第182話 裏ボス
日曜日の昼過ぎ、俺は実家の門扉の前で、駅前で買った菓子折りの紙袋を持ち直した。
来ようと思えば、もっと早く来られた。会社を辞めた時点で一度は連絡するべきだったし、探索者として登録した時にも、せめて電話くらいは入れるべきだった。
後回しにしているうちに話す内容が増え、増えすぎた結果、全部を話せないことにも気づいた。
結局、話せることだけを整理して、日曜日に実家へ帰ることにした。平日よりも父がいる可能性が高いし、何より母が「なんで平日に来たの」と別の方向から詰めてくる危険がある。
俺は呼び鈴を押した。
しばらくして、玄関の奥から足音が近づいてくる。
「はいはい」
扉が開き、母が顔を出した。
俺の顔を見て、次に手元の紙袋を見た。
「あら」
「久しぶり」
「日曜に菓子なんか持って帰ってくるなんて、何かやった顔だね」
第一声がそれだった。
「まだ何も言ってないんだけど」
「言う前から分かることもあるのよ」
母は肝が据わっている。昔からそうだった。
近所の犬が庭に入り込んできても、台所の戸棚が落ちても、父が健康診断の結果を隠そうとしても、母は大体同じ調子で処理してきた。
玄関に入った時点で、今日の相手を少し見誤っていたことに気づき始めた。
居間に入ると、父がテレビの前に座っていた。日曜の情報番組が流れていたが、俺を見るとリモコンで音量を下げる。
「来たのか」
「うん」
父はそれだけ言って、湯呑みを持ったまま黙った。
相変わらず口数が少ない。会社を辞めた話をするなら、父の方が重い反応をするだろう。そう思って、正面に座る父を見ながら少しだけ背筋を伸ばす。
母は台所から茶を持ってきて、俺の前に置いた。
「で、何」
「早いな」
「菓子を持って日曜に来た三十歳の息子が、世間話だけして帰るわけないでしょ」
逃げ道がなかった。
俺は茶に手をつけず、口を開いた。
「会社、辞めた」
父の眉が少しだけ動いた。
母は動かなかった。
「いつ」
「少し前」
「少しってどれくらい」
「……しばらく」
「あんたの『しばらく』は信用できないね」
母の声は荒くない。逃がす気もない。
「有給消化して、そのまま退職した」
「先に言いなさいよ」
「それは、悪かった」
「悪かったで済む年だけど、悪かったで済ませていい話じゃないでしょ」
「はい」
思ったより早く謝罪の姿勢に入っていた。
父はまだ黙っている。
俺は続けた。
「今は、異常空間民間調査員として登録してる。世間で言う探索者」
そこで父が口を開いた。
「ニュースでやってる、あれか」
「あれ」
「危ないやつだな」
「危ない」
安全だとは言えなかった。言えば嘘になる。
「ただ、違法なことをしてるわけじゃない。登録証もある。国の窓口とも連絡を取ってる」
財布から登録証を出して、テーブルの上に置いた。
父が手を伸ばすより先に、母が取った。動きが速い。父の手が途中で止まった。
母は登録証を両手で持ち、眼鏡をかけてじっと見る。
「五級」
「最初は五級から」
「五級って下から?」
「下から」
「じゃあ初心者じゃない」
「制度上は」
「制度上は、ね」
その言い方で、背中が少し伸びた。
母は登録証を父に渡した。父は無言でそれを見て、俺に返す。
「食べていけるのか」
父が聞いた。
「素材の買い取りとか、活動に応じた支払いはある。まだ安定してるとは言いにくいけど、しばらくは大丈夫」
「保険は?」
母がすぐに続く。
「切り替えた」
「年金は」
「手続きした」
「住民税は」
「来るのは分かってる」
「確定申告は」
「それは、これから調べる」
母の眉間に皺が寄った。
俺は先に言い直した。
「やる」
「そう」
短い返事だったが、今ので一つだけ命拾いした気がした。
「怪我した時は」
「登録者向けの窓口がある」
「家には」
「長く連絡が取れなかったら、ここに問い合わせて」
俺は一般窓口の連絡先を書いた紙を出した。
母はそれを受け取り、しばらく見た。
「長くってどれくらい」
「一週間以上」
「長い」
「定期的に連絡を入れる決まりはある」
「こっちには?」
「……入れる」
「週に一回」
「努力する」
「入れる」
「入れる」
母は紙を折り、食器棚の小さな引き出しに入れた。
昔からそこには、保証書、病院の診察券、予備の電池、使わなくなった鍵などが入っている。俺の連絡先も、その中に収まった。
妙に生活感のある場所だった。
「好きでやってるのか」
父が言った。
俺は少しだけ黙った。
「うん」
「会社が嫌で逃げたんじゃなくてか」
「会社への不満もあった。理由は、それだけじゃない」
「そうか」
父はそれ以上聞かなかった。
その代わり、母が湯呑みを置いた。
「あんた、昔から変な所でブレーキが壊れる所があるからねえ」
「人を故障車みたいに言うなよ」
「似たようなものでしょ。普段は妙に冷めた顔してるくせに、変なところで急に止まらなくなる」
「そんなことあった?」
「あったよ。小学生の時も、川沿いをどこまで行けるか試すとか言って、夕方まで帰ってこなかったでしょ」
「それは……まあ」
「中学の時も、急に古い自転車を分解して、戻せなくなって玄関に部品を広げた」
「あれは最終的に戻した」
「三日かけてね」
母の記憶力が余計な方向に良すぎる。
父は黙って茶を飲んでいるが、否定してくれる気配はない。
「早く家庭持って落ち着いてくれるのを願ってたんだけどねえ」
「そこに行く?」
「行くよ。親なんだから」
「今は会社を辞めた話と探索者の話をしてるんだけど」
「だからまとめて言ってるんでしょ」
まとめないでほしい。
「それで、結婚は?」
「そこ、今聞く?」
「聞くでしょ。会社辞めました、危ない仕事始めました、じゃあ次に聞くのはそこでしょう」
「順番おかしくない?」
「おかしくない。親ってそういうものよ」
俺は父の方を見た。
助け舟は出なかった。父は湯呑みを見ている。
「結婚は……いい相手がいれば、おいおい……」
母は返事の代わりに、長く息を吐いた。
それだけで、俺は姿勢を少し正した。
「孫の顔も見たいしねえ」
「さらに重い」
「妹があんな感じだからねえ。あんたまで変な方向に走ると、うちはどうなるんだか」
「妹を俺の報告に混ぜるなよ」
「混ざるでしょ。うちの話なんだから」
「本人がいないところで巻き込まれてるんだけど」
「あの子はいたらいたで、もっと面倒なこと言うよ」
たぶん当たっている。
詳しく考えると別の疲れ方をしそうだったので、俺は茶を飲んでごまかした。
母はまだ言い足りなさそうだったが、そこで父が湯呑みを置いた。
「透」
「何」
「前より、いい顔するようになったぞ」
それだけ言って、父はまた黙った。
俺は少し返事に困った。褒められたのか、心配されたのか、判断が難しい。
母が横から言う。
「お父さん、あれでも安心したんだよ。会社に行ってた頃のあんた、もっと変な顔してたからね」
「変な顔って何」
「疲れてるのに、疲れてないふりしてる顔、ふらっとどこかに消えそうな感じ」
それは少しだけ刺さった。
会社にいた頃、自分がどんな顔をしていたのか、俺自身はあまり覚えていない。覚えていないということは、たぶん見ようとしていなかったのだろう。
「まあ、反対はするよ」
母は言った。
「するんだ」
「するよ。危ない仕事なんだから」
「そこは分かってる」
「それでも、あんたはもう子供じゃないからね。止めても聞かない時は聞かないだろうし」
「聞く時もある」
「こういう時は聞かない」
断定された。
耳が痛い。
「だから、せめて連絡はしなさい。ご飯は食べなさい。怪我を隠しなさんな。あと、いい人がいたら連れてきなさい」
「最後だけ種類が違う」
「全部同じよ。親が心配すること」
母はそう言って立ち上がり、台所へ向かった。
しばらくして戻ってきた時には、紙袋を二つ持っていた。
「何これ」
「持っていきなさい」
中を見ると、レトルト食品、インスタント味噌汁、湿布、胃薬、絆創膏、使いかけではない新品のタオルまで入っていた。
「多くない?」
「少ないくらい」
「俺、旅行に行くわけじゃないんだけど」
「危ない所に行くんでしょう。持てるだけ持っていきなさい」
「荷物になる」
「三十の男がこのくらい持てなくてどうするの」
正論の形をした力技だった。
俺は結局、何も返せず紙袋を受け取った。
帰る頃には、持ってきた菓子折りよりも、持たされた荷物の方が明らかに多くなっていた。
玄関で靴を履いていると、母が後ろから言った。
「ちゃんと連絡しなさいよ」
「する」
「あと、いい人がいたら」
「それは保証できない」
「探す努力くらいしなさい」
「努力目標で」
また溜息を吐かれた。
父は玄関先で、黙って片手を軽く上げた。俺も同じように手を上げる。
「また来る」
「ああ」
父の返事は短かった。
少なくとも、追い返されたわけではない。
門扉を出て、少し歩いたところで振り返る。日曜日の住宅街は静かだった。どこかの家から夕飯の匂いがして、遠くで子供の声が聞こえる。実家の玄関はもう閉まっていて、そこだけが妙に普通だった。
精神は削れた。かなり削れた。
削られた分だけ、少し気持ちは軽くなった気もする。
荷物を持ち直した時、袖口に小さな白い虫のようなものが止まっているのに気づいた。
普通の羽虫にしては色が白すぎる、保険は必要か。
俺は指で払うふりをして、それを袖の外側へ放った。
「……挨拶しに来たわけじゃないよな」
返事はない。
細いものが一度だけ動き、それきり静かになった。
俺はもう一度だけ実家の方を見てから、駅へ向かって歩き出した。




