第162話 将棋の駒
家を出る前に端末を確認すると、異常空間管理窓口から個別の案内が届いていた。
正式五級を対象とした経路確認活動。候補日は三つあり、参加できない場合も今後の日程調整のため返信を求めると書かれている。
内容だけなら、これまでも届いたものと大きな違いはない。
ただ、今回は一斉送信ではなかった。
最後に公式の異常空間へ入ってから、九日。そろそろ何か言われてもおかしくないとは思っていた。
候補日のうち、最も遅い日を選べば、まだ数日は空く。
返信画面を開きかけて閉じた。
北東の森にいるものを確認するまでは、予定を決めたくなかった。
暗渠へ入り、転移円を経由して五層へ移動する。奥の扉を抜けて六層へ出ると、小人たちの拠点では、狼の背へ載せるための道具がすでに形になり始めていた。
皮紐を組み合わせ、背中から腹へ回す。左右には小さな籠が吊られている。一匹の狼が歩くたび、籠の中に入れられた木の実が揺れた。
昨日連れてきたばかりとは思えない。
今日は狼五匹のうち三匹を連れ出した。残り二匹は拠点の周囲に置き、小人たちを敵と見なさないよう意図を伝えてある。
同行する蜥蜴人は、槍持ち二体、水の術士一体、斥候型一体。これまでと同じ構成だった。
森へ入ると、狼たちはすぐに左右へ広がった。一匹が前へ出て地面の臭いを追い、残る二匹が少し遅れて両側を進む。
俺自身の足取りも、昨日までとは違っていた。
根を跨ぐために歩幅を変える。濡れた苔を避ける。低い枝を潜った直後に、次の足場へ重心を移す。
考えてから動いている感覚が薄い。
狼を吸収した影響だろう。速く走れるようになったというより、森の中で速度を落とす理由が減っている。
蜥蜴人との距離が開きすぎないよう歩調を落としながら、今いる戦力を考える。
狼は追跡と索敵に向いている。蜥蜴人は武器と術を使い、指示が粗くても役割を分けて動ける。ゴブリンは暗渠の上層に残している。小動物は広く散らせるが、北東の大型が近づけば反応ごと消える。
数だけなら増えてきた。
それでも、大型を相手にするには偏っている。
追うものはいる。攻撃するものもいる。
正面から受け止めるものがいない。
将棋なら、同じ動きしかできない駒をいくら並べても、使える手は増えない。
必要なのは数だけではなく、役割だった。
狼の一匹が進路を変えた。
鼻を地面へ近づけ、南東へ向かう。北東の大型がいると見られる方向とは違う。
他の二匹も少し遅れて後を追った。
意図を伝え、狼に合わせて進む。
しばらくすると、掘り返された土が見つかった。木の根元が大きく抉られ、太い根が噛み切られている。周囲には人の腕ほどもある蹄の跡が残っていた。
狼たちが速度を落とす。
前方から、湿った土を押し退ける音が聞こえた。
斥候型が木へ登り、枝の間から先を確認する。すぐに尾を二度振った。
複数いる。
こちらも木々の隙間から覗く。
四匹の獣がいた。
猪に似ているが、狼より二回りは大きい。低い身体の上に土と樹皮が貼りつき、背中から肩にかけて厚い層になっている。牙は左右へ曲がり、先端だけが白く露出していた。
一匹が木の根元へ頭を突っ込む。
首を振っただけで、細い木が根元から傾いた。
あれなら、正面から多少の攻撃を受けても止まらない。
狼が一匹、低く唸った。
猪型の一匹が顔を上げる。続いて残る三匹も動きを止め、こちらへ鼻先を向けた。
風向きが悪かったらしい。
逃げる様子はない。
先頭の一匹が前脚で土を掻いた。
俺は蜥蜴人へ、左右へ分かれる意図を伝えた。槍持ちが一体ずつ動き、水の術士が後ろへ下がる。斥候型は木の上を移動した。
狼には、正面へ出ず、横から注意を引くよう伝える。
細かい位置までは指定できない。
それでも三匹は散り、猪型の周囲を回り始めた。
先頭の一匹が走り出す。
身体が低い。速さも見た目以上だった。
水の術士が杖を振り、進路へ水を叩きつける。土が泥へ変わったが、猪型は足を取られながらも止まらない。
俺は正面から外れ、横へ走った。
猪型が首を振る。曲がった牙が脇腹のすぐ横を通った。
背中へナイフを入れようとしたが、刃先が土と樹皮の層へ食い込み、皮膚まで届かない。
猪型は勢いを殺さず、そのまま木へぶつかった。
幹が大きく揺れ、上から葉と枝が落ちる。
正面から受ける役には十分すぎる。
問題は、寄生体を入れる傷をどう作るかだった。
槍持ちの一体が横から穂先を突き入れる。背中ではなく、前脚の付け根を狙った。刃が浅く入り、猪型が身体を捻る。
狼が後脚へ噛みついた。
すぐに振り払われたが、毛の下に赤い線が残った。
俺はそこへ回り込み、傷口へ左手を触れた。
白い糸が潜り込む。
猪型が大きく跳ね、俺を振り落とそうとした。手を離して距離を取る。
残る三匹も動き出していた。
一匹が槍持ちへ向かい、別の一匹が水の術士を狙う。最後の一匹は狼を追って木々の間へ入る。
寄生体を入れた個体が止まるまで、少し時間がかかった。
身体を左右へ振り、何度も木へ肩をぶつける。その動きが次第に弱まり、やがて頭を下げたまま動かなくなる。
死んではいない。
俺が残る三匹を止めたいと考えると、寄生した猪型は顔を上げた。
向きを変え、術士へ走っていた仲間の進路へ入る。
二つの巨体が正面からぶつかった。
鈍い音が森へ響き、土が跳ねる。
どちらも倒れなかった。
寄生した個体は押し戻されながら、四本の脚を地面へ食い込ませている。仲間の突進を正面から受け、それでも持ちこたえていた。
欲しかったのは、これだった。
動きが止まれば、槍持ちが脚の付け根へ傷を作れる。狼が後ろへ回り、逃げる方向を塞ぐ。
二匹目へ寄生体を送り込むと、今度は二頭で残りを分断した。
四匹すべてを止めるまでに時間はかかった。
蜥蜴人にも狼にも大きな負傷はない。猪型の一匹は槍傷が深かったが、寄生体が入った後から出血は減り始めている。
四匹が並んで立つと、森の中でもかなりの場所を取った。
狼たちは少し距離を空けている。敵ではなくなったことは理解していても、近くに寄りたい相手ではないらしい。
猪型へ前進する意図を伝える。
四匹はすぐには動かなかった。
一匹が鼻を鳴らし、別の一匹が地面を掻く。やがて先頭の個体が歩き出すと、残りも続いた。
狼ほど反応は速くない。
その代わり、正面の藪を避けずに押し分けて進む。細い枝が背中の土と樹皮へ当たり、折れて左右へ落ちた。
荷物も運べる。倒木を動かすこともできる。大型と戦う時には、突進を一度受けるだけでも意味がある。
盤面に、新しい動きの駒が増えた。
ただし、使い捨てるつもりはない。
戸張の意図を受けたとしても、こいつらは元の習性を残した生き物だった。狼も蜥蜴人も同じだ。
駒として考えるのは、役割を整理する時だけでいい。
拠点へ戻ると、小人たちは作業の手を止め、四匹の猪型を見上げた。
狼を連れてきた時より警戒している。牙と体格を見れば当然だった。
一人が少しずつ近づき、背中に貼りついた樹皮を指で叩く。
乾いた音がした。
その小人が仲間を呼ぶように手を振ると、数人が縄と板を持って集まってきた。
狼用の籠を作った翌日に、今度は猪型へ何を引かせるか考え始めたらしい。
俺は端末に届いたままの活動案内を思い出した。
返信すれば、外の記録は一日分増える。
こちらでは、戦うための駒が一種類増えた。
今優先するものは、まだ変わらなかった。




