第171話 一匹ではない
太い上腕が細身の肩を捉えた。
骨へ届く手応えとともに、相手の身体が横へ飛ぶ。細身の四本腕は地面を転がり、すぐに片膝をついて立ち上がった。
まだ逃げる様子はない。
大柄な猿は喉を膨らませ、低い声を響かせた。
ここは自分の場所だった。幹へ残した臭いも、枝を折って作った道も、地面へ積もる排泄物も、すべてがそれを示している。
細身の猿は数日前から、その境界を越えていた。
何度追い払っても、離れた場所から戻ってくる。正面から力を比べれば勝てないと理解しているらしく、木の上を移動し、背後や脚を狙ってくる。
先ほども上の腕へ噛みつかれた。
傷口から流れる血の臭いが、鼻の近くへまとわりついている。
細身の猿が木を蹴った。
真正面へ来るふりをして横へ回る。大柄な猿は身体を向け、下側の腕で地面を払った。
細身は跳び越えたが、上側の腕が腹へ当たった。
鈍い音が響き、身体が近くの木へぶつかる。
今度こそ終わる。
大柄な猿が距離を詰めようとした時、森の外側から音がした。
短い声だった。
意味は分からない。
それでも、争っていた二匹は同時に顔を向けた。
木々の向こうに、小さなものが立っている。
二本の脚と二本の腕。体毛は少なく、身体の大半を剥いだ皮のようなものが包んでいた。
小さい。
腕一本で押し潰せる大きさだった。
臭いも一つしかない。
それなのに、大柄な猿の背中で毛が逆立った。
目の前の小さなものから、いくつもの視線が向けられている。
正面にある二つの目だけではなかった。左右の木の陰、頭上の枝、背後の草むらからも見られているような感覚が、身体の周囲へまとわりつく。
狼の群れに囲まれた時と似ていた。
群れならば、それぞれの臭いと足音がある。前にいるもの、横へ回るもの、遠くから待つものを一匹ずつ感じ取れる。
目の前のものには、一つの臭いと一つの身体しかない。
すべての視線が、その一枚の皮の内側から向けられていた。
狼よりも近く、蛇よりも冷たい。生き物の腹を裂いた時に現れる白いものが、自分の方を見ているような嫌悪感があった。
大柄な猿は動けなかった。
隣で細身の猿も足を止めている。
肩を低く落とし、四本の腕を身体の前へ置いていた。先ほどまで自分へ向けられていた牙も、今は小さなものへ向いている。
細身も同じものを感じている。
大柄な猿は、その姿だけで理解した。
喉から小さな音を漏らす。
細身が耳を動かし、互いの距離を少しだけ広げた。
争いを終えたわけではない。この場所を譲る気もなかった。
ただ、先に排除するものが現れた。
小さなものは逃げない。
胸元に取りつけた黒い物体へ指を触れ、腰から短い刃を抜いた。
少し離れた木にも、黒い目のようなものが取りつけられている。
小さな身体が、こちらを待っていた。
大柄な猿は上側の腕で地面を叩いた。
土が跳ね、低い振動が周囲へ伝わる。
細身はその音に合わせて右側へ走った。
大柄な猿が正面から進み、細身が木を使って横へ回る。決めた動きではなく、獲物を追う時に自然と使ってきた形だった。
小さなものの顔は大柄な猿へ向いたまま、身体だけが半歩ずれた。
細身が木から跳ぶ。
頭上から四本の腕を伸ばしたが、小さなものは振り返らずに前へ転がった。
細身の指が空を掴み、そのまま大柄な猿の前へ落ちる。
大柄な猿は腕を止めきれなかった。
振り下ろした拳が細身の肩へ当たり、地面へ叩きつける。
小さなものはその横を抜けた。
偶然には見えなかった。
見ていない方向から来たはずの攻撃へ、来る前から身体を動かしている。
細身が起き上がるより早く、小さなものが手を振った。
空気が鳴った。
見えない何かが地面を走り、細身の顔へ土と枯れ葉を叩きつける。
細身は腕で目を覆った。
その隙に小さなものが距離を取る。
逃げたのではない。
木へ取りつけた黒い目と、争っていた場所の間へ戻っている。
大柄な猿は地面を蹴った。
小さなものの身体へ、四本の腕を別々の高さから振る。上から押さえ、横から逃げ道を塞ぎ、下側の腕で脚を払う。
小さなものは最初の拳を刃で受け流し、二本目の腕の下へ身体を沈めた。
三本目が肩を掠める。
軽い身体が横へ飛び、地面を転がった。
血の臭いが増えた。
仕留められる。
大柄な猿が追い、四本の腕を持ち上げる。
小さなものは片膝をついたまま、こちらへ手を向けた。
指先に白い光が集まった。
直後、腕の内側を強い衝撃が走る。
身体が勝手に跳ね、持ち上げていた腕が開いた。筋肉が固まり、指先まで動かなくなる。
雷だった。
雨の夜、近くの木を裂いた光と同じ臭いがする。
小さなものが懐へ入った。
短い刃が脇腹を通り、皮膚の柔らかい場所を裂く。
大柄な猿は動く腕を振り回したが、小さなものは腹の下を抜け、背後へ回った。
細身が再び襲いかかる。
今度は大柄な猿を避け、地面すれすれから小さなものの脚を狙った。
小さなものは跳んだ。
細身の下側の腕が空を切る。
着地した場所へ上側の拳が落ちたが、その身体はすでに横へずれていた。
動きが速いだけではない。
四本の腕が動き始めるより早く、どこへ届くかを知っている。
正面の目は細身を見ていた。
それでも背後から近づいた大柄な猿の腕も避けた。
目の前のものの中にいる何かが、二匹を別々に見ている。
大柄な猿は喉を鳴らし、細身へ近づいた。
細身も拒まなかった。
二匹は左右へ分かれる。
小さなものが片方へ身体を向ければ、反対から襲う。どちらかが距離を詰めれば、もう片方が逃げ道へ回る。
小さなものを中心にして、互いの位置を変え続けた。
今度は細身が先に動いた。
木へ上り、高い位置から枝を折って投げる。
小さなものが横へ避けた場所へ、大柄な猿が走った。
四本の腕を広げ、身体ごと押し潰そうとする。
小さなものは逃げなかった。
短い刃を逆手に持ち、空いた手を地面へ向ける。
足元から風が噴き上がった。
身体が不自然な高さまで浮き、大柄な猿の肩を踏む。
そのまま背中を走り、反対側へ跳んだ。
大柄な猿は止まれず、細身が降りた木へ肩からぶつかった。
幹が大きく揺れ、細身が地面へ落ちる。
小さなものが先に着地していた。
細身が起き上がる前に、刃が脚の付け根へ入る。
細身は四本の腕を振って追い払おうとしたが、小さなものは傷口へ手を向けた。
短い炎が噴き出す。
毛が燃え、焼けた肉の臭いが広がった。
細身が叫び、地面を転がる。
大柄な猿は小さなものへ腕を振り下ろした。
今度は避けきれない。
拳が背中へ当たり、小さな身体が地面を滑った。
木の根へぶつかり、動きが止まる。
大柄な猿は細身の前へ立った。
争っていた相手を守る理由などなかったが、小さなものを先に殺す必要がある。
細身も焼けた脚を引きずりながら立ち上がり、大柄な猿の横へ並ぶ。
小さなものが身体を起こした。
口元から血を吐き、片方の肩を回す。
骨が折れた様子はない。
胸元の黒い目も残っている。
恐怖の臭いがしなかった。
二匹を前にしても、逃げようとする動きが一度もない。
大柄な猿の腹の奥に、森の中で感じたことのない冷たさが広がった。
目の前にいるものは、自分たちを倒せると知っている。
細身が先に叫び、三本の腕を地面へついて走った。残る一本を大きく振り上げ、小さなものの頭を狙う。
大柄な猿も遅れて前へ出た。
細身が上から押さえ、自分が横から身体を砕く。
小さなものは細身へ向けて手を伸ばした。
白い光が走る。
細身の身体が途中で固まり、勢いのまま前へ倒れた。
小さなものは横へ踏み込み、倒れてくる細身の腕を掴む。身体を回し、その勢いを利用して大柄な猿の方へ投げた。
細身の背中が胸へぶつかる。
二匹の身体が重なり、大柄な猿の足が止まった。
小さなものが細身の上へ跳ぶ。
短い刃を両手で持ち、首の横へ突き立てた。
細身の四本の腕が地面を掻く。
刃を引き抜くと、黒い血が勢いよく噴き出した。
大柄な猿は細身の身体を押し退け、吠えながら腕を振るった。
小さなものが後ろへ跳ぶ。
細身は起き上がらない。
喉から空気が漏れ、四本の腕が少しずつ動きを止めていく。
大柄な猿はその姿を一度だけ見た。
縄張りを奪おうとしていた相手だった。
何度も追い払い、先ほどまで殺そうとしていた。
それでも、同じ異物を見て、同じ恐怖を感じた一匹だった。
その一匹が、もう動かない。
大柄な猿は口を開き、森全体へ届くほどの声を上げた。
小さなものが刃についた血を振り落とす。
大柄な猿は四本の腕を地面へつき、身体を低くした。傷ついた脇腹から血が流れ、雷を受けた腕には痺れが残っている。
それでも力は残っていた。
一匹になったことで、迷う必要も消えた。
大柄な猿は正面から突進した。
小さなものは避けず、こちらへ向かってくる。
身体の大きさも、腕の数も違う。ぶつかれば砕けるのは向こうだった。
距離が縮まる。
小さなものが最後の一歩で身体を沈めた。
大柄な猿は上側の腕を振り下ろし、下側の腕で左右を塞ぐ。
そのすべてが当たる前に、小さなものの手が脇腹の傷へ触れた。
風が傷の中へ入り込む。
裂けた肉が内側から押し広げられ、力が一瞬抜けた。
小さなものは身体を回し、脇の下を抜ける。
大柄な猿が振り返ろうとした時、背中へ強い衝撃が走った。
短い刃が、首と肩の間へ入っている。
上側の腕を背後へ回す。
指先が小さなものの服を掠めたが、掴めない。
刃が抜かれ、同じ場所へもう一度入った。
足から力が失われる。
大柄な猿は片膝をつき、下側の腕で地面を支えた。
小さなものが背中から降り、正面へ回る。
近くで見ても、その身体は小さい。
目も二つしかない。
臭いも一匹分だった。
それでも、視線は減っていなかった。
倒れた細身の方からも、木の上からも、地面の下からも、いくつもの何かが大柄な猿を見ている。
群れが周囲にいるのではない。
群れが、一つの身体の中に入っている。
大柄な猿は残った力で腕を持ち上げた。
小さなものの手に、再び白い光が集まる。
雷が胸を貫いた。
身体の奥まで硬くなり、腕が途中で止まった。
地面が近づく。
最後に見えたのは、こちらを見下ろす一つの顔だった。
一匹の形をした、群れだった。




