第172話 暴露
昼を過ぎた頃から、村瀬は胃の奥に鈍い痛みを感じていた。
原因には心当たりがある。
戸張の公式活動記録が途切れてから、十日近くが経っている。登録者がしばらく活動を休むこと自体は珍しくない。仕事や家庭の都合もあれば、負傷を避けて間を置く者もいる。
ただし、戸張に限っては「何もしていない」と考えるほど、不安が増した。
机の端には、活動記録の空白を知らせる報告が置かれている。違反はなく、呼び出す根拠もない。管理窓口から通常形式の活動案内を送り、反応がなければ非公開で状況確認を行う。それが現時点で取れる手順だった。
村瀬は引き出しから胃薬を出し、冷めた茶で流し込んだ。
以前、自分で口にした言葉を思い出す。
「せめて、何もしていない時くらいは、本当に何もしていないでくださいよ」
前にも言った気がする、しかも最近、もちろん本人へ届く言葉ではない。
それでも、記録が空白になるたび、こちらの都合だけで戸張へそう言いたくなった。
警察へ位置情報を送りながら武装した犯罪者の中へ入り、正式五級登録後も能力の上限を見せず、自衛隊との訓練では周囲の予想を越える動きを見せた人物だ。何もしていないなら、それが一番よい。だが、何かをしているなら、制度側の把握していない場所で進んでいる可能性が高かった。
その二つの可能性の間で、村瀬はこの数日、同じ記録を何度も開いていた。
何も起きていないと信じたい。
何もしていないとは信じきれない。
管理窓口から内閣府異常空間対策室へ連絡が上がったのは、午後四時を少し回った頃だった。
村瀬は、戸張から折り返しがあったと聞いて、まず肩の力を抜いた。
少なくとも、生きている。
その安堵は、報告内容を読み始めるまでしか続かなかった。
管理窓口の担当者から転送された通話記録へ目を通す。
戸張が告げた内容は短い。
見せたい活動記録がある。
回収物も一緒に提供したい。
詳しい説明は、電話ではなく直接行いたい。
ここまでは、通常の未登録回収品に近い。
問題は、担当者が回収物の種類を尋ねたあとの答えだった。
『生物の一部です。六層にいたものです』
六層、頭を抱えながら、飲んだばかりの胃薬が届くより先に、痛みが強くなるのを感じた。
担当者はその場で質問を止め、持ち込みを認めなかった。戸張へ密封状態の維持と移動停止を依頼し、生物由来回収物の対応手順へ切り替えている。
適切な判断だった。
村瀬は報告画面を下まで読み、机の電話へ手を伸ばした。
最初に連絡したのは、生物由来回収品を扱える指定受入施設だった。次に研究班、自衛隊側の連絡担当、警察の異常空間関連部署へ情報を回す。
この時点では、戸張の申告が正しいという保証はない。
六層という階層も、本人の認識にすぎない可能性がある。映像が不鮮明なら、既存生物を加工したものや、複数の素材を組み合わせた偽物まで疑う必要があった。
だが、偽物であっても問題だった。
戸張がこの時期に、制度側へ虚偽の六層情報を持ち込む理由が見えない。
村瀬は必要な連絡を終え、最後に戸張本人へ電話をかけた。
三回目の呼び出し音でつながる。
「内閣府異常空間対策室の村瀬です。ご無沙汰しています」
『戸張です。連絡を放置してしまって、すみません』
「ご無事であれば、まずは結構です。確認しますが、現在お持ちのものは生物由来の回収品で間違いありませんか」
『はい。腕の一部です。切り取ってから、それほど時間は経っていません』
村瀬は手元のメモへ、鮮度あり、と書き加えた。
「液漏れや強い臭気、容器の膨張はありますか」
『今のところは。袋を三重にして、密閉容器へ入れています。冷却もしています』
「そのまま開けずに保管してください。こちらから受入可能な場所をご案内します。公共交通機関は使用しないでください。移動手段がなければ、こちらから車両を出します」
『車で行けます』
「同行者はいらっしゃいますか」
『いません。俺一人です』
予想していた答えだったが、村瀬は一度ペンを止めた。
六層の生物を倒し、腕を切り取り、地上まで運んだ。戸張の申告をそのまま受け取るなら、その一連を単独で行ったことになる。
「映像もあると伺っています」
『胸につけたカメラと、離れた場所へ固定したカメラで撮りました。倒したのは二匹です』
「二匹」
『同じ種類です。四本腕の猿に近い生き物でした』
村瀬は、書きかけた文字を見直した。
一匹の聞き間違いではない。
戸張は特に強調することもなく、二匹と言った。
「その映像には、戸張さん以外の人間は映っていますか」
『映っていません』
「同行者や支援者も」
『いません。戦ったのは俺一人です』
村瀬は椅子へ深く座り直した。
電話越しの声は落ち着いている。強さを誇示する様子も、制度側を試すような含みも感じられない。
だからこそ、内容との落差が大きかった。
「分かりました。映像も元データのままお持ちください。複製を作っている場合は、編集前のものをお願いします」
『両方あります。それと、加工したものも何点か持っていきます』
「加工したもの、ですか」
『同じ生き物の皮や腱を使った装備です。未加工のものとは別です』
村瀬は数秒黙った。
生物の討伐映像、新鮮な組織、さらに加工品。
戸張は六層へ一度だけ到達したのではない。少なくとも素材を回収し、用途を考え、装備へ変えるだけの時間と環境を持っている。
問題は、その加工を誰が行ったかだった。
戸張本人が作ったのか。
地上に協力者がいるのか。
あるいは、異常空間内に加工設備か、それを扱える存在があるのか。
電話で問い詰める段階ではない。
「加工品も、袋から出さずにお持ちください。受入先で確認します」
『分かりました』
「戸張さん。今回お持ちになるものは、通常の管理窓口では扱えません。到着後、一定時間お待ちいただく可能性があります」
『大丈夫です。こっちも、そのつもりで持っていきます』
「そのつもり、というのは」
『これだけ見せれば、活動案内に参加してください、だけでは終わらないと思っているという意味です』
村瀬は、返答の前に息を整えた。
戸張も理解している。
今回の提供は、活動記録の空白を埋めるための報告ではない。自分の扱いそのものを変えさせるための交渉材料だ。
「承知しました。こちらも、通常の面談としては扱いません」
『助かります』
通話を終えると、村瀬は新しい資料を開き、出席者の欄へ名前を追加した。
研究班から鹿島。
自衛隊側から三宅一等陸尉。
制度運用と法務の担当者。
生物安全管理の専門員。
最初から人数を増やしすぎれば、戸張へ圧力をかけることになる。だが、村瀬一人で受け取ってよい情報量でもなかった。
約二時間後、戸張は指定された受入施設へ到着した。
一般の病院や研究所とは離れた場所にある、異常空間由来品の一時保管と検査を目的に整備された建物だった。戸張の車は外周の検査区画へ誘導され、持参品だけが職員の手で搬入される。
村瀬は厚いガラス越しに、その様子を見ていた。
最初に運ばれてきたのは、大型の密閉容器だった。
市販品に見える容器だが、外側へさらに防水袋が巻かれ、隙間には保冷材が詰められている。専門的とは言えないが、戸張なりに汚染と腐敗を避けようとしたことは分かった。
次に、細長い包みが二つ。
最後に、記録媒体を入れた小型ケース。
戸張本人は別室で衣服表面の検査を受けたあと、村瀬たちのいる面談室へ案内された。
以前の説明会で見た時と、大きく変わったようには見えない。
体格は細身のままで、目立った怪我もない。右手首を一度回した時に、わずかに動きが固く見えた程度だった。
六層で二匹の大型生物と戦った人間が、翌日には自分で車を運転して来ている。
映像を見る前から、村瀬の中でいくつかの前提が崩れ始めていた。
「お待たせしました」
「いえ。急に持ち込んだのは俺ですから」
戸張は椅子へ座り、ガラスの向こうへ目を向けた。
検査室では、防護具を着た職員が密閉容器の外側を消毒し、内部の袋を順番に取り出している。
鹿島は別の観察室に入り、検査担当者へ指示を出していた。
最初の袋が開かれる。
厚い灰色の毛が見えた。
続いて現れたのは、肘から先と思われる腕だった。
人間の腕より明らかに長く、太い。掌は大きく、指は五本あるが、関節の位置と長さが既知の大型類人猿とは違う。皮膚の一部には黒い血が残り、切断面には筋肉、腱、二本の骨、太い血管が露出していた。
作り物には見えなかった。
血が通り、筋肉が収縮し、指を動かしていた生物の腕だった。
検査担当者が切断面へ光を当てる。
鹿島の動きが止まった。
壁面のスピーカーから、低い声が届く。
『切断からの経過時間を推定します。温度管理された状態で、組織の劣化は軽度です。保存処理の痕跡は、現時点では確認できません』
三宅一等陸尉がガラスへ近づいた。
腕の太さと指の長さを見比べ、隣に置かれた計測器へ目を向ける。
「これが四本のうちの一本ですか」
「下側の腕です。短い方ですが、その分、太くなっていました」
「これが短い方」
「上の二本は、立った状態でも膝より下まで届いていました」
三宅は返事をせず、再び検査室を見た。
村瀬は戸張の表情を確認する。
誇張している様子はない。目の前の腕も、戸張にとってはすでに見慣れた素材の一つに近いようだった。
検査担当者が腕を撮影し、簡易画像診断装置へ移す。
画面に骨と筋肉の断面が表示された。
鹿島が拡大を指示する。
骨の密度、腱の太さ、指を動かす筋肉の配置。どれも生物としての連続性を持っている。外側だけを似せた模型では作れない内部構造だった。
鹿島がマイクを取った。
『戸張さん。確認ですが、この個体は死亡する直前まで、この腕を自力で動かしていましたか』
「はい。殴られました」
『切断したのは、死亡確認後ですね』
「そうです。撮影も残しています」
『この血液に、触れましたか』
「切る時に少し。すぐに洗って、今のところ異常はありません」
鹿島は一瞬、目を閉じた。
研究者として聞きたいことと、未知生物の血液へ素手で触れた人間へ言いたいことが同時に浮かんだのだろう。
『今後は、自己判断で接触しないでください。少なくとも感染性と毒性の確認が終わるまでは』
「分かりました」
戸張の返事は素直だった。
本当に次から従うかは分からない。
検査担当者が採血用の器具で残留血液を回収する。黒く見えた血は、薄い容器へ広げると暗い赤色を帯びていた。
鹿島が画面を凝視したまま、小さく呟く。
『循環していた血です』
誰も返事をしなかった。
分かっていた。
腕を見た時点で、全員が理解していた。
それでも専門家の口から言葉にされた瞬間、部屋の空気が変わった。
六層には、映像や噂の中だけに存在する怪物ではなく、血液を循環させ、骨と筋肉を動かし、縄張りを争う巨大な生物がいる。
そして、その一部が今、地上の検査室に置かれている。
村瀬は手元の資料へ目を落とした。
これまで国が集めてきた異常空間由来品の多くは、魔石、植物、液体、遺骸の断片だった。生物そのものを比較的良好な状態で持ち帰った例はあるが、六層と申告される深度から、これほど大きな個体の新鮮な組織が提供された例はない。
六層という申告を保留したとしても、未知の大型類人猿に近い生物が存在する事実だけで、研究計画と安全基準を見直す価値があった。
検査室の職員が、次の包みを開く。
中から現れたのは、厚い黒褐色の皮を重ねた前腕防具だった。
表面には硬い毛が残り、内側には別の柔らかい皮が当てられている。複数の層は太い腱に似た繊維で縫い合わされ、人間の腕へ固定できる形に整えられていた。
もう一つは、細く加工された皮と腱を編んだ腰帯だった。金属製の留め具は使われていない。素材そのものの硬さと弾力を利用し、荷重が一か所へ集中しない構造になっている。
三宅が先に口を開いた。
「戸張さん。これを作ったのは、あなたですか」
戸張は検査室の加工品を見たまま、少しだけ間を置いた。
「今回お話しする範囲には、その答えは含めていません」
「作製場所も」
「同じです」
三宅の表情は変わらなかった。
村瀬には、その沈黙が戸張の回答以上に重く感じられた。
戸張は加工技術の存在を否定しなかった。
しかも、装備を隠さず持参した。
答えを保留したまま現物だけを見せることで、自分にはまだ開示していない情報があると伝えている。
偶然拾った素材ではない。
一度限りの六層到達でもない。
素材を選び、持ち帰り、加工し、用途に合わせて装備へ変える経路がある。
国側が本当に向き合うべきなのは、目の前の腕一本だけではなかった。
村瀬は戸張へ視線を戻した。
「この加工品も、六層由来と考えてよろしいですか」
「素材は同じ種類の生き物です。前に倒した個体のものを使っています」
「前に」
「今回の二匹とは別です」
村瀬は言葉を失いかけた。
四本腕の猿を倒したのは、今回が初めてではない。
戸張は過去にも同種を討伐し、その素材を加工へ回している。
つまり、国が今知ったばかりの六層生物は、戸張にとってすでに再遭遇する種類の一つだった。
三宅の手元で、ペンが止まった。
鹿島も検査室からこちらを見ている。
戸張は三人の反応を確認してから、机の上に置かれた記録媒体のケースへ目を向けた。
「腕が本物らしいことは、確認できましたか」
村瀬はすぐには答えられなかった。
正式な鑑定結果はまだ先になる。感染性も遺伝的特徴も、既知生物との関係も分からない。
だが、少なくとも目の前にあるものが、血の通った未知生物の腕である可能性は極めて高い。
「現時点の確認としては、はい」
「では、次は映像を見てください」
職員が記録媒体を専用端末へ接続する。
固定カメラの映像が大画面へ表示された。
木々に囲まれた開けた場所で、二体の巨大な猿が殴り合っている。
片方だけでも、人間が単独で向き合う大きさではない。
その画面の端へ、戸張が一人で歩いてきた。
武器は短いナイフ一本。
防具らしい防具もなく、背後に支援者の姿もない。
二体の猿が争いを止め、ほぼ同時に戸張へ顔を向けた。
村瀬は無意識に画面へ身を乗り出していた。
検査室で見た腕が、映像の中では四本ある。
それが二体。
合計八本の腕が、たった一人へ向けられていく。
映像の中の戸張は逃げなかった。
腰のナイフへ手を置き、二体が自分へ向き直るのを待っている。
画面の隅には、録画時刻が途切れず表示されていた。
村瀬は、隣にいる本人と映像を見比べた。
目の前の戸張は、六層から未知生物の腕を持ち帰った登録者ではない。
少なくとも、もうそれだけでは表せなかった。
国が把握していなかった最前線を、一人で歩き、その一部だけを選んで持ってきた人間だった。




