第166話 俺の手番
二十メートル級の大型と戦う場所は、先に決めていた。
何度も通った跡を辿り、左右に太い木が残っている場所を選ぶ。大型が歩いたことで中央の若木は倒れ、地面には深い足跡が続いていた。雨水が流れ込んだ跡もあり、周囲よりわずかに低くなっている。
正面から受け止めるつもりはない。
横へ動ける幅を狭め、足を取らせ、ほんの少しでも身体の向きを崩す。そのための場所だった。
蜘蛛型三体には、前日から糸を張らせていた。
地面すれすれの高さへ何本も渡し、落ち葉と土で隠す。一本だけでは意味がない。太い木を起点にして何重にも重ね、大型の前脚が踏み込む位置へ集中させた。
そのうち二束は、猪型の牽引用具へつないである。
四匹の猪型を左右へ二匹ずつ配置し、大型の脚へ糸が絡んだ瞬間、別々の方向へ走らせる。
止めることはできない。
二十メートルの身体と正面から力を比べれば、猪型の方が先に引きずられる。
それでも、着いた脚を半歩ずらすことができればいい。身体がわずかに傾けば、次の一歩が遅れる。必要なのは、その時間だった。
狼五匹は周囲へ散らした。
二匹が大型をこの場所まで誘導し、残る三匹は左右から位置を追う。大型の視線が一方向へ偏りすぎないよう、姿を見せては距離を取らせる。
鳥型六羽は上空。
寄生体を入れたからといって、見えている景色が俺へそのまま届くわけではない。高い場所を飛んでいることや、動きが乱れたことは分かる。森の上から大型を追い、近づいた時に知らせるだけでも役には立つ。
大型の背中へ降りられるかは、実際にやらせてみなければ分からない。
蜘蛛型の糸を入れた小袋を、鳥型二羽の脚へ結びつけてある。背中へ取りつけるなら、その場で糸を垂らし、蜘蛛型が上まで移動する足場にする。
うまくいく保証はなかった。
大型が一度身体を振れば、鳥型も蜘蛛型もまとめて落とされるかもしれない。
蜥蜴人は七体すべて連れてきた。
槍持ち四体は二体ずつ左右へ分け、木の陰へ待機させる。狙うのは脚の付け根と、硬い皮膚の継ぎ目だけだ。正面に立たせるつもりはない。
水の術士は窪地の後方。
あらかじめ地面を濡らし、大型が入ったところでさらに水を流す。泥へ沈めるほどの量は出せなくても、踏み込んだ脚が滑れば十分だった。
火の術士は反対側へ置いた。
大型を焼くためではない。枯れ枝や下草へ火をつけ、逃げてほしくない方向を塞ぐ。森全体へ燃え広がる前に消せる範囲だけを使わせる。
斥候型は高い木の上から全体を見る。
大型の進行方向が変わった時、最初に反応できるのはこいつだ。
それぞれへ伝えたのは、細かな手順ではなかった。
狼は追う。
猪型は引く。
蜘蛛型は糸を張り、切れた場所を補う。
鳥型は上から近づく。
槍持ちは大型が止まった時だけ脚を狙う。
術士は決めた場所から動かない。
一体ずつ動かそうとすれば、俺の方が追いつかなくなる。元から持っている習性と役割へ任せ、危険な時だけ退かせる。
それでどこまで通用するか。
今回は、その確認でもあった。
俺は窪地の手前に立ち、腰のナイフへ触れた。
虎もどきの爪を刃にし、骨を柄へ使ったものだ。四本腕の猿には通じたが、あの大型の皮膚へ入るかは分からない。
火、水、雷、風。
使えるものはすべて使う。
ただし、最初から寄生体を消耗させすぎるつもりはない。
大型の身体を見た限り、長く動ける相手だ。こちらが先に尽きれば、その時点で終わる。
小人たちは拠点へ残した。
戦闘が始まることは、言葉が通じなくても察していたらしい。俺たちが北東へ向かう準備を始めると、猪型の牽引用具を締め直し、鳥型の袋を何度も確認していた。
止めようとはしなかった。
出発する時、一人が虎もどきのナイフの鞘を押さえ、俺の腰へしっかり固定した。
あれが見送りだったのか、単に外れそうだったから直しただけなのかは分からない。
今はどちらでもよかった。
上空を回っていた鳥型の一羽が、北東へ大きく進路を変えた。
少し遅れて二羽目も向きを変える。
寄生体から、警戒に近い反応が返ってきた。
狼たちが一斉に鼻先を上げる。
耳が伏せられ、身体が森の奥へ向いた。
来る。
小動物へ広げた寄生体の反応が、遠い場所から順に止まり始めた。
一つが動かなくなる。
少し離れた場所で、もう一つが地面へ伏せる。
その先にいたものからは、何も返ってこない。
大型が近づくたびに生まれる空白が、ゆっくりとこちらへ進んでいた。
狼二匹を前へ出す。
音を立てて近づき、姿を見せる。攻撃はせず、追わせる。
二匹は木々の間へ消えた。
残る三匹は左右へ広がり、進路の外側を走る。
しばらくして、森の奥から狼の吠える声が聞こえた。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
低い音が返ってきた。
鳴き声というより、空気そのものが震えたような音だった。胸の奥へ響き、周囲の葉が細かく揺れる。
鳥型が高度を上げた。
斥候型が木の上で身体を低くする。
大型が歩く音が、足裏へ伝わり始めた。
初めはわずかな振動だった。
一歩ごとに大きくなる。
地面の上に置かれた小石が動き、蜘蛛型の張った糸が震えた。猪型たちも気づき、前脚で土を掻く。
森の奥で木が軋んだ。
続いて、幹が折れる乾いた音。
狼の一匹が戻ってきた。
全速力ではない。何度も後ろを振り返りながら、決めていた道をこちらへ走る。
その後ろで、枝葉が左右へ押し分けられた。
最初に現れたのは頭だった。
灰褐色の皮膚が、木々の間からゆっくりと出てくる。額から鼻先までが分厚く、骨と皮膚が一枚の盾になったような形をしている。口の両脇からは、短く太い牙が下へ伸びていた。
前に遠くから見た時より、遥かに大きい。
頭部だけで猪型一匹に近い。
太い首の後ろから、長い胴が続いている。背中には硬い隆起が何列も並び、その隙間へ土や枯れ葉が溜まっていた。何年も森の中を歩き続け、表面へ森そのものを貼りつけたように見える。
四本の脚は、古い木の幹に近い太さがあった。
足を置くたびに地面が沈み、持ち上げる時には根と泥が一緒に剥がれる。若木は避けず、枝は押し折り、歩いた跡だけがそのまま一本の道になって残る。
森を進んでいるというより、砕いている。
森砕き。
呼ぶなら、それで十分だった。
尾は長く、根元だけでも俺の胴より太い。左右へ動くたび、低い枝がまとめて払われた。
全長二十メートル。
近くで見ると、それすら短く見積もっている気がした。
森砕きは狼を追って走っているわけではなかった。
速足程度で進んでいるだけだ。
それでも一歩が長く、狼との距離が少しずつ縮まっていく。
狼が予定していた窪地の前を横切った。
森砕きの頭がそちらへ動く。
もう一匹の狼が反対側から姿を見せ、短く吠えた。
森砕きが足を止める。
鼻先を上げ、周囲の臭いを探り始めた。
風向きはこちらから森砕きへ流れている。
隠れる意味はなかった。
俺は木の陰から出て、窪地の手前へ立った。
森砕きの視線がこちらへ向いた。
目は頭部の大きさに比べれば小さい。それでも、何かを認識していることは分かった。
狼よりも小さな俺を見ている。
鼻から白い息が噴き出した。
前脚が地面を掻く。
太い爪が土を削り、深い溝を作る。
槍持ちが木の陰で穂先を構えた。水の術士も杖を両手で握り直す。
俺は動かなかった。
ここへ誘い込むために立っている。
森砕きの喉が膨らんだ。
低い声が森を揺らす。
鳥型が距離を取り、猪型が身体を沈めた。狼たちは木々の間へ下がりながらも、森砕きから目を逸らしていない。
森砕きが頭を下げる。
来る。
最初の一歩で土が跳ねた。
二歩目で身体全体が前へ傾く。
三歩目には、二十メートルの巨体が速度を上げていた。
地面が連続して揺れ、正面にある景色すべてが迫ってくる。
俺はその場に残った。
森砕きの前脚が窪地へ入る直前、水の術士が杖を振った。
地面を流れていた水が集まり、足元へ一気に広がる。乾いていた土が崩れ、深い足跡の周囲が泥へ変わった。
森砕きの右前脚が沈んだ。
巨体がわずかに傾く。
それでも止まらない。
脚を引き抜く力だけで泥が後方へ吹き飛び、そのまま次の一歩を踏み込んだ。
落ち葉の下から、白い糸が持ち上がる。
一本。
二本。
三本。
蜘蛛型の糸が森砕きの前脚へ絡み、硬い隆起の間へ食い込んだ。
左右で待機していた猪型が走り出す。
二匹ずつ、互いに反対の方向へ。
牽引用具へつないだ太い糸が一気に張った。
猪型の脚が土へ沈み、背中の筋肉が盛り上がる。四匹が全身で引き、森砕きの前脚を左右から止めようとする。
歩幅が、初めて短くなった。
右前脚が少し外側へ流れる。
肩が沈み、頭部が下がった。
槍持ち四体が動く。
左右から二体ずつ飛び出し、脚の付け根へ穂先を突き出した。
二本は硬い皮膚へ当たり、甲高い音を立てて弾かれる。
一本は隆起の隙間へ浅く入った。
最後の一本が、そのすぐ下へ重なる。
黒い血が細く流れた。
森砕きが首を振る。
頭部が横へ動いただけで、近くの木へ額がぶつかった。
幹が途中から折れ、槍持ちの一体へ倒れる。
斥候型が上から飛び降り、槍持ちの肩へぶつかった。二体が地面を転がり、倒木の下から逃れる。
森砕きが前脚を持ち上げた。
糸につながれた猪型が引かれる。
一匹が前脚を滑らせ、横倒しになった。それでも牽引用具から糸は外れず、地面の上を引きずられる。
このままでは猪型の方が壊れる。
寄生体へ意図を送る。
外せ。
蜘蛛型三体が木の上から一斉に動く。
猪型側の結び目へ走り、糸を切った。
張力を失った束が跳ね上がり、森砕きの脚へ巻きついたまま地面を打つ。
猪型はすぐに起き上がり、左右へ逃れた。
森砕きが身体を立て直す。
泥も糸も猪型も、止めることはできなかった。
だが、予定していた場所へは入った。
脚には傷がある。
鳥型二羽が高度を下げた。
森砕きの背中へ向かい、一羽が鉤爪を伸ばす。爪は硬い隆起の表面を滑り、引っかからない。
もう一羽が隆起の間へ脚を入れた。
身体を沈め、翼を畳む。
森砕きが背中を大きく揺らした。
鳥型はすぐに飛び立つ。少し遅れて長い尾が振られ、周囲の枝をまとめて薙いだ。
避けきれなかった一羽へ枝が当たる。
黒い身体が横へ流れたが、翼を広げ直して高度を戻した。
森砕きが俺へ向き直った。
狼の動きにも、槍持ちにも反応しない。
最初から立っていた俺を、今度は明確に敵として見ている。
頭が下がる。
前脚が地面へ食い込む。
眷属たちを退かせた。
ここから先は、巻き込まれる距離になる。
胸の奥で寄生体が動いた。
熱ではない。
冷たいものが皮膚の下を走り、胸から肩へ広がる。白い線が浮かび上がり、その上へ硬い殻が重なった。
胸部を覆った白い外殻が、脇腹から背中へ回る。
両肩に厚みが生まれ、腕へ沿って殻が伸びる。肘、手首、指先へ薄い層が重なり、拳を握るたびに硬い音がした。
腹部を守る殻が腰へつながる。
腿から脛、足首へ白い線が走り、踏み込むための形へ固まった。
首元まで伸びた外殻が顎の下を覆う。
視界は残している。
呼吸も動きも止めない。
守る必要のある場所だけを厚くする。
森砕きが前脚で土を掻いた。
泥と落ち葉が後ろへ飛ぶ。
俺は腰を落とし、両手を構えた。
逃げるつもりはない。
眷属たちが作った数秒を、無駄にするつもりもなかった。
「いくぞ! デカブツ! 総力戦だ!」
森砕きが地面を蹴った。
森が揺れる。
二十メートルの巨体が、真正面から俺へ迫った。
俺も走った。
頭部が目の前へ迫る。
正面で受ければ、白い殻ごと押し潰される。
直前で左へ踏み込み、額を避ける。横を通り過ぎる頭部へ、白い拳を下から叩き込んだ。
硬い手応えが腕へ返る。
衝撃だけで身体が浮きかけた。
それでも拳は弾かれず、森砕きの頭がわずかに上がる。
地面へ着くと同時に、もう一歩踏み込んだ。
虎もどきのナイフを抜く。
槍が作った脚の傷では浅すぎる。
狙うのは頭と首の境目。
森砕きがこちらへ首を振る。
分厚い額が壁のように迫った。
白い腕を交差させて受ける。
殻へ衝撃が走り、両足が地面を削った。
止まれない。
十メートル近く押し飛ばされ、背中から木へぶつかる。
幹が大きく揺れた。
白い殻の一部に細い亀裂が入る。
痛みはある。
骨は折れていない。
森砕きが向きを変える。
一度押し飛ばした程度では終わらないと判断したらしい。
再び頭を下げた。
俺は木から背を離し、亀裂の入った外殻を内側から埋める。
寄生体が応じ、白い線が割れ目を塞いでいく。
ナイフを握り直した。
最初の一撃で分かった。
こいつは硬い。
重い。
今までの敵とは、何もかもが違う。
それでも、傷つかないわけではない。
森砕きの前脚には、蜥蜴人が作った黒い血の線が残っている。
額も、俺の拳を受けた場所だけわずかに色が変わっていた。
倒せる。
時間はかかる。
眷属も寄生体も、今まで以上に使うことになる。
森砕きが次の突進へ入る。
狼が左右から現れ、視線を散らす。
蜘蛛型が切れた糸を張り直し、鳥型がもう一度背中へ近づく。
猪型も起き上がり、泥を蹴って配置へ戻っていた。
俺一人の戦いではない。
だが、最後に倒すのは俺だ。
森砕きの進路へ踏み込み、白い拳を構えた。
ようやく、戦闘が始まった。




