第181話 四秒差の意味
模擬戦の映像が自衛隊の特殊部隊へ共有されたのは、戸張との暫定協力案が正式に承認された翌日だった。
閲覧できるのは、異常空間対応へ関わる一部の隊員と指揮官に限られ、映像の複製や持ち出しは認められていない。視聴に使われた端末も外部回線から切り離され、終了後には記録媒体ごと回収される。
講義室に集められた十六名は、それぞれ射撃、近接戦闘、爆破、通信、潜入、衛生、監視などに得意分野を持っていたが、一つの役割だけを担う要員ではなかった。指揮や通信を失った状況でも、目の前の情報から任務の目的を組み直し、必要であれば他人の役割まで引き継いで行動を続ける。それだけの技能と判断力を持つ者が選ばれている。
映像が終わり、照明が戻っても、教育を担当する幹部はすぐには口を開かなかった。
隊員たちが手元の記録をまとめ終えるのを待ち、一人を指名する。
「選抜側をどう評価する」
「準備した地形と装備を使い、対象へ九発の命中を取り、一時的な拘束まで成立させています。途中で拘束を諦め、目標地点への到達を遅らせる方針へ変更した判断も妥当です」
「問題は」
「指揮官の判断に依存しすぎています。戸張氏が予想外の対応をしたあと、各班が次の指示を待つ時間がありました。その間にも、対象は状況を更新しています」
別の隊員が、拘束を試みた場面について補足した。
「拘束班は、最初に与えられた目的を最後まで維持しようとして人員を追加しています。しかし、密集すること自体が反撃を受ける条件へ変わった時点で、一人でも接近を中止するべきでした」
「命令に反することになるが」
「手順を守ることが目的ではありません。拘束の成立が任務であっても、その手段が失敗を拡大すると判断したなら、現場で捨てる必要があります」
この場にいる隊員へ求められているのは、最初に決めた動きを最後まで再現することではない。通信が途絶え、指揮官が倒れ、計画が最初の接触で崩れることも任務の前提に含まれている。
誰かの許可を待たなければ行動を変えられない者は、単独になった時点で機能を失う。隊員一人ずつが、目的を見失わない範囲で判断を更新し、その異なる判断を最終的に同じ任務へ収束させる必要があった。
幹部は別の者へ視線を向ける。
「戸張氏については」
「身体能力や能力の種類より、判断の更新が速いことの方が問題です。一度目に通じた手段が二度目には通じないと分かった時、同じ方法へ固執していません。風で盾を崩せなければ上を越え、放電が捕縛具へ通じなければ相手との距離を詰めています」
「高出力を使えなかっただけとも考えられる」
「その可能性はあります。ただし、戸張氏は人間を負傷させないという制限を、単なる不利として受けていません。その条件の中で使える手段を選び直しています」
戸張は能力を制限されたから苦戦しただけではない。人間を壊さず、決められた勝利条件を満たすという状況そのものを受け入れ、相手の装備や姿勢、動きを利用して目的へ近づいている。
一つの能力を対策しても、判断する力まで封じることはできない。
別の隊員が、資料の末尾に記された注意事項へ目を向けた。
「未申告能力の使用なしとあります。映像に出ている能力だけでも複数あり、本人が使わなかった手段の数も分かりません。四秒差という結果を、制圧できる可能性の根拠にはできないと思います」
「では、その四秒をどう見る」
「選抜側が弱くないことの証明です。同時に、戸張氏が最後まで安全条件を守り、相手を殺傷せず、決められた目的から外れなかったことの証明でもあります」
さらに別の隊員が続ける。
「実戦なら、残り四秒という状況自体が成立しません。戸張氏は目標地点へ進む必要も、判定装置へ触れる必要もない。こちらの人数を減らしてから行動してもいいわけですから」
講義室の空気は重かったが、戸張を恐れて言葉を失っているわけではない。
映像に映った選抜要員の動きは、一般的な基準で見れば十分に高度であり、準備と連携が強化された人間にも一定の効果を持つことを示していた。
だからこそ、そこから先の差も見えた。
装備や地形で時間を稼ぐことはできる。既知の能力なら対策も可能だ。しかし、相手との身体能力の差がさらに広がれば、戦術を実行するための時間そのものが得られなくなる。
幹部は模擬戦の評価資料を閉じ、別の文書を表示した。
今後半年間に予定されていた異常空間対応訓練の一覧だった。閉所での隊形移動、複数方向からの接敵、通信断を想定した指揮継承、未知生物の拘束、負傷者の回収。人工施設と低層の異常空間を使い、段階的に難度を上げていく計画になっている。
「今後の訓練予定については、すべて白紙に戻す」
予定の一部を変更するという言い方ではなかったため、隊員たちの視線が一斉に画面へ向いた。
「現在組まれている課程を、そのまま進めることはしない。撤退、救護、通信を失った場合の対応、装備の点検と管理については、現存する知識と技能を失わないための維持を続ける。それ以上の訓練様式を、今の身体能力に合わせて完成させる方針は撤回する」
「理由は、戸張氏ですか」
「戸張氏が、最も分かりやすい例になったというだけだ。異常空間での活動を重ねた者に身体能力の変化が起きることは、すでに複数の記録から確認されている」
筋力、持久力、反応速度、感覚、回復力。変化の現れ方には個人差があり、討伐数や階層との関係も完全には整理されていないが、戦い続けた者が以前と同じ身体ではなくなることは分かっている。
移動速度が大きく変われば隊形の間隔も変わり、反応速度が上がれば合図の出し方も変わる。現在は複数人で運んでいる装備を一人で携行できる者が現れれば、輸送や配置の前提も崩れる。負傷者を単独で抱えて高速で離脱できるなら、救護と撤退の手順も作り直さなければならない。
戸張のように視界外の動きへ反応できる者が含まれれば、警戒配置や死角という考え方すら、現在のものをそのまま使えるとは限らなかった。
「今の身体を前提に訓練様式を固めても、能力が上がった時点で全面的な組み直しになる。場合によっては、身につけた型が強化後の動きを縛ることもある」
一人の隊員が、数か月先まで埋まった予定表を見た。
「これまで作った計画は、無駄だったということですか」
「現在の人間が、現在確認されている低層で戦うなら意味はある。だが、我々が必要としているのは、そこだけで通用する部隊ではない」
幹部は、六層で確認された四本腕の猿に関する資料を開いた。
通常の人間が正面から戦闘を成立させること自体が難しく、現在の装備と戦術だけで安定して討伐できるという見通しは立っていない。
「正しい判断をしても、相手の動きを捉えられなければ避けられない。急所が分かっていても、攻撃を通す力がなければ倒せない。戦術や装備で埋められる差には、いずれ限界が来る」
「六層へ到達するまでは、本格的な訓練体系を作らないということですか」
「少なくとも、六層へ立てる人員の能力を確認するまでは、完成形を固定しない」
現時点で、国側が把握している最も深い実戦情報は六層だった。戸張がそこで生存し、複数の大型生物を倒している以上、将来的な戦力を現在の身体能力だけで設計すること自体が間違っている。
幹部は予定表を閉じ、管理下にある異常空間と、そこで確認されている生物の一覧を表示した。
「これから優先するのは、訓練体系を作ることではない。討伐だ」
実際に異常空間へ入り、生物を倒し、討伐の前後で身体能力、感覚、疲労、回復、判断への影響を記録する。変化が大きい者や、高階層へ適応する可能性がある者を選び、段階的に深い層へ進ませる。
全員を同じ水準へ引き上げる必要はなく、それが可能かどうかも分かっていない。観測、救護、輸送、通信を担う者まで、戸張と同じ身体能力を持つ必要もなかった。
それでも、正面で高階層の生物を止められる者が一人もいなければ、ほかの役割も成立しなくなる。
「全員が戸張氏になる必要はない。しかし、少数でも同じ戦場へ立てる者を作らなければ、今後は国を守れない」
高階層の生物へ対応できる者が戸張一人しかいない体制では、防衛とは呼べない。別の地域で同規模の異常が起きた時、戸張が来るまで何もできず、本人が協力を断る、負傷する、国外にいるというだけで対応能力そのものが失われる。
一人の民間人を、国家の最後の手段として扱い続けることはできなかった。
「人工施設で予定していた応用訓練、現在の身体能力を前提にした複雑な隊形運用、役割別の専門課程は中止する。撤退、救護、通信断、装備管理については、現存する知識を忘れないための維持に留める」
「作り直す時期は」
「六層へ到達できる人員が生まれ、その身体能力と感覚を測定したあとだ」
その時点で初めて、一人が担当できる範囲、味方との安全距離、武器を振るうために必要な空間、移動速度に合わせた集合方法、強化された者と通常の隊員をどう配置するかを決める。
現在予定されていた内容とは、前提から異なる体系になる可能性が高かった。
後方の隊員が、六層生物の資料へ目を向ける。
「戸張氏が利用している異常空間へ、こちらの人員を入れる案はありますか」
「現時点ではない。入口も場所も開示されておらず、それ以前に、今の能力で六層へ人員を送ることは認められない」
幹部は一度言葉を切り、戸張との協力案に関する資料を開いた。
「ただし、討伐による育成が行き詰まった場合や、高階層へ進むために何が不足しているか判断できなくなった場合には、戸張氏へ協力を求める必要がある」
「討伐への同行ですか」
「それも選択肢の一つだが、六層へ案内させるという話ではない。国側が管理する異常空間で隊員の戦闘を見てもらい、次の階層へ進ませてよいか、何が不足しているかについて意見を求める方法もある。本人が六層へ至るまでに何を経験し、どの段階で身体の変化を感じたのかも、確認する価値がある」
戸張は政府の教官でも、命令を受ける隊員でもない。協力を求めるなら目的と条件を示し、拘束時間や危険性に見合う対価を提示したうえで、本人の判断を仰ぐ必要がある。
「断られた場合は」
「それまでだ。合意上、参加を強制することはできない。ただし、必要性が高まれば正式に依頼する」
別の隊員が、資料に添付されていた装備の画像を指した。
四本腕の猿から得られた素材を使った腕当てと帯。皮膚と腱の性質を利用し、荷重が分散するよう加工された品だった。
「戸張氏が持ち込んだ装備について、詳しい情報はありますか」
「製作者、加工場所、使用した工具は開示されていない。非破壊検査の範囲では軽量で、引き裂きと衝撃に強い。熱や薬品への耐性は確認中だ」
「同じ装備を、戸張氏本人から購入できないか打診するべきだと思います」
幹部は否定せず、その理由を求めた。
「強化後の訓練体系を今決められなくても、装備が討伐と成長へ与える効果は確認できます。素材だけを受け取っても、こちらには同じ形へ加工する技術がない。完成品を購入できれば、異常空間内で防護性能、可動性、長時間使用時の負担を試せます」
別の隊員も意見を加えた。
「六層素材の装備で負傷率を下げられれば、討伐を継続できる回数が増え、より深い階層へ進める可能性があります。身体能力を高めることを優先するなら、その過程を支える装備の効果も早い段階で知るべきです」
「製作者や加工場所の開示は求めず、完成品そのものへ対価を支払う形なら、戸張氏も応じやすいかもしれません」
「数量を求めすぎれば、供給元の規模を探っていると受け取られる可能性があります。最初は一式か二式で十分です」
研究施設内で素材の強度を測るだけでは、戦闘中にどこまで動きを妨げず、汗や水分、衝撃の反復へ耐えられるかまでは分からない。身体能力が上がった隊員が使用した場合、現在の装備では想定されていない速度や負荷へ耐えられるかも、いずれ確認する必要がある。
「購入については、研究部門と運用側の連名で要望を上げる。連絡は専用窓口を通し、製作者や入口の開示を条件にはしない。価格もこちらで一方的に決めず、本人の希望と希少性を踏まえて交渉する」
戸張から得られる情報や素材を、無償の協力として扱う段階ではなくなっていた。情報には情報の、素材には素材の、装備には装備の対価を支払わなければ、継続的な関係は作れない。
幹部は最後に、全員の身体測定、討伐記録、異常空間内での活動履歴をまとめ直すよう指示した。
今日から新しい訓練課程が始まるわけではない。誰をどの異常空間へ送り、どの生物をどの順番で討伐させるか、その前提を作るところからやり直すことになる。
「成長の現れ方には個人差がある。全員を同じ場所へ送り、同じ数を倒させれば済む話ではない。討伐の前後を記録しながら、進ませる階層と役割を一人ずつ調整する」
身体能力の伸びが大きい者、感覚の変化が先に現れる者、持久力や回復力へ偏る者。そのどれが六層で必要になるかも、まだ分かっていない。
今は完成した型を身につけさせる段階ではなく、将来の型を作る基準となる人間を育てる段階だった。
「予定していた訓練は、今日でご破算だ」
幹部は数か月先まで埋まった予定表を消し、代わりに討伐記録の入力画面を表示した。
「六層へ立てる者を先に作る。戦い方を決めるのは、それからだ」




