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寄生虫と行く現代ダンジョン  作者: 脳タリン


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182/422

第182話 裏ボス


 日曜日の昼過ぎ、俺は実家の門扉の前で、駅前で買った菓子折りの紙袋を持ち直した。

 来ようと思えば、もっと早く来られた。会社を辞めた時点で一度は連絡するべきだったし、探索者として登録した時にも、せめて電話くらいは入れるべきだった。

 後回しにしているうちに話す内容が増え、増えすぎた結果、全部を話せないことにも気づいた。

 結局、話せることだけを整理して、日曜日に実家へ帰ることにした。平日よりも父がいる可能性が高いし、何より母が「なんで平日に来たの」と別の方向から詰めてくる危険がある。

 俺は呼び鈴を押した。

 しばらくして、玄関の奥から足音が近づいてくる。


「はいはい」


 扉が開き、母が顔を出した。

 俺の顔を見て、次に手元の紙袋を見た。


「あら」

「久しぶり」

「日曜に菓子なんか持って帰ってくるなんて、何かやった顔だね」


 第一声がそれだった。


「まだ何も言ってないんだけど」

「言う前から分かることもあるのよ」


 母は肝が据わっている。昔からそうだった。

 近所の犬が庭に入り込んできても、台所の戸棚が落ちても、父が健康診断の結果を隠そうとしても、母は大体同じ調子で処理してきた。

 玄関に入った時点で、今日の相手を少し見誤っていたことに気づき始めた。

 居間に入ると、父がテレビの前に座っていた。日曜の情報番組が流れていたが、俺を見るとリモコンで音量を下げる。


「来たのか」

「うん」


 父はそれだけ言って、湯呑みを持ったまま黙った。

 相変わらず口数が少ない。会社を辞めた話をするなら、父の方が重い反応をするだろう。そう思って、正面に座る父を見ながら少しだけ背筋を伸ばす。

 母は台所から茶を持ってきて、俺の前に置いた。


「で、何」

「早いな」

「菓子を持って日曜に来た三十歳の息子が、世間話だけして帰るわけないでしょ」


 逃げ道がなかった。

 俺は茶に手をつけず、口を開いた。


「会社、辞めた」


 父の眉が少しだけ動いた。

 母は動かなかった。


「いつ」

「少し前」

「少しってどれくらい」

「……しばらく」

「あんたの『しばらく』は信用できないね」


 母の声は荒くない。逃がす気もない。


「有給消化して、そのまま退職した」

「先に言いなさいよ」

「それは、悪かった」

「悪かったで済む年だけど、悪かったで済ませていい話じゃないでしょ」

「はい」


 思ったより早く謝罪の姿勢に入っていた。

 父はまだ黙っている。

 俺は続けた。


「今は、異常空間民間調査員として登録してる。世間で言う探索者」


 そこで父が口を開いた。


「ニュースでやってる、あれか」

「あれ」

「危ないやつだな」

「危ない」


 安全だとは言えなかった。言えば嘘になる。


「ただ、違法なことをしてるわけじゃない。登録証もある。国の窓口とも連絡を取ってる」


 財布から登録証を出して、テーブルの上に置いた。

 父が手を伸ばすより先に、母が取った。動きが速い。父の手が途中で止まった。

 母は登録証を両手で持ち、眼鏡をかけてじっと見る。


「五級」

「最初は五級から」

「五級って下から?」

「下から」

「じゃあ初心者じゃない」

「制度上は」

「制度上は、ね」


 その言い方で、背中が少し伸びた。

 母は登録証を父に渡した。父は無言でそれを見て、俺に返す。


「食べていけるのか」


 父が聞いた。


「素材の買い取りとか、活動に応じた支払いはある。まだ安定してるとは言いにくいけど、しばらくは大丈夫」

「保険は?」


 母がすぐに続く。


「切り替えた」

「年金は」

「手続きした」

「住民税は」

「来るのは分かってる」

「確定申告は」

「それは、これから調べる」


 母の眉間に皺が寄った。

 俺は先に言い直した。


「やる」

「そう」


 短い返事だったが、今ので一つだけ命拾いした気がした。


「怪我した時は」

「登録者向けの窓口がある」

「家には」

「長く連絡が取れなかったら、ここに問い合わせて」


 俺は一般窓口の連絡先を書いた紙を出した。

 母はそれを受け取り、しばらく見た。


「長くってどれくらい」

「一週間以上」

「長い」

「定期的に連絡を入れる決まりはある」

「こっちには?」

「……入れる」

「週に一回」

「努力する」

「入れる」

「入れる」


 母は紙を折り、食器棚の小さな引き出しに入れた。

 昔からそこには、保証書、病院の診察券、予備の電池、使わなくなった鍵などが入っている。俺の連絡先も、その中に収まった。

 妙に生活感のある場所だった。


「好きでやってるのか」


 父が言った。

 俺は少しだけ黙った。


「うん」

「会社が嫌で逃げたんじゃなくてか」

「会社への不満もあった。理由は、それだけじゃない」

「そうか」


 父はそれ以上聞かなかった。

 その代わり、母が湯呑みを置いた。


「あんた、昔から変な所でブレーキが壊れる所があるからねえ」

「人を故障車みたいに言うなよ」

「似たようなものでしょ。普段は妙に冷めた顔してるくせに、変なところで急に止まらなくなる」

「そんなことあった?」

「あったよ。小学生の時も、川沿いをどこまで行けるか試すとか言って、夕方まで帰ってこなかったでしょ」

「それは……まあ」

「中学の時も、急に古い自転車を分解して、戻せなくなって玄関に部品を広げた」

「あれは最終的に戻した」

「三日かけてね」


 母の記憶力が余計な方向に良すぎる。

 父は黙って茶を飲んでいるが、否定してくれる気配はない。


「早く家庭持って落ち着いてくれるのを願ってたんだけどねえ」

「そこに行く?」

「行くよ。親なんだから」

「今は会社を辞めた話と探索者の話をしてるんだけど」

「だからまとめて言ってるんでしょ」


 まとめないでほしい。


「それで、結婚は?」

「そこ、今聞く?」

「聞くでしょ。会社辞めました、危ない仕事始めました、じゃあ次に聞くのはそこでしょう」

「順番おかしくない?」

「おかしくない。親ってそういうものよ」


 俺は父の方を見た。

 助け舟は出なかった。父は湯呑みを見ている。


「結婚は……いい相手がいれば、おいおい……」


 母は返事の代わりに、長く息を吐いた。

 それだけで、俺は姿勢を少し正した。


「孫の顔も見たいしねえ」

「さらに重い」

「妹があんな感じだからねえ。あんたまで変な方向に走ると、うちはどうなるんだか」

「妹を俺の報告に混ぜるなよ」

「混ざるでしょ。うちの話なんだから」

「本人がいないところで巻き込まれてるんだけど」

「あの子はいたらいたで、もっと面倒なこと言うよ」


 たぶん当たっている。

 詳しく考えると別の疲れ方をしそうだったので、俺は茶を飲んでごまかした。

 母はまだ言い足りなさそうだったが、そこで父が湯呑みを置いた。


「透」

「何」

「前より、いい顔するようになったぞ」


 それだけ言って、父はまた黙った。

 俺は少し返事に困った。褒められたのか、心配されたのか、判断が難しい。

 母が横から言う。


「お父さん、あれでも安心したんだよ。会社に行ってた頃のあんた、もっと変な顔してたからね」

「変な顔って何」

「疲れてるのに、疲れてないふりしてる顔、ふらっとどこかに消えそうな感じ」


 それは少しだけ刺さった。

 会社にいた頃、自分がどんな顔をしていたのか、俺自身はあまり覚えていない。覚えていないということは、たぶん見ようとしていなかったのだろう。


「まあ、反対はするよ」


 母は言った。


「するんだ」

「するよ。危ない仕事なんだから」

「そこは分かってる」

「それでも、あんたはもう子供じゃないからね。止めても聞かない時は聞かないだろうし」

「聞く時もある」

「こういう時は聞かない」


 断定された。

 耳が痛い。


「だから、せめて連絡はしなさい。ご飯は食べなさい。怪我を隠しなさんな。あと、いい人がいたら連れてきなさい」

「最後だけ種類が違う」

「全部同じよ。親が心配すること」


 母はそう言って立ち上がり、台所へ向かった。

 しばらくして戻ってきた時には、紙袋を二つ持っていた。


「何これ」

「持っていきなさい」


 中を見ると、レトルト食品、インスタント味噌汁、湿布、胃薬、絆創膏、使いかけではない新品のタオルまで入っていた。


「多くない?」

「少ないくらい」

「俺、旅行に行くわけじゃないんだけど」

「危ない所に行くんでしょう。持てるだけ持っていきなさい」

「荷物になる」

「三十の男がこのくらい持てなくてどうするの」


 正論の形をした力技だった。

 俺は結局、何も返せず紙袋を受け取った。

 帰る頃には、持ってきた菓子折りよりも、持たされた荷物の方が明らかに多くなっていた。

 玄関で靴を履いていると、母が後ろから言った。


「ちゃんと連絡しなさいよ」

「する」

「あと、いい人がいたら」

「それは保証できない」

「探す努力くらいしなさい」

「努力目標で」


 また溜息を吐かれた。

 父は玄関先で、黙って片手を軽く上げた。俺も同じように手を上げる。


「また来る」

「ああ」


 父の返事は短かった。

 少なくとも、追い返されたわけではない。

 門扉を出て、少し歩いたところで振り返る。日曜日の住宅街は静かだった。どこかの家から夕飯の匂いがして、遠くで子供の声が聞こえる。実家の玄関はもう閉まっていて、そこだけが妙に普通だった。

 精神は削れた。かなり削れた。

 削られた分だけ、少し気持ちは軽くなった気もする。

 荷物を持ち直した時、袖口に小さな白い虫のようなものが止まっているのに気づいた。

 普通の羽虫にしては色が白すぎる、保険は必要か。

 俺は指で払うふりをして、それを袖の外側へ放った。


「……挨拶しに来たわけじゃないよな」


 返事はない。

 細いものが一度だけ動き、それきり静かになった。

 俺はもう一度だけ実家の方を見てから、駅へ向かって歩き出した。


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