第176話 止める訓練
戸張との模擬戦闘が正式に決まった翌日、防衛省側では参加要員の選定が始まった。
候補者に求められたのは、単純な格闘能力や射撃技能だけではない。複数人での制圧、視界不良下での連携、非殺傷装備の運用、現場判断による中止ができること。異常空間での活動経験も条件に加えられ、水門事案以降の訓練記録と実地活動の評価が一人ずつ確認された。
最終的に選ばれたのは、真壁一等陸曹を含む十名だった。
全員が同じ部隊から集められたわけではない。盾と拘束を担当する者、近距離での制圧を得意とする者、観測機器や小型無人機を扱う者が混成され、訓練区域の外には通信と医療を担当する支援要員も置かれる。
選抜要員が初めて集められた部屋には、三宅一等陸尉と真壁のほか、訓練設計を担当した職員が待っていた。
正面の大型画面には、四本腕の猿二体を相手にする戸張の姿が映っている。
映像はすでに何度も分析されていたが、参加者へ見せるのは初めてだった。
細身の男が一人で森の中へ入り、争っていた二体の大型生物を同時に相手取る。猿の一体が正面から迫り、もう一体が木を使って側面へ回るが、戸張は背後を見ないまま攻撃を避けた。
雷で動きを止め、風で傷口を広げ、短い刃で急所を狙う。
一度は大柄な猿の腕を受けて地面を転がったものの、そのまま立ち上がって戦闘を続け、最後には二体とも倒している。
映像が終わると、室内にはしばらく機器の作動音だけが残った。
参加者の一人が、画面に表示された戸張の登録情報へ目を向ける。
「確認ですが、相手は民間の登録者なんですよね」
「そうだ」
三宅が答えた。
「正式登録は五級。異常空間内での活動歴はあるが、部隊への所属経験も、警察や自衛隊での勤務歴も確認されていない」
「映像を見る限り、五級の相手には見えません」
「その評価は上も同じだ。だから、既存の等級を基準に考えるな」
別の隊員が、映像の停止位置を指した。
戸張が四本腕の猿から打撃を受け、地面を滑っている場面だった。
「これを受けた翌日に、普通に歩いていたと」
「本人の申告では、打撲と口内の裂傷だけだ」
「防具は」
「映像に映っている服以外には確認されていない」
質問した隊員は、それ以上何も言わなかった。
戸張の能力について、参加者へ開示された情報は限られている。
火、風、雷を発生させられること。通常の人間を大きく上回る身体能力を持つこと。視界外からの攻撃にも反応する可能性が高いこと。大型生物の打撃に耐え、翌日には行動できる程度まで回復していたこと。
そして、本人がほかにも能力を持っていると認めていること。
詳細が不明な項目については、推測で穴を埋めないよう注意された。
映像にない能力がある前提では動く。ただし、何が出てくるかを決めつけてはならない。
三宅は参加者の顔を順番に確認した。
「この訓練の目的を説明する。第一に、戸張氏が人間を相手に力を制御できるかを確認する。第二に、複数人による組織的な行動へどう対応するかを見る。第三に、将来的に同じ現場で動ける可能性があるかを検証する」
そこで一度言葉を切り、画面に残った戸張の姿へ視線を向ける。
「上層部には、彼が敵対した場合に現行の要員でどこまで対応できるかを知りたいという意図もある」
「制圧が目的ですか」
「制圧できるという前提ではない」
三宅は即座に答えた。
「映像の相手は、大型類人猿に近い生物だ。腕力、耐久力、移動能力のいずれも人間を大きく上回っている。それを二体同時に倒した相手へ、正面から力をぶつけて勝てると考えるな」
戸張には、猿以上の力だけでなく、人間としての判断力がある。
相手が道具を使うことも、連携や陽動を仕掛けることも理解している。罠を見れば避け、意図へ気づけば逆に利用する可能性も高い。
三宅が政府内の会議で口にしなかった考えは、現場側では共有されていた。
戸張が本気で敵対し、映像に出していない能力まで使うなら、現在の装備と人数で確実に止められるとは考えていない。
今回測るのは、勝てるかどうかではない。
どの手段なら反応させられるのか、何秒動きを止められるのか、どの距離なら隊員を退避させられるのか。制圧へ至らなくても、次の判断へ使える情報を持ち帰ることが目的だった。
真壁が資料を配る。
訓練区域の概略図と使用可能な装備、双方の禁止事項が記載されていた。
区域は、廃施設を想定して造られた市街地訓練区画を使用する。二階建ての建物、低い倉庫、車両を模した障害物、狭い通路が配置され、中央付近には戸張が到達すべき目標地点が設けられる。
戸張側の勝利条件は、制限時間内に目標地点へ到達するか、指定された要員へ有効打を与えること。選抜班側は、制限時間まで到達を阻止するか、拘束具を規定どおり装着すれば勝利となる。
使用するのは、訓練用の塗料弾、盾、警棒型の模擬武器、拘束用ネット、ワイヤー式の捕縛具、煙幕、閃光と音響を発する訓練装置、小型無人機だった。
実弾と刃物は持ち込まない。
戸張にも人体を切断、貫通、焼損させる攻撃は禁止され、雷については事前に確認した低出力のみ使用が認められている。風も人体内部や眼球、鼓膜などへ直接作用させてはならない。
真壁は装備一覧を机へ置いた。
「目標を囲んで一斉に撃つ、という訓練じゃない。塗料弾が当たったところで、そのまま止まってくれる保証はないし、実戦で同じ場所に立ってくれるとも限らない」
「盾で進路を限定し、拘束班へ渡しますか」
「それを基本にする。ただし、最初からこちらの人数と位置を全部見せる必要はない」
訓練区域へ入る経路は一つに見えるが、建物の内部と地下通路に複数の待機場所がある。正面で接触する班とは別に、左右から進路を制限する班、屋上から拘束具を投射する班、小型無人機で位置を追う要員が配置される。
戸張が一つの班へ集中した時に、別の班が目標地点との間へ入る。
制圧を急ぐのではなく、移動方向を誘導し、選択肢を減らしてから拘束を狙う計画だった。
参加者の一人が概略図の入口を指した。
「開始地点はここですか」
「戸張氏には、受付を通過して訓練区域へ入るよう伝えてある」
「開始の合図は」
「ない」
真壁の答えに、数人が顔を上げた。
「事前に渡した条件には、訓練区域へ入場した時点で開始と書いてある。係員から改めて説明することも、全員が所定位置へ着いたと伝えることもない」
「受付役も訓練に参加するんですか」
「直接攻撃はしない。ただし、誘導する経路や渡す情報は作戦の一部になる」
三宅が補足する。
「異常空間の生物は、正面から姿を見せて襲ってくるものばかりではない。人間はさらに、相手が戦闘だと認識する前から準備を始める。戸張氏にも、その違いを理解してもらう」
準備には三日が使われた。
選抜班は映像を繰り返し確認し、戸張の移動速度や反応時間を推定した。映像から拾える数字には限界があったが、通常の人間を基準に配置すれば、接触する前に突破されることだけは分かった。
通路を狭くしすぎれば、風で煙幕や障害物を吹き飛ばされる。
建物へ追い込めば、壁や天井を移動に利用される可能性がある。
高所から拘束具を撃っても、発射音や空気の動きで察知されるかもしれない。
対策を立てるたび、映像の中で背後の攻撃を避けた戸張の動きが問題として戻ってきた。
視界を塞ぐだけでは不十分だった。
音を重ね、複数方向から動き、無人機と地上要員の接近を同時に行う。どれが囮で、どれが本命かを判断する時間そのものを削る必要がある。
訓練前日の最終確認で、真壁は全員へ告げた。
「無理に勝ちに行くな。相手の能力を引き出すために、負傷者を出すような真似はするな。中止命令が出たら、その時点で手を止めろ」
「向こうが止まらなかった場合は」
「それも確認項目になる」
真壁は短く答えたあと、言葉を続けた。
「ただし、戸張氏は今回の条件を読んだうえで来る。少なくとも、こちらを殺すつもりの相手ではない。だからといって、油断していい相手でもない」
訓練当日、選抜班は開始予定の二時間前に配置へ入った。
盾を持つ班は正面に見える建物の内部へ隠れ、拘束班は左右の倉庫と二階部分に分かれる。小型無人機は上空へ出さず、屋根の陰で待機させた。
戸張へ見せる人員は、受付を担当する職員一人だけだった。
真壁は訓練区域を見渡せる監視室に入り、三宅と並んで複数の映像を確認した。
予定時刻の十分前、外周のカメラに戸張の車が映る。
本人は前回の映像と同じような、動きやすい服装で降りてきた。防具らしいものは身につけておらず、腰にも武器はない。
受付の職員から書類を渡され、禁止事項と中止方法をもう一度確認する。
戸張は紙面へ目を通し、署名した。
そのまま誘導された通路を進み、訓練区域の扉をくぐる。
監視室の時計は、予定されていた開始時刻よりまだ七分早かった。
通信機から、待機中の隊員の声が届く。
『目標、区域内へ入りました』
真壁は各班の位置を確認する。
戸張は入口付近で立ち止まり、誰かが説明に来るのを待つように周囲を見た。
正面には無人の通路が延び、その先に最初の建物がある。人の姿も、訓練開始を示す音もない。
戸張が一歩進む。
監視室の隊員が真壁へ振り向いた。
「開始命令は」
「もう始まっている」
戸張はさらに数歩進んだところで足を止めた。
正面の建物でも、左右の倉庫でもなく、離れた位置に設置された監視カメラへ顔を向ける。
レンズ越しに、監視室を見つけたような視線だった。
真壁は通信機を握り直した。
「全班、目標が気づいた。予定どおり開始する」




