第175話 条件
正式な回答が届いたのは、二日後だった。
指定された場所は、前回と同じ受入施設ではなく、内閣府が使用する会議室だった。生物素材を持ち込む必要がないため、検査区画を通る手間はない。
案内された部屋へ入ると、村瀬が一人で待っていた。
机の上には薄い資料が二部と、封を切っていない水が置かれている。村瀬の手元には、それとは別に見覚えのある胃薬の袋があった。
「先日は、急な対応をありがとうございました」
「いえ。こちらとしても、早めに話しておく必要がありましたから」
俺が向かいへ座ると、村瀬は資料へ手を伸ばす前に、少し迷うような顔をした。
「戸張さん。先に一つだけ、個人的なお願いをしてもよろしいでしょうか」
「内容によります」
「何もしていない時くらいは、本当に何もしていないでいただけませんか」
前にも似たことを聞いた気がする。
村瀬の顔を見る限り、冗談だけで言っているわけではなさそうだった。
「何もしていない時は、何もしていませんよ。映画くらい見るかもしれませんが」
「今回の十日間は、映画みたいな十日間だったんでしょうね」
「今もその続きですよ。ジャンルはファンタジーですかね」
「多分、私側のジャンルはパニックホラーです」
村瀬は胃薬の袋を机の端へ寄せ、ようやく資料をこちらへ向けた。
表紙には、暫定協力に関する確認事項と書かれている。正式な契約書というより、今後の交渉で政府側が提示する条件をまとめたものらしい。
「上層部を含めて協議した結果、現時点で戸張さんの活動を全面的に停止させる方針は採らないことになりました」
「全面的に、ということは、一部なら止める可能性があると」
「外部へ被害が及ぶ危険が確認された場合や、国内法に明確に抵触する行為があれば別です。ただ、今回判明した未申告の探索だけを理由に、資格停止や活動禁止を行うことはありません」
予想していた範囲の答えだった。
政府側としても、俺の活動を認めたと言い切るのは避けたいのだろう。禁止する根拠がなく、禁止しても守らせられる保証がない以上、現状を追認しながら別の言葉で包んでいる。
「代わりに、いくつかお願いがあります」
村瀬は資料の一枚目を示した。
専用の連絡窓口を設け、一定期間ごとに生存と帰還状況を知らせること。異常空間内で、現実側へ影響する重大な危険を発見した場合は、優先して連絡すること。提供された素材や映像には、内容に応じて対価を支払い、検査結果も共有すること。
情報の閲覧範囲は限定され、無関係な部署や民間企業へ渡す場合には、事前に本人へ通知する。
全体としては、こちらが想定していたより控えめだった。
「一定期間というのは、どれくらいですか」
「現在の案では七日に一度です。詳細な活動内容までは求めません。生存していること、帰還不能な状況ではないこと、外部へ影響する異常を確認していないこと。この三点だけで構いません」
「七日を越えたら、また電話が増えると」
「まずは専用窓口から確認します。それでも連絡が取れなければ、次の対応を検討します」
「自宅へ押しかけることも?」
「状況次第では否定できません。ただし、通常の活動記録が途切れただけで、警察や自衛隊を向かわせることはありません」
そこを曖昧に約束しないのは、むしろ信用できた。
俺は次の項目へ目を移す。
「重大な危険の中に、人型の生物も含まれていますね」
「存在するだけで報告を求める案も出ましたが、最終的には外しました」
「どういう条件なら報告対象になりますか」
「現実側へ出る意思や手段がある、人間へ組織的に敵対している、大規模な移動や武装を始めた。そのような危険が確認された場合です」
「人の形をしているだけなら?」
「報告を義務にはしません。ただし、情報を提供していただけるなら、正式な対価を用意します」
小人たちや蜥蜴人を想定して作られた条件ではない。それでも、存在しただけで危険対象にする方針を外したのは大きかった。
少なくとも、こちらが何も言わないうちから討伐や確保の話へ進むことはない。
「情報の管理について確認します。俺の活動場所や能力を、企業へ渡すことはありますか」
「研究や検査に必要な場合は、限定した情報を共有する可能性があります。ただし、入口や所在地、本人を特定できる情報は、戸張さんの同意なく民間へ渡しません」
「国の他部署には?」
「必要性が認められた範囲で共有されます。全面的に止める約束はできません」
「尾行や、入口を探すための監視は」
村瀬はすぐに答えなかった。
「現時点で、強制的に入口を特定するための尾行や追跡を行う方針はありません。ただし、将来にわたって一切行わないと約束することもできません」
「正直ですね」
「守れない約束をしても、次の交渉で困るだけですから」
俺は資料を閉じず、そのまま村瀬を見た。
ここまでの内容は、こちらをつなぎ止めるための条件としては悪くない。だからこそ、政府側が本当に考えたであろう別の手段について聞いておきたかった。
「私を脅す方針は考えませんでしたか?」
村瀬の表情がわずかに固まった。
否定する言葉を探したというより、どこまで答えるべきか考えたように見えた。
「メディアでは色々と言われていますが、私たちはそんなに愚かじゃありませんよ」
そこで一度言葉を切り、村瀬は視線を横へ逃がした。
「……一部を除いて」
「一部は考えたんですね」
「強制的に入口を聞き出すべきだという意見も、身柄を確保して能力を調べるべきだという意見も出ました。ただ、実行可能性と、その後に失うものを説明したところ、正式な方針には残りませんでした」
「家族や知人を使う案は?」
「それを口にした者がいなかったとは申しません」
村瀬の声から、先ほどまでの軽さが消えた。
「ですが、採用されることはありません。戸張さんから協力を得たいという理由だけではなく、そのような手段を政府の正式な対応として認めるべきではないからです」
俺は少しだけ息を吐いた。
完全に安心したわけではない。政府というまとまりの中には、村瀬が言った一部の人間もいる。それでも、そうした案が会議の中で止められたことと、その存在まで隠さず話したことは覚えておいていい。
「それで、最後の項目がこれですか」
資料の後半には、一度限りの訓練協力と書かれていた。
自衛隊側の選抜要員を相手とした模擬戦闘。安全条件を事前に定め、実弾や殺傷を目的とする装備は使用しない。俺も人体へ重大な損傷を与える能力は使わず、訓練中止の指示へ従う。
目的には、対人時の能力制御、複数人との連携への対応、将来的な共同活動の可能性確認と記載されている。
「俺と一緒に動けるかを見るだけじゃなく、止められるかも試したいんですよね」
「はい」
村瀬は否定しなかった。
「ただし、あなたにもこちらの能力を知っていただきたいと考えています。組織的に動く人間が、どこまで対応できるか。その限界も含めてです」
表向きの説明だけではない。
俺が敵対した場合、自衛隊の選抜要員がどこまで時間を稼げるか、拘束や制圧が成立するかも確認するつもりだろう。
村瀬自身は、俺を止められると考えているようには見えなかった。
映像で見た四本腕の猿は、一匹でも人間よりはるかに強い。それを二匹倒した相手には、同じだけの力に加えて、人間の考え方がある。
現状の人間が道具と人数を揃えたところで、正面から確実に止められると期待する方が無理がある。
それでも、何も知らないままにしておくより、一度実際にぶつけて限界を測る価値はある。政府側の判断としては理解できた。
「相手は何人ですか」
「当日まで非公開です」
「使う装備も?」
「大枠の禁止事項だけは事前に共有します。具体的な配置や手段は伏せます」
「俺だけ、能力を申告するんですか」
「映像で確認された火、風、雷については、安全な出力範囲を事前に決めてください。それ以外の能力を使うかどうかは、戸張さんの判断に委ねます。ただし、人へ重大な損傷を与える可能性があるものは使用しないでください」
「ずいぶん曖昧ですね」
「全容が分からない以上、細かく禁止することもできません」
俺は資料を最初からもう一度確認した。
単独活動を直ちに止めない。専用窓口を設ける。情報と素材には対価を出す。開示範囲を限定し、入口については今のところ追わない。
代わりに、定期連絡と重大な危険の報告、一度限りの模擬戦を求める。
こちらがすべてを明かさないことを前提にした内容だった。
完全に信用されているわけではなく、危険人物として見られていないわけでもない。その一方で、制度の中へ無理に押し込むより、連絡が続く関係を選ぼうとしている。
「加工品や素材の提供は義務ではないんですよね」
「はい。提供を求めることはありますが、応じるかどうかは戸張さんが決められます」
「検査結果は、提供した分についてすべて共有する」
「安全保障上の理由で一部を伏せる場合は、その事実と理由をお伝えします」
「模擬戦は一度だけ」
「現時点では。一度行ったあと、継続をお願いする場合は別途協議します。拒否したことを理由に、今回の合意を取り消すことはありません」
逃げ道も残してある。
強引に飲ませる条件ではなく、俺が自分から受け入れられる形へ整えたのだろう。
俺はペンを取り、模擬戦に関する項目の横へ指を置いた。
「分かりました。受けます」
村瀬の肩から、わずかに力が抜けた。
「ありがとうございます」
「ただ、全部は見せませんよ」
「こちらも全部は見せません」
その返答に、俺は少し笑った。
村瀬も疲れた顔のまま、口元だけを緩める。
政府と俺の関係が、これで安定したとは思わない。入口も、小人たちも、寄生体も、白い外殻も話していない。政府側にも、俺へ伝えていない監視や対処の案が残っているはずだ。
それでも、互いに何も知らないまま距離を測る段階からは、一歩進んだ。
村瀬が資料を揃え、最後の確認をする。
「模擬戦の日程は、選抜要員の調整後に連絡します。それまでは、できれば大きな案件を増やさないでください」
「努力します」
「その返事が、一番不安です」
机の端に置かれた胃薬へ、村瀬の視線が向いた。
俺は資料へ署名し、ペンを戻す。
次に用意される舞台は、異常空間の中ではない。
怪物の代わりに、俺を止める訓練を受けた人間たちが待っている。




