに、伝えておくべきことがあります。時間を取れますか』
文面は短い。余計な説明も、妙な飾りもない。
だからこそ、軽い相談ではないと分かった。
槙野はすぐには返信しなかった。公開チャンネルでは、まだ二層ボス部屋前の撤退報告をめぐって通知が流れている。石橋たちの報告に対する質問、撤退基準の相談、装備メーカーらしきアカウントから来たDMの確認。どれも大事だが、今届いた個別メッセージは、それとは別の場所から来た重さを持っていた。
見学中。
準備会の中では、ほとんど発言しない表示名。
だが槙野は、それが戸張であることを知っている。
本人が名乗ったわけではない。必要な範囲で、互助会側の運営として確認しただけだ。槙野はその名前を誰にも出していないし、準備会の利用者として特別扱いもしていない。静かに見ているだけなら、それでよかった。
けれど、今回は向こうから動いてきた。
しかも、亀山の名前まで出している。
槙野は短く返信した。
『時間は取れます。亀山さんにも確認します。公開チャンネルではなく、個別で話しましょう』
返事はすぐに来た。
『お願いします。急ぎではありますが、今すぐでなくても大丈夫です』
急ぎではあるが、今すぐでなくてもいい。
その書き方が、逆に嫌だった。
本当に軽い相談なら、急ぎなどとは書かない。本当に今すぐ危険なら、今すぐと言う。戸張はその中間を選んでいる。つまり、今この瞬間に誰かが倒れているわけではないが、先延ばしにし続ける話でもない。
槙野は亀山へ連絡を入れた。
亀山からの返信は早かった。
『戸張さんの件ですか?』
槙野は画面の前で眉を上げた。
やはり、亀山も分かっている。
戸張と亀山の間には、水門の件以降、ただの配信者と視聴者ではない連絡経路ができている。亀山はそのことを大げさに言わないが、戸張が何かを話す相手として亀山を選ぶなら、槙野だけが知らない事情もあるのだろう。
槙野は返す。
『そうです。三人だけの通話にします。記録は取りますか?』
『最初は取らない方がいいと思います。必要なら、話を聞いた後で確認してから記録にしましょう』
それは妥当だった。
互助会準備会は、情報を残す場所だ。だが、何でも最初から記録すればいいわけではない。記録にすることで、保管責任と開示リスクが生まれる。
槙野は、戸張に通話の時間と場所を送った。
仮登録者互助会準備会の中にある、管理者用の非公開チャンネル。その中でも普段は使っていない臨時の音声ルームを一つ作る。
名前は、仮に「確認用」とした。
それ以上の意味を持たせる必要はない。
通話開始の時刻になると、最初に亀山が入ってきた。
画面には声だけの参加表示が出る。
「槙野さん、聞こえますか」
「聞こえます。亀山さんの方は?」
「大丈夫です」
亀山の声はいつもより固い。配信の時の明るさは抑えられている。彼も今から聞く話が雑談ではないと分かっているのだろう。
遅れて、見学中が入室した。
表示名はそのままだった。
声が入る前に、槙野は一つ確認する。
「戸張さん、こちらは槙野と亀山さんだけです。記録は取っていません。必要なら、後で確認した上で文章化します」
「ありがとうございます」
戸張の声は、落ち着いていた。
疲れているようにも聞こえるが、慌ててはいない。槙野はそれだけで安心し、同時に警戒した。落ち着いている人間が持ち込む厄介事は、たいてい本当に厄介だ。
「先に聞いておきます。これは、互助会準備会の運営に関係する話ですか」
「関係します。直接ではないかもしれませんが、放っておくと迷惑をかける可能性があります」
槙野は、無意識に背筋を伸ばした。
亀山も黙っている。
「迷惑、というのは」
「俺の立ち位置の問題です」
戸張は間を置いた。
言葉を選んでいるのが分かった。全部を話すつもりではない。だが、曖昧なまま誤魔化すつもりでもない。槙野はそう感じた。
「詳しい数字や場所は言えません。言うべきではないとも思っています。ただ、俺は皆さんが思っているより深く潜っています」
亀山が小さく息をのんだ。
槙野は声を出さなかった。
予想していなかったわけではない。戸張が普通の仮登録者ではないことは、薄々分かっていた。亀山との関係、制度側との接触、互助会に入ってからの距離の取り方。どれも、ただの見学者ではない。
それでも、本人の口から言われると、重さが違う。
「それは、正式な活動としてですか」
槙野は聞いた。
「全部が、通常の形ではありません」
戸張はそう答えた。
「ただ、国側には話を通しています。少なくとも、今の時点では、俺を通常の仮登録者や正式登録者と同じ枠で扱わない立ち位置を、交渉で手に入れました」
「特例、ですか」
「そう言っていいと思います。国側も、俺も、互いに都合がいい形を探った結果です」
亀山が静かに言う。
「戸張さんらしいですね」
「そうですか」
「はい。言い方は悪いですけど、正面から制度に従うだけでもなく、完全に隠れるだけでもなく、ギリギリのところで話をつけた感じがします」
戸張はしばらく黙った。
否定はしなかった。
亀山の言葉には、妙な近さがあった。水門の件から続く信頼なのか、恐怖を共有した人間同士の距離なのか、槙野には正確には分からない。ただ、亀山は戸張の説明を初めて聞く人間の反応ではなかった。
槙野はそこに踏み込まない。
今聞くべきなのは、互助会に関係する部分だ。
「その立ち位置が、うちに迷惑をかける可能性がある、ということですね」
「はい」
戸張はすぐに答えた。
「今はまだ、俺が見学中として準備会を見ているだけです。発言もほとんどしていない。槙野さんが外に出していない限り、俺と互助会のつながりは強く見えないと思います」
「出していません」
「分かっています。そこは信用しています」
槙野は目を伏せた。
信用されるのはありがたい。だが、同時に責任も増える。
「ただ、俺の周りのことが今後少しずつ動く可能性があります。国側との関係、探索の深さ、亀山さんとのつながり、互助会を見ていること。そのどれかが表に出た場合、互助会準備会に余計な目が向くかもしれません」
「企業、メディア、制度側、探索者、野次馬」
槙野が並べる。
「その全部です」
戸張の声は平坦だった。
「特に、互助会が今みたいに育ってきているなら、なおさらです。ここには仮登録者がいる。撤退報告がある。契約相談がある。装備の失敗談がある。外から見れば、情報の集まる場所に見える」
「実際、集まっています」
「だから危ない」
その言い方で、槙野は息を止めた。
互助会準備会は、槙野にとって手応えのある場所になり始めている。だが、戸張はそこを冷静に危険だと言った。
腹は立たない。
むしろ、正しい。
人が集まり、情報が集まり、相談が集まる場所は、それだけで価値を持つ。価値を持てば、利用しようとする者が来る。
「戸張さんの名前が絡むと、その価値が別の意味を持つ、ということですか」
「はい。俺に近づきたい人間が、直接来るとは限りません。槙野さんに来るかもしれない。亀山さんに来るかもしれない。互助会の利用者に来るかもしれない。見学中という表示名を探ろうとする人も出るかもしれません」
亀山が静かに言った。
「私の方にも、そういう連絡は増えています。まだ露骨ではないですけど、戸張さんの名前を直接出さずに探ってくる人はいます」
「すみません」
「謝るところではないです。私も、自分で関わると決めましたから」
そのやり取りは短かったが、槙野には十分だった。
戸張と亀山の間には、もう互いに謝罪だけで済ませない程度の関係がある。亀山は巻き込まれただけの被害者ではなく、自分の立場を選び直している。戸張も、それを分かった上で話している。
槙野は二人の間にある事情を詳しく聞かないまま、話を進めた。
「それで、戸張さんは私たちに何を求めていますか。互助会から抜ける、という話ですか」
「それも考えました」
戸張は正直に言った。
「ただ、抜ければ安全になるとも思えません。俺がいた痕跡が消えるわけではないし、何より、互助会は今後かなり大事になると思っています。だから、迷惑をかける可能性があると先に伝えた上で、必要なら俺にできることを出したいです」
「できること」
「はい」
戸張の声が硬くなった。
「俺は、全部を話せません。どこまで潜ったかも、どこで何を見たかも、具体的には言えない。ただ、一般化した形なら出せるものがあります。撤退基準、報告書の項目、危険な場所の見方、装備の壊れ方、企業や研究協力の話で気をつけるべきこと。そういう形なら、互助会の役に立てるかもしれません」
槙野はすぐには答えなかった。
それは魅力的だった。
戸張が持っている情報の質は、おそらく普通の仮登録者とは違う。たとえ具体的な階層や敵の名前を伏せても、そこから抽出される安全知識には価値がある。
だが、受け取り方を間違えれば、互助会準備会は戸張の情報を餌に人を集める場所になる。
それは駄目だ。
準備会は、探索を煽る場所ではない。
「出すなら、戸張さんの名前では出せません」
槙野は言った。
「はい。そのつもりです」
「見学中の投稿としても出しません。私が運営側の一般注意として整理するか、亀山さんと確認した上で、出どころを伏せた形にします」
「それでお願いします」
「あと、深層経験者の助言、みたいな見せ方もしません。そんな看板を立てたら、準備会が壊れます」
「分かっています」
戸張の返事は早かった。
槙野は、その早さに安心した。彼は自分の情報の危うさを分かっている。分かっていなければ、ここまで話をする意味がない。
亀山が口を挟んだ。
「私からも一ついいですか」
「はい」
「戸張さんが出せるものを、槙野さんが全部受け取る形にすると、槙野さん一人に負担が寄ります。私も確認役に入ります。配信者として外からどう見えるか、視聴者がどう受け取るかは、少しは見られると思います」
「助かります」
槙野は素直に言った。
亀山は表に立つ人間だ。互助会準備会の中だけを見ている槙野とは違う。言葉がどう切り取られるか、どこで煽りになるか、どういう表現が余計な期待を生むか。そこは亀山の方が敏感だろう。
「ただ、亀山さんにも迷惑が増えます」
戸張が言った。
「今更ですよ」
亀山は軽く笑いながら答える。
「それに、私も戸張さんに助けられた側です。何もしない方が、たぶん後で嫌になります」
槙野は画面を見た。
声だけの通話なのに、亀山の表情が想像できた。怖がっていないわけではない。けれど、怖いから降りるという段階はもう過ぎている。
戸張は沈黙した後、短く言った。
「ありがとうございます」
その一言で、話が落ち着いた。
槙野は、机の横に置いていたメモ帳を引き寄せる。記録は取らないと決めていたが、個人的な整理くらいは必要だった。名前や具体情報は書かず、項目だけを置いていく。
互助会への波及リスク。
戸張名の秘匿。
亀山確認。
一般化した安全情報。
企業接触対策。
準備会を煽り場にしない。
国側との扱い。
そこまで書いて、槙野は手を止めた。
「国側との扱いについて、もう少しだけ聞いてもいいですか。互助会に何か来た時、こちらがどう構えればいいかに関わります」
「はい」
「戸張さんは、国側に追われているんですか。それとも、協力者として扱われているんですか」
亀山が黙った。
かなり踏み込んだ質問だと、槙野自身も分かっていた。
戸張はすぐには答えなかった。数秒の間があり、それから声が返ってくる。
「どちらか一つではありません」
槙野は黙って続きを待つ。
「警戒はされています。監視も、たぶん完全には消えていません。ただ、敵として処理するより、交渉相手として扱った方がいいと判断された状態です。俺も、国側と完全に対立するつもりはありません。必要な情報は出すし、条件が合えば協力もします。その代わり、こちらにも守るものがある」
「その条件を通した、ということですね」
「はい」
「かなり無茶な交渉をしました?」
「しました」
戸張は否定しなかった。
亀山が小さく笑った。
「変なところで大胆ですよね」
「ああ、なんか最近似たような事を言われましたね」
槙野は額に指を当てた。
国と交渉し、特例扱いを引き出し、なお互助会に迷惑をかけるかもしれないと事前に言いに来る。
常識的に考えれば面倒な相手だ。
だが、何も言わずに巻き込む人間よりは、はるかにましだった。
「分かりました」
槙野は言った。
「互助会準備会としては、戸張さんの名前を出しません。見学中についても触れません。もし外部から探りが来た場合は、利用者個人については答えない、で統一します。企業やメディア、研究協力を名乗る接触が来た場合は、#契約こわいに回す。ただし、戸張さんに関係する可能性があるものは、公開チャンネルに出す前に私が確認します」
「お願いします」
「その代わり」
槙野は声に力を込めた。
「戸張さんにも協力してもらいます。深い情報を出せと言っているわけではありません。互助会に必要なのは、攻略法ではなく、いざという時の保険です。今日、二層ボス前の報告がありましたよね。その点で一つ、お願いしたいことがあります」
「……どういうことでしょうか」
「簡単に言うと、互助会が未経験のボス戦に挑む場合、戸張さんに参加してほしいんです。表向きの主役ではなく、人命に関わる事態が起きた時の安全装置としてです」
口にした瞬間、槙野の胸の奥に熱いものがこみ上げた。
危険な話をしている。
人命と制度と秘匿の話をしている。
それなのに、どうしようもなく心が震えた。
仮登録者互助会準備会。名前だけ聞けば、地味で、役所に怒られないために角を削った、ただの情報共有の場だ。けれど今、その小さな場所に、表では語られない実力者がいる。深い場所を知る者が、自分たちだけに一部を明かし、これから降りかかるかもしれない厄介事を前に、力を貸すと言っている。
槙野は、こういうものに関わりたかったのだと思った。
探索者が生き延びるための仕組みを作ること。契約や報告書や撤退基準を整えること。そうした現実的な運営が少しずつ回り始めた手応えの向こうで、空想の中にしかなかった物語じみたものが、いま自分の目の前に立っている。
興奮をそのまま出せば、危険な人間になる。
だから槙野は、声を抑えた。
この熱を、煽りではなく仕組みに変えるために、自分はここにいる。
「なるほど……可能だとは思います」
戸張は考えてから答えた。
「ただ、本当にいいんですか。命の危険を自分たちだけで越えないと、得られないものもあると思います」
「そうでしょうね」
槙野は認めた。
「ただ、命は一つです。成長と生還のどちらに重きを置くかと言われたら、私は後者を選びます。危険を消すことはできません。けれど、全滅を経験に変える必要はない」
通話の向こうで、亀山が息を詰めたような気配があった。
戸張はすぐには答えなかった。
槙野は続ける。
「もちろん、戸張さんが全部を片づける形にはしません。それでは互助会の経験にならない。基本は当事者たちが判断し、戦い、退くか進むかを決める。ただ、取り返しがつかなくなる直前に手を伸ばせる人がいるなら、その一回分の余地が欲しいんです」
「分かりました」
戸張の声は落ち着いていた。
「その条件なら、引き受けます」
槙野は、胸の奥の熱がさらに強くなるのを感じた。
だが、息を吸って抑えた。
喜ぶ場面ではない。
これは安全装置の話であり、誰かが死にかけた時の話だ。胸が熱くなること自体に、後ろめたさもある。
それでも、槙野は否定できなかった。
互助会は、確かに次の段階へ進み始めている。
役割が決まっていく。
槙野は、その感覚に奇妙なものを覚えた。
仮登録者互助会準備会。
建前では、ただの情報共有の場。
探索の斡旋も、戦利品売買も、危険行為の募集も禁止している。
それなのに今、ここでは深層にいるらしい戸張、配信者として表に立つ亀山、準備会の世話役である槙野が、互助会に降ってくるかもしれない火の粉をどう受けるか相談している。
ギルドではない。
何度でもそう言うつもりだ。
けれど、ギルドではないと言い張る場所にも、守るべき人間と、扱うべき情報と、外から来る利害が生まれ始めている。
「一つ確認します」
槙野は言った。
「戸張さんが、皆さんが思うより深く潜っていること。国側にも特例扱いされる立ち位置を交渉で手に入れていること。これは、私と亀山さん以外には出さない。少なくとも、今は」
「はい」
「亀山さんも、それでいいですか」
「はい。私の方でも出しません」
亀山はすぐに答えた。
「ただ、必要になった時のために、共有範囲を増やす基準は決めておいた方がいいと思います。たとえば、槙野さんに直接圧力が来た場合、制度側に相談するかどうか」
槙野は頷いた。
「それは決めましょう。私一人で抱えるのは危ないので」
「国側への窓口は、俺からも確認します」
戸張が言った。
「互助会に直接何かが来た時、どこへ話を通すのが安全か。俺が勝手に決めるより、向こうにも確認した方がいい」
「村瀬さんですか」
亀山が聞いた。
「たぶん、まずはそこです」
その名前で、国側との線が見えた。
槙野は村瀬の顔を思い浮かべる。制度側の人間でありながら、現場の面倒を見ている人間。戸張と国の間にある交渉の一部にも、あの人が関わっているのだろう。
それ以上は聞かなかった。
「では、今日のところは三つです」
槙野は言った。
「一つ目、戸張さんと互助会のつながりは伏せる。二つ目、外部からの探りや接触は、個別対応せず運営側で受ける。三つ目、戸張さんから出せる安全情報は、亀山さんと私で一般化して、互助会の形に直す」
「はい」
「はい」
二人の返事が重なった。
槙野はメモ帳を閉じる。
「それで、戸張さん。今すぐ互助会に反映した方がいい話はありますか。具体的な場所や階層を言わずに、です」
戸張は考え込んだ。
「撤退基準を、出発前に決めることです」
「それは今も言っています」
「はい。ただ、もっと強くです。扉の前で決めると、だいたい遅い。行けるところまで行ってから考えると、帰路の余裕を削ります。何を見たら引き返すか、誰か一人が中止を言った時にどう扱うか、回収物を捨てる条件は何か。そこまで出発前に決めておいた方がいい」
槙野はメモ帳を開き直した。
「回収物を捨てる条件」
「はい。持って帰りたいものほど、判断を鈍らせます」
亀山が静かに言った。
「配信でも似ています。撮れ高がある時ほど、退きにくいです」
「それも入れます」
槙野は書いた。
撤退基準。
誰か一人の中止宣言。
回収物放棄条件。
撮れ高放棄条件。
出発前合意。
書きながら、さっきの石橋班の報告を思い出す。
ここまで来たのに。
ここまで来たから帰れるうちに帰る。
あの言葉は、互助会の中で使える。
そして今、戸張から出た言葉も、形を変えれば使える。
「分かりました。これは、次の固定投稿に入れます。ただし、戸張さんの名前は出しません」
「お願いします」
通話は、それから数分だけ続いた。
具体的な階層の話は出なかった。敵の種類も、場所も、回収品も、戸張が本当はどこまで知っているのかも語られなかった。
それでも、槙野には十分だった。
戸張は思ったより深くにいる。
国側とも、普通ではない形で話をつけている。
その影が、互助会に落ちるかもしれない。
そして、その前にせめて傘を用意したいと言っている。
迷惑をかけるかもしれないという言葉は、責任逃れにも聞こえる。だが戸張の場合は、先に謝るためではなく、先に準備するための言葉だった。
通話を終える前、亀山がふと思い出したように言った。
「戸張さん」
「はい」
「今日の話、怖いですけど、言ってくれてよかったです。知らないまま巻き込まれるより、ずっといいです」
「そう言ってもらえると助かります」
「ただ、次からはもう少し早めに言ってください」
戸張は一拍置いてから答えた。
「努力します」
「そこは、はい、でいいところです」
亀山の声に、いつもの調子が戻った。
戸張も、わずかに息を吐いたように聞こえた。
「はい」
槙野は、そのやり取りを聞きながら、ようやく肩の力を抜いた。
この三人の関係は、まだ名前をつけるには早い。協力者と言うには軽く、仲間と言うには重い。けれど、少なくとも、同じ厄介事の前で黙って別方向を見る関係ではなかった。
通話が終わった後、槙野はしばらく画面の前に座っていた。
公開チャンネルでは、石橋班の撤退報告への反応がまだ続いている。#契約こわいには企業DMのスクリーンショットが追加され、#ギルド名募集ではまた役所に怒られそうな名前が出ていた。
いつもの準備会だった。
ただし、さっきまでとは違って見える。
この場所は、もう単なる雑談と相談の場ではない。
戸張のような人間が静かに見ていて、亀山のような表の人間が関わり、企業や制度や国の影が少しずつ伸びてくる場所になっている。
槙野は深く息を吐き、固定投稿の下書きを開いた。
【追加予定】
・撤退基準は出発前に決める。
・誰か一人が中止を言った場合の扱いを決める。
・回収物を捨てる条件を決める。
・撮影、配信、記念写真を諦める条件を決める。
・扉の前で初めて相談しない。
最後の一行を打ったところで、槙野は手を止めた。
扉の前で初めて相談しない。
それは、異常空間の中だけの話ではないのかもしれない。
互助会も同じだ。
危険が扉の前に来てから考えるのでは遅い。外から何かが来る前に、先に決めておかなければならない。
槙野は下書きを保存し、画面右上の表示名を見た。
見学中は、すでにオフラインになっていた。
それでいい。
今はまだ、それでいい。
槙野は公開チャンネルへ戻り、いつもの調子で書き込んだ。
『撤退基準テンプレートを追加します。項目案を募集します。ただし、ボスに挑むための相談ではなく、生きて帰るための相談です』
送信すると、すぐにいくつかの反応がついた。
準備会は、また動き始める。
扉の前まで来た場所で、扉を開けるためではなく、帰還のための形を少しずつ増やしながら。




