第168話 森を倒す
森砕きの首の付け根では、頭を持ち上げようとするたびに背中から続く隆起がずれ、その間に細い線が現れていた。地上からでは見えなかった可動部で、周囲より柔らかいとはいっても人間の皮膚とは比べものにならない。それでも、何層にも重なった装甲を正面から破るよりはましだった。
俺は白い拳へ集めた風を広げず、殻の内側へ圧縮する。
森砕きが身体を起こそうと力を込めると、猪型四匹の脚が地面を削り、蜘蛛型の糸が張り詰めた。巨大な頭は横へ引かれたまま、それでも首の力だけで少しずつ正面へ戻り始めている。
長くは持たない。
隆起の隙間へ拳を振り下ろした。
白い外殻が皮膚へ食い込み、その内側で圧縮していた風が弾ける。鈍い衝撃が森砕きの全身へ伝わり、足元の背中が大きく沈んだ。
硬い皮膚の表面には亀裂が走り、その間から黒い血が滲んだものの、まだ浅い。
拳を引く前に森砕きが首を跳ね上げた。足場が一気に傾き、俺の身体も宙へ持ち上げられる。隆起へ差し込んだ左手だけでしがみついた直後、猪型が引いていた糸の一本が切れた。
地上では一匹の猪型が転がり、残る三匹も引きずられている。蜘蛛型は別の木へ糸を追加しようと走っていた。
森砕きは傷ついた右前脚にも力を入れ、巨体を持ち上げようとする。首に乗った俺を振り落とすだけでなく、拘束している眷属ごと引き倒すつもりらしい。
槍持ち四体が右前脚の傷へ走り、同じ場所へ穂先を集中させた。傷口の縁を広げるもの、さらに奥へ差し込むもの、脚の動く方向へ横から槍を当てるもの。細かく命じたわけではないが、それぞれがこれまでの攻撃で通った場所を選んでいる。
森砕きが脚を振ると、二体は槍から手を離して逃れたが、残る二体は柄ごと持ち上げられた。狼が一体の服を噛んで引き、もう一体には斥候型が木から飛びついて槍を手放させる。
直後、右前脚が地面へ叩きつけられ、泥と黒い血が周囲へ飛び散った。
俺は隆起へ左手を固定したまま、再び右拳を引く。最初の一撃で外側の硬い層には亀裂が入り、同じ場所へもう一度通せば、その奥まで届くはずだった。
だが、森砕きは立ち上がるのをやめ、四本の脚を折って身体を沈め始めた。
背中にいる俺を木へ擦りつけるつもりだ。
左右に残っていた太い幹の一本が迫り、このまましがみついていれば隆起ごと挟まれる。俺は背中を蹴って跳び、近くに張られていた糸を掴んだ。
糸を振り子のように使って反対側へ移った直後、森砕きの背中が幹へ激突する。硬い隆起が樹皮を削り、太い木が根元から大きく揺れた。蜘蛛型の糸も何本か押し潰されたが、俺は首の反対側へ着地する。
森砕きは背中の相手を直接見られないはずなのに、位置を把握しているかのように首全体を木へ押しつけてきた。
隆起の間を走る。
白い殻に覆われた足裏が硬い皮膚へ当たり、乾いた音を立てた。森砕きが動くたびに足場そのものが跳ねるが、狼を吸収して得た身体の使い方は、平らな地面でなくても働いている。
揺れへ逆らわず、次に持ち上がる場所へ足を移しながら首の付け根へ戻ると、最初に殴った亀裂が再び開いた。
そこへ白い指を差し込み、皮膚の縁を掴んで左右へ引く。
簡単には動かない。腕へ力を込めるほど外殻の下で筋肉が軋み、つながったばかりの右腕には鋭い痛みが戻ってきた。
寄生体が応じ、指先から手首、前腕へ白い層を重ねる。厚みを増した殻が亀裂へ食い込み、黒い血が両手を濡らした。
少しずつ傷が開いていく。
森砕きの咆哮が間近で響き、巨体と一緒に俺の身体まで震わせた。鼓膜の奥が痛み、巨大な頭が持ち上がると、猪型につながっていた糸が次々に切れていく。
一匹が牽引用具ごと引き倒され、別の一匹も木へぶつかって動きを止めた。
これ以上は危ない。
猪型へ離れる意図を伝えると、蜘蛛型が牽引用具側の結び目を切った。残った二匹も後方へ下がり、負傷した仲間の周囲へ寄る。
頭を押さえていた力が一気に弱まり、森砕きの首が持ち上がった。俺の身体も後方へ傾いたが、両手は傷口から離さない。
ここで下がれば、同じ場所へもう一度乗れる保証はなかった。
上空から鳥型六羽が降下し、二羽が首の左右へ糸を落とした。別の二羽は隆起へ鉤爪を入れ、残る二羽が森砕きの顔の前を横切って視線を散らす。
蜘蛛型三体も新しい糸へ移り、一体が俺の近くへ降りて傷口の左右へ糸を固定した。二体目は反対側へ回り、三体目が残っている木へ何重にも巻きつける。
猪型ほどの力はなくても、首が完全に上がるまでの時間をわずかに引き延ばせる。
水の術士が杖を振り、地上から伸びた水が弧を描いて俺の両手の間へ流れ込んだ。黒い血と混ざった水が傷の奥から溢れ、硬い外皮の下にある赤黒い肉が見える。
開いた。
俺は右拳を離し、再び風を集める。
森砕きが頭を振ると、鳥型一羽の鉤爪が外れ、身体が横へ飛ばされた。翼を広げ直したものの高度が足りず、折れた木へぶつかって落ちる。
寄生体からの反応は残っている。死んではいない。
もう一羽も離れさせた。これ以上傷つけてまで支えさせる必要はない。
蜘蛛型の糸だけでは首を抑えきれず、森砕きの頭がさらに持ち上がる。足が背中から離れかけたため、左手を傷口の縁へ深く差し込み、身体を固定した。
右拳を振り下ろす。
風が傷の中で弾け、露出していた赤黒い肉を大きく裂いた。
森砕きの前半身が沈む。
それでも倒れなかった。首の奥にはまだ分厚い筋肉が残り、骨まで届いた感触もない。
次の瞬間、森砕きは傷ついた右前脚を引きずりながら、残る三本の脚で地面を蹴った。
俺を背中へ乗せたまま木々の間へ突っ込み、用意していた戦場から外れていく。背中を木へ擦りつけるだけではなく、周囲の拘束が届かない場所まで抜けるつもりらしい。
狼たちは左右から追ったが、槍持ちと術士では速度が足りない。上空の鳥型だけが森砕きと並ぶように飛んでいる。
正面から太い木が迫った。
俺は身体を首の上へ伏せ、隆起の間へ入り込む。森砕きの肩が幹へぶつかると、木は途中から折れ、砕けた枝が白い殻へ当たって背中を削った。
その先にも太い木が並んでいる。
名前のとおりだった。
こいつは、森そのものを砕きながら進む。
だが、止まらないのなら、無理に止める必要はない。
走っている力を、そのまま使えばいい。
俺は左腕を傷口へ深く差し入れた。肘の近くまで赤黒い肉へ沈めると、森砕きの身体が大きく跳ねる。
その内側から白い糸を伸ばした。
人間や眷属へ寄生させるためではない。裂けた組織へ食い込ませ、俺の身体を固定するためだ。
寄生体が筋肉の間へ広がり、左腕が傷口の奥へ縫いつけられたように動かなくなる。
これで振り落とされない。
俺は右手へ雷を集めた。
外皮の上から撃てば散り、浅い傷口へ落とすだけでは前脚ほど水も溜まっていない。ならば、もっと奥へ直接通すしかない。
森砕きが次の木へ衝突した。
衝撃で右肩の外殻が砕けたが、左腕を固定していたため身体までは飛ばされない。
俺は右手を傷口へ押し込み、指先を肉の奥へ沈めた。さらに押し進めると、その先で硬いものへ触れる。
骨だった。
首を支える骨か、その周囲にある関節かは分からない。
白い殻を指先へ集中させ、肉を押し分けながら奥へ入れる。森砕きが激しく首を振り、俺の身体は左右へ叩きつけられた。
外殻が削れ、肩や背中へ衝撃が重なる。
それでも右手を離さない。
雷を放った。
白い光が傷の内部で走り、森砕きの全身が硬直する。踏み出していた脚が地面へ引っかかり、二十メートルの巨体が大きく傾いた。
倒れる。
俺は左腕を固定していた白い糸を切り、両腕を傷口から引き抜いた。そのまま背中を蹴って跳ぶ。
森砕きの巨体が地面へ落ち、木々を巻き込みながら横へ滑った。土が波のように押し出され、折れた枝や石が空へ舞う。
俺も地面へ落ち、何度も転がった。白い殻が背中と肩を守り、最後に木の根へぶつかって止まる。
息を吸い、身体の状態を確かめる。
左腕は血に濡れているが、指も肘も残っていた。右肩の外殻は半分以上失われ、胸を覆う殻にも細い亀裂が広がっている。それでも動ける。
森砕きは地面へ倒れていた。
だが、四本の脚はまだ土を掻いている。
首の傷から黒い血を流しながら、巨大な頭を持ち上げようとしていた。
まだ終わっていない。
俺が立ち上がると、狼たちが集まり、森砕きの顔の周囲へ散った。槍持ち四体も追いつき、負傷した前脚と首の傷を見比べている。
水の術士は杖へ寄りかかり、火の術士も肩を上下させていた。猪型二匹が遅れて現れたが、残る二匹は負傷しているため後方へ置いてきたらしい。
鳥型は五羽が上空を回っている。落ちた一羽の反応も、少し離れた場所から返ってきていた。
蜘蛛型三体も切れた糸を引きずりながら、森砕きの近くへ集まっている。
誰も欠けていない。
森砕きが前脚を地面へついた。
右側には力が入らず、巨体がすぐに傾く。それでも左前脚と後脚を使い、もう一度身体を起こそうとしていた。
ここまで傷ついても、まだ立とうとする。
俺は首の傷へ向かって歩いた。
森砕きの目がこちらへ動く。
もう咆哮は出なかった。口が開き、黒い血の混じった息だけが漏れている。
槍持ちが前へ出ようとしたため、手で止めた。
十分だった。
森砕きは首を振ろうとしたが、巨大な頭が地面を少し擦っただけで止まる。
俺は傷口の前へ立ち、白い拳を握った。硬い皮膚は裂け、その奥の肉も雷で焼けている。
あと一撃で届く。
「終わりだ」
拳を傷口へ叩き込み、風を一点へ押し込みながら雷を放った。
黒い血と白い光が噴き出し、森砕きの頭部が一度だけ持ち上がる。そのまま地面へ落ちると、巨体の奥で続いていた振動が少しずつ弱まっていった。
前脚の爪が土を掻き、長い尾が折れた枝を押す。
やがて、それも止まった。
森から音が消える。
狼たちはすぐには近づかず、鳥型も上空を回り続けていた。蜘蛛型は木の陰で脚を止めている。
俺は森砕きの首へ手を当てた。
硬い皮膚の下に、もう動きはない。
倒した。
二十メートルの身体が森の中へ横たわっている。通過するだけで小動物が消え、小人たちが煙や血の臭いまで隠してやり過ごしていた存在が、目の前で動かなくなっていた。
白い外殻が肩から崩れ始める。胸や腕、脚を覆っていた殻は白い線へ戻り、少しずつ皮膚の下へ沈んでいった。
残ったのは、破れた服と全身へ広がる痛みだった。
寄生体から強い感情が伝わってくる。
空腹とは少し違う。
目の前の巨大な身体へ向けられた、はっきりとした欲求だった。
森砕き一体だけで、これまでの獲物とは比べものにならない量がある。吸収させれば何が起きるのか、俺にも分からない。
横たわる巨体を見上げる。
急いで決める必要はなかった。
まずは負傷した眷属を連れて戻る。
その後で、この森を砕いていたものをどうするか考えればいい。




