第187話 扉の前まで
仮登録者互助会準備会の画面に、一本の報告が上がった。
投稿先は、#撤退報告。
件名は、短かった。
【二層ボス部屋前まで到達。突入せず撤退】
槙野は、その文字を見た瞬間、持っていたマグカップを机へ置いた。熱いコーヒーが少し揺れた直後、通知が立て続けに増えていく。
誰かが絵文字を押し、誰かが「すごい」と書き、誰かが「ボス行かなかったの?」と打ちかけ、別の誰かが「動画ある?」と聞こうとする。
槙野は、反射的に管理者権限でスレッドを一時低速モードへ切り替えた。
『まず報告者の本文を待ってください。突入しなかった判断を急かす書き込みは禁止です』
送信すると、数秒だけ流れが止まり、それからぽつぽつと反応が変わっていく。
『了解』
『すみません』
『撤退報告ですね』
『本文待ちます』
槙野は小さく息を吐いた。
以前なら、この時点で「なんで入らないの」「そこまで行ったなら一回くらい」「報酬逃してない?」といった書き込みが流れていたはずだ。今は完全にそうした空気が消えたわけではないが、止めれば止まる。
それだけで、準備会は少しだけ別のものになっていた。
報告者の表示名は、石橋。
正式登録ではなく仮登録者で、仲間二人と組み、管理窓口が開放している低危険度指定の異常空間で活動している。派手な配信者ではなく、深層到達を売りにしているわけでもない。以前、#報告書の書き方で「大きい犬みたいなやつ」と書いて、槙野にかなり具体的に直された一人だった。
その石橋が、今回はテンプレートを使っていた。
【人数】
三名。
【活動区分】
管理窓口許可済み。二層調査。ボス部屋突入なし。
【到達地点】
二層奥。大扉状構造物前。扉表面に円形の浮き彫り。左右に石柱。扉の前、床の色が周囲より一段濃い。
【判断】
突入せず撤退。
【理由】
一、扉前で全員に軽い耳鳴り。
二、持ち込みライトの一つが不規則に点滅。
三、扉の前に古い傷跡のようなものが複数あり、床の濃い部分に入ると足裏に微振動。
四、二層道中で小型敵との接触が続き、消耗あり。
五、帰路に不安が残る状態で新規戦闘へ入るのは危険と判断。
【回収物】
なし。
【損耗】
擦過傷二名。右膝打撲一名。ライト一個不調。盾のベルト一本破損。水残量三割。
【撤退所要時間】
扉前から入口まで三十九分。途中、小型敵二体と接触。戦闘回避一回、短時間交戦一回。
【補足】
扉の前で記念撮影したい気持ちはあったが、床の色が違う範囲へ入る必要があったため中止。チョークで位置を記録し、すぐ撤退。
槙野は本文を二度読んでから、椅子の背にもたれた。
派手な回収品はなく、ボスも倒しておらず、映像映えする勝利もない。けれど、槙野が欲しかったのは、まさにこういう報告だった。
どこまで行ったか。何を見たか。何が起きたか。なぜ戻ったか。戻るのにどれだけかかったか。何が壊れたか。何を諦めたか。そして、生きて帰ったこと。
それらが、次に行く誰かの命綱になる。
槙野は返信欄に文字を打ち込む。
『良い撤退です。特に、床の色が違う範囲に入らず記念撮影を中止した判断は共有価値があります。扉前は到達地点であって安全地帯ではありません』
送信した直後、別の利用者が続いた。
『これめちゃくちゃありがたい。自分なら写真撮りに行ってたかも』
『床の色違い、前に一層でもあった。踏んだら敵出た』
『ライトの点滅って電池?』
『耳鳴りは全員同時?』
『水三割でボス行かないの助かる。自分ならテンションで判断ミスる』
石橋は質問に答えていった。
耳鳴りは全員同時で、ライトは予備電池に替えても点滅した。床の濃い部分には入らず、扉にも触っていない。扉前で休憩もしておらず、撤退時には先頭と最後尾を入れ替えて、道中の見落としを確認したという。
槙野は、そのやり取りを見ながら別のチャンネルを開いた。
#報告書の書き方。
固定投稿を編集する。
【追加】
・ボス部屋、扉、広場、階層境界らしき場所は安全地帯と扱わない。
・到達記念の撮影、接触、採取は、床、壁、扉、柱、周辺構造の確認後に判断する。
・帰路の水、ライト、盾、足の状態に不安がある場合は突入しない。
・突入しなかった理由は成果として記録する。
保存してから、続いて#装備と返却に移る。
『盾ベルト破損の報告がありました。二層以降は、盾本体より固定具の消耗報告を重視してください。メーカー名の晒し上げは禁止。型番、使用回数、破損箇所、活動時間で共有してください』
数分後、#契約こわいにも投稿が来た。
『二層ボス前まで行ったって書いたら、装備メーカーっぽいアカウントからDM来ました。「無償提供するので次回ボス戦で使用してレビュー」って。受けない方がいいですか?』
槙野は、額に手を当てた。
来た、と思った。
ハウンド・スリーの四層攻略以降、企業の動きは明らかに速くなっている。アメリカほどではないにしても、日本でも装備メーカー、動画関係、保険関係、研究協力の名目を持った連絡が増えていた。
相手が善意とは限らないが、悪意とも限らない。ただ、契約文はだいたい探索者より厄介だ。
『その場で返事しないでください。契約書、依頼文、提供条件、レビュー義務、事故時の責任、撮影範囲、使用後の返却条件を確認してください。スクリーンショットを個人情報部分だけ伏せて、#契約こわい へ。危ない場合は制度側か専門家へ回します』
送信すると、すぐに別の利用者が書く。
『ギルドっぽくなってきた』
『槙野さん、もうこれギルドでは?』
『二層ボス部屋前まで行った人がいて、装備相談があって、契約相談があって、撤退報告が評価される。ギルドじゃん』
槙野は目を細めた。
その言葉は嫌いではない。むしろ、本音では好きだった。だが、好きだからこそ、表では否定する必要がある。
『うちはギルドではありません。仮登録者互助会準備会です。探索の斡旋、戦利品売買、危険行為の募集は禁止です』
『でもギルド名募集チャンネルありますよね』
『ありますが、息抜きです』
『息抜きにしては固定投稿が多い』
『息抜きです』
少し笑いが起きた。
その軽さは悪くなかった。重くなりすぎる場所には人が長くいられないし、軽くなりすぎれば人が死ぬ。槙野が見ているのは、その間だった。
通知欄に、また石橋の追記が出た。
【追記】
扉前で引き返す時、メンバーの一人が「ここまで来たのに」と言った。
別の一人が「ここまで来たから帰れるうちに帰る」と返した。
その言葉で撤退が決まった。
この言い方は使えると思ったので共有。
槙野は、その追記を見て、しばらく動きを止めた。
短い言葉だったが、強かった。
ここまで来たのに。
ここまで来たから。
たった一文字違うだけで、判断が変わる。深く行きたい人間を止めるには、理屈だけでは足りない時がある。短く、口に出せて、仲間が受け取れる言葉がいる。
槙野は、その追記を#撤退報告の固定候補へ入れた。
【共有句】
「ここまで来たのに」ではなく、「ここまで来たから帰れるうちに帰る」
数秒後、反応が一気に増えた。
いいね、助かった、使う、これ大事、うちの班にも貼る。そうした短い反応が並んでいくのを眺めながら、槙野はようやく冷めかけたコーヒーを飲んだ。
苦いが、悪くない。
オンライン一覧の端に、見慣れた表示名があった。
見学中。
この準備会ではほとんど発言しない利用者だが、槙野はそれが誰なのかを知っている。
戸張。
ただし、その名を準備会の中で出すつもりはなかった。本人が見学中という表示名で参加している以上、槙野がそれを崩す理由はない。規約違反をしているわけでも、危険な誘導をしているわけでもない。むしろ、戸張が静かに見ていること自体が、この場所の温度を測る材料にもなっていた。
槙野は、オンライン表示を一瞥しただけで、すぐに全体告知へ戻った。
【告知】
二層ボス部屋前への到達報告がありました。
繰り返しますが、ボス部屋前は安全地帯ではありません。
扉、床、柱、壁、音、光、体調変化を確認し、帰路の余力がない場合は突入しないでください。
突入しない判断は、失敗ではありません。
報告テンプレートを更新しました。
企業、メーカー、配信関係、研究協力などの連絡が来た場合、その場で返事をしないでください。
うちはギルドではありません。
まず、生きて戻る話から始めましょう。
投稿すると、しばらくして誰かが書いた。
『でも、二層ボス前まで来たんだな』
その一文に、今度は槙野もすぐには注意を入れなかった。
事実だった。
仮登録者互助会準備会は、最初、何を報告すればいいのかも分からない人間たちの集まりだった。装備の返し方、管理窓口への聞き方、撤退報告の書き方、企業DMの断り方、怪我の記録、体調変化。そういう地味な話ばかりを積み上げてきた。
その積み上げが、二層の奥まで届いた。
ボスを倒したわけではないし、回収品を持ち帰ったわけでもない。それでも、扉の前まで行き、扉に触れず、床に入らず、写真も諦めて、全員で戻った。
それは、十分に成果だった。
槙野は、誰にも見えない場所で小さく笑った。
「……準備会、なんだけどな」
画面の中では、まだ#ギルド名募集が動いている。誰かがまた変な名前を提案し、別の誰かが、それは役所に怒られると返している。
その下では、#撤退報告に石橋たちの記録が固定され、#契約こわいに企業DMの相談が並び、#報告書の書き方には新しいテンプレートが追加されていた。
派手な旗はない。受付嬢もいない。依頼掲示板も、戦利品カウンターもない。
それでも、そこには少しずつ、探索者が戻ってくるための形ができ始めていた。
槙野は、冷めたコーヒーをもう一口飲み、次の通知を開いた。
今度は、別の班からだった。
【相談】
二層扉前報告を読んで、次回から撤退基準を班内で決めておきたいです。項目案ありますか?
槙野は、口元を引き締めた。
忙しくなる。けれど、悪い忙しさではない。
ボスを倒すためではなく、扉の前で戻るための忙しさだった。
その時、個別メッセージの通知が一つだけ浮かんだ。
差出人は、見学中。
槙野は、少しだけ姿勢を正した。
公開チャンネルではほとんど動かない戸張が、直接メッセージを送ってくることは珍しい。雑談ではないと、開く前から分かった。
『槙野さん。亀山さんと槙野さんに、伝えておくべきことがあります。時間を取れますか』
槙野は、画面の文字を見たまま、しばらく動かなかった。
さっきまで準備会の成長を眺めていた場所に、別の重さが落ちてくる。
戸張が、亀山の名前まで出している。
それだけで、ただの相談ではないと分かった。
槙野は、冷めたコーヒーを机に置き直し、返信欄へ指を置いた。




