第179話 同じ側に立てるか
模擬戦後の検査で、訓練を中止するほどの負傷は確認されなかった。
窓枠へ肩をぶつけた隊員には軽い腫れがあり、ネットの下で重なって倒れた三人にも打撲が残っていたが、骨や関節に異常はない。戸張も塗料弾が当たった箇所と捕縛具が締まった足首に赤みがある程度で、本人の申告どおり大きな問題は見つからなかった。
参加者全員の確認が終わると、訓練区域に隣接した講評室へ移動した。
前方の画面には、開始から終了までの映像が複数の角度で表示できるよう準備されている。戸張は選抜要員と同じ長机へ座り、その向かいには三宅一等陸尉、村瀬、訓練設計の担当者が並んだ。
村瀬は訓練場へ到着してから、ほとんど口を開いていない。
映像を見ている間に胃薬を飲んだことだけは、戸張にも気づかれていた。
三宅は各員の検査結果を確認してから、講評を始めた。
「まず、訓練中止の指示が出る事態にはならず、双方とも事前に定めた禁止事項を守った。この点については、目的を達成したと判断します」
画面に、最初の塗料弾が戸張の袖へ当たる場面が映し出された。
「選抜側は、目標が訓練開始へ気づくまでの間に初動を完了できませんでした。入場時点で開始しているという条件を、想定より早く見抜かれています」
受付を通過してから、戸張が監視カメラへ顔を向けるまでの時間が表示される。
訓練設計を担当した職員が、手元の記録を確認した。
「入場から三十八秒です。立ち止まっていた時間を除けば、実際に移動した距離は十五メートルほどでした」
「何で気づいたんですか」
選抜要員の一人が尋ねた。
戸張は映像を見ながら答える。
「開始時刻より早いのに、そのまま中へ通されたことと、入ったあとに説明する人がいなかったことです。条件書にも、区域へ入場した時点で開始と書いてありましたから」
「文字が小さかったと思いますが」
「読まない方が悪いです」
何人かが苦笑した。
真壁は笑わず、映像の次の場面へ目を向けている。
音響装置と煙幕を同時に使い、その中へ拘束用ネットを撃ち込んだところだった。
「最初の投射を避けた判断については」
三宅が尋ねる。
「音ですか。それとも、以前説明された空気の動きですか」
「両方です。音を増やして、発射音を隠そうとしているのは分かりました。逆に、何かを撃つために音を増やしたんだろうと思ったので、来る方向が分からないうちに位置を変えました」
「発射位置までは分かっていなかった?」
「分かりません。あの時は、下がった方向がたまたま良かっただけです」
選抜要員側の記録には、戸張が発射前に反応したと残されている。
ただし、本人の説明どおりなら、攻撃そのものを感知したのではなく、攻撃が来る状況を読んで先に動いたことになる。
どちらが制度側にとって扱いやすいかは、村瀬にも判断できなかった。
映像が進み、戸張の腕へ最初の塗料弾が当たる。
「命中判定は合計九発です」
担当者が報告した。
「うち、上半身が五発、脚部が四発。有効打判定として扱うなら、選抜側は複数回の攻撃機会を成立させています」
「実弾なら、どうなっていたと思いますか」
村瀬が初めて口を開いた。
質問は戸張へ向けられている。
「弾の種類と当たった場所によります」
「今回と同じ位置へ、小銃弾が当たった場合です」
「怪我はすると思います」
「致命傷にはならない?」
戸張は少し考えた。
「今の俺なら、一発で動けなくなることはないと思います。ただ、何発も受けたいとは思いません」
室内の空気が変わった。
映像の中では塗料が付着しただけだったが、同じ命中が実戦でも成立するなら、銃器が完全に無意味というわけではない。
一方で、戸張は小銃弾を受けても行動を続けられる可能性を認めた。
どちらも政府側にとって重要な情報だった。
「今回は、かなり避けることに意識を使いました」
戸張が続ける。
「猿の攻撃なら、一発受けてもそのまま戦える可能性があります。でも、銃は何が壊れるか分からない。人間相手の方が、当たっていい攻撃と悪い攻撃の判断が難しかったです」
三宅が頷き、映像を拘束班が戸張をネットで覆った場面まで進めた。
捕縛棒が両腕へかかり、足首のワイヤーを含めて五人が別方向から力を加えている。
「選抜側が最も拘束へ近づいた場面です。戸張さんは、ここで一度動きを止めています」
「人数を集めたかったので」
戸張は隠さなかった。
「捕まえるためには、最後に誰かが近づくと思っていました。拘束具を壊すだけなら、集まってからの方が、そのあとに触りやすいです」
「触る、というのは有効打判定を取るためですか」
「そうです。実戦なら別のやり方をします」
あえて詳しく説明しない言葉だった。
ネットの中に人員を集めさせ、雷を人体へ直接流す。風で転倒させる。拘束具ごと力で引き倒す。映像で確認された能力だけでも、選べる方法はいくつもある。
戸張はそのどれも使わず、機構だけを止め、姿勢を崩した隊員へ順番に触れていた。
三宅が真壁へ目を向ける。
「選抜側から見て、この時点で拘束は成立していましたか」
「一時的には成立しています。ただし、相手が訓練条件を守り、こちらへ重大な損傷を与える手段を使わなかった結果です」
「実戦なら」
「密集した時点で、こちらが大きな被害を受ける可能性があります」
真壁は淡々と答えた。
「同じ方法を使うなら、接近要員を減らすか、遠隔で拘束を完了する装備が必要です。それでも、能力の全容が不明な相手へ確実に通るとは言えません」
次に、最後の捕縛具が戸張の右腕へかかった場面が映る。
絶縁処理が施された取っ手と機構によって、戸張の放電が通じなかった場面だった。
「ここは選抜側の対策が機能しています」
三宅が説明する。
「一度確認した能力へ、その場で対応した結果です。戸張さんも驚いたように見えますが」
「驚きました。最初に使ったものと同じだと思っていたので」
「そのあと、力で引かなかった理由は」
「真壁さんが手を離さなかったからです。強く引けば転ぶか、肩を痛めると思いました」
真壁は戸張を見た。
「こちらは、あなたが強く引く可能性も考えていた」
「その場合は?」
「手放す予定だった。握ったまま引きずられる訓練ではない」
「そこまで分かっていたら、最初から引いていました」
「だから全部は教えない」
短いやり取りのあと、真壁の口元がわずかに緩んだ。
模擬戦の最終結果は、戸張が制限時間の四秒前に目標へ到達し、選抜側の敗北となっている。
ただし、選抜側は戸張へ九発の命中を記録し、一度は全身に近い拘束を成立させ、最後の捕縛具では明確に移動を止めた。
戸張も政府側の戦術と装備をすべて把握していたわけではなく、事前に分析された能力については対策が可能であることが示された。
訓練設計担当者は、結果をまとめた画面を表示した。
「選抜側が準備した環境へ戸張氏が単独で入り、双方が非殺傷条件に従ったという限定的な結果ですが、現行要員による遅滞と誘導は可能です。一方、確実な拘束や制圧が可能という結論には至りません」
「仮に、今回の条件をすべて外した場合はどうなりますか」
村瀬が三宅へ尋ねる。
「選抜側は実弾、爆発物、車両、狙撃、より強力な音響や閃光装備を使用できます」
「戸張さん側も、使わなかった能力を含めて自由になる」
「はい」
三宅は画面に残った結果を見た。
「その条件で実施することに、検証としての価値はありません。結果を得る前に死者が出ます」
誰が死ぬとは言わなかった。
戸張一人なのか、選抜要員なのか、双方なのか。実際に始めなければ分からず、確かめるために始めることはできない。
村瀬は戸張へ向き直った。
「率直に伺います。今回の選抜要員で、あなたを止められると思いましたか」
戸張はすぐに答えなかった。
同じ机に座っている隊員たちを見てから、正面の村瀬へ視線を戻す。
「今回の条件なら、もう一度やっても負ける可能性はあります」
予想していなかった答えに、選抜要員の何人かが顔を上げた。
「今回は知らない装備とやり方が多かったです。次はこっちも対策できますが、そちらも別の方法を考えるでしょう。目標地点へ行くとか、誰かに触るという条件なら、必ず勝てるとは思いません」
「実戦なら?」
「そちらも全部使うんでしょう?」
「当然です」
三宅が答えた。
「なら、俺も全部使います。その場合、止められるかどうかより、どれだけ被害が出るかの話になると思います」
脅しではなく、映像と訓練結果から導いた結論として口にしている。
村瀬は反論しなかった。
政府側も同じ判断に至っている。
戸張を確実に止められるとは考えない。そのための手段を増やす努力は続けるが、対処計画の第一に置くべきなのは、戸張と敵対しないことだった。
三宅は講評資料を閉じた。
「自衛隊側としての暫定評価を伝えます。戸張氏は、事前に合意した安全条件を守り、対人状況で能力と身体能力を制御できる。訓練中止の指示にも従う意思があり、選抜要員へ不必要な損傷を与える行動は確認されませんでした」
続けて、真壁たちへ目を向ける。
「選抜側は、既知の能力に対する対策を短時間で構築し、複数回の命中と拘束機会を成立させた。六層級の相手にそのまま通用するとは言えませんが、戸張氏との共同活動に必要な最低限の連携能力は示しています」
評価の中心は、どちらが強いかではない。
同じ場所へ入った時に、互いを味方として扱えるかだった。
村瀬が机の上へ新しい書類を置いた。
「今回の結果を受け、戸張さんとの暫定協力案は正式に承認されました」
専用窓口の設置、七日ごとの簡易連絡、重大危険の優先報告、情報と素材への対価、検査結果の共有、開示情報の限定管理。前回提示された内容に、大きな変更はない。
追加されたのは、政府側から共同活動を依頼する場合、戸張の同意なしに参加を義務づけないという項目だった。
「模擬戦の結果を見て、強制できると思わなくなりましたか」
戸張が尋ねる。
「最初から、強制を前提にはしていません」
村瀬は答えたあと、わずかに視線を逸らした。
「……一部を除いて」
「まだいるんですね、その一部」
「今回の映像も見せますので、少しは静かになると思います」
「逆に大きな武器を用意しようとしませんか」
「それを考える部署はあるでしょう。ただ、考えることと、あなたへ向けることは別です」
村瀬は署名欄を示した。
「政府としては、戸張さんを無条件に信用するという結論ではありません。警戒も続けますし、開示していただきたい情報も残っています」
「俺も同じです」
「そのうえで、関係を切らず、必要な時には同じ側へ立てる状態を作りたいと考えています」
戸張は書類を読み直してから、署名欄へ名前を書いた。
これで政府が六層の探索を正式に許可したことにはならない。戸張も入口や仲間、能力の全容を明かしたわけではない。
互いに手札を残したまま、それでも敵として扱わないことを選んだ。
書類が交換され、村瀬が一部を戸張へ渡す。
真壁はその様子を見ながら、訓練中の戸張の動きを思い返した。
力で押し切れる場面はいくつもあった。隊員を投げ、盾を吹き飛ばし、強い雷で動きを止めれば、四秒差になることもなかっただろう。
戸張は最後まで、それをしなかった。
信用できるという証明には足りないが、少なくとも、人間を壊すことへためらいのない人物ではない。
署名を終えた戸張がペンを置き、少し考えるように指先を止めた。
「安心材料になるかは分かりませんが、俺にも今の社会を壊す理由はありませんよ」
村瀬が書類から顔を上げる。
「そう言っていただけると助かります」
「文明のある社会を捨てて、石器時代に戻りたい願望もありません。いつでもアイスが食べられる環境を、自分で潰すほど馬鹿じゃないです」
数秒の沈黙のあと、選抜要員の何人かが小さく笑った。
村瀬は戸張の表情を確かめるように見てから、机の端に置かれた胃薬へ目を落とす。
「判断基準がアイスなんですか」
「かなり重要ですよ。夜中でも買えますから」
「分かりました。そこは安心材料として受け取っておきます」
「報告書には書かなくていいですからね」
「すでに記録中です」
訓練設計の担当者が真顔で答え、今度は戸張も含めて笑いが広がった。
張りつめていた空気が、ようやく少しだけ緩む。
警戒が消えたわけでも、互いにすべてを信用したわけでもない。
それでも、同じ社会の中で暮らし続けたいという点については、少なくとも認識が一致していた。




