第16話 証拠隠滅
巨大スライムが消えた後、広間にはしばらく何の音もなかった。いや、正確には音はある。配信者の荒い呼吸。床に落ちた撮影機材。俺自身の心臓の音。だが、さっきまで目の前にあった巨大な半透明の塊が消えたせいで、空間だけが変に広くなったように感じられた。
俺は動かなかった。動けなかった、と言う方が近い。トレッキングポールの先端は曲がっている。石突きの周りには、まだ薄い青緑色の粘液が残っていた。あれを使って、俺は核を砕いた。助走をつけて、配信者の横を抜けて、巨大スライムの体液を突き破った。思い返すだけで、体の奥が冷える。できたことより、できてしまったことの方が怖かった。
「……あの、本当に助かりました。いや、助かったっていうか、命拾いしました。たぶん俺、あと一歩前に出てたら完全にアウトでしたよね」
配信者はまだ床に座り込んでいた。さっきまでの軽さはかなり薄れている。だが、口は動く。怖がっていても喋るタイプらしい。こちらとしては助かる。俺は頷くか首を振るだけで済む。
俺は、通路の方を指差した。帰れ、という意味だ。
「あ、はい。帰ります。帰りますよね、普通。いや、普通はそもそも入らないんですけど。すみません、ほんとすみません」
配信者は慌てて立ち上がり、床に落ちていた撮影機材を拾った。胸元の小型カメラも手で押さえる。さっき録画を止めたと言っていた。たぶん、と付け足した。あの言葉が、まだ頭に残っている。
男は何度も頭を下げながら、通路の方へ向かおうとした。
ふと、思いついた俺はその肩を掴んだ。
「やっぱりここで消されるんでしょうか!?」
変な声を出して、配信者が固まる。俺は腕に力を入れすぎないようにしながら、男をこちらへ向かせた。それから、男の手元の撮影機材を指差す。次に胸元の小型カメラを指差す。最後に、自分の顔を覆うメッシュを軽く指で叩き、首を横に振った。
男の顔に少し血の気が戻った。
「あ、データ。撮影データですよね。そりゃそうですよね。俺でもそうします。というか、俺だったらたぶん殴ってでも止めます。いや、殴らないですけど、気持ちとしては」
喋りながら、男は手持ちの撮影機材をいじり始めた。慣れているのか、手つきは早い。震えてはいるが、操作そのものには迷いが少ない。横の小さな蓋を開けると、中から記録カードを抜き出した。
「これです。こっちは手持ちの方。で、胸のカメラは……ちょっと待ってください。今外します」
男は胸元の小型カメラを外し、裏側の蓋を開けた。そこからも小さな記録カードが出てくる。二枚。俺は手を出した。男は一瞬だけ躊躇したが、すぐに差し出した。
「ライブじゃないです。収録です。電波も中では入ってなかったと思います。だから、たぶんまだどこにも――」
たぶん。
俺は男の言葉を聞き終える前に、記録カードを親指と人差し指で挟んだ。小さい。軽い。こんなものの中に、さっきの全部が入っているかもしれない。俺の異常な動きも、巨大スライムも、顔を隠した姿も。
力を込める。
ミシ、と音がした。
思ったより、あっさり割れた。プラスチックの外装が歪み、中の薄い板がひび割れる。もう一枚も同じように潰す。指先に硬い感触があり、次の瞬間にはそれが砕けていた。小さな黒い破片が、俺の手のひらに残る。
配信者は、その破片を見ていた。
それから、俺の指を見た。
「……えっと、これ、世間にばらしたら、俺もこうなるってことですか?」
俺は何も言わなかった。脅すつもりでやったわけではない。記録を残したくなかっただけだ。いや、本当にそれだけだったのかと聞かれると、少し自信がない。少なくとも、目の前で壊せば、男が余計なことをしにくくなるとは思っていた。
否定するには、声を出す必要があった。
だから、俺は黙っていた。
「分かりました。言いません。何も言いません。俺、今日は虫探しに来て、変な穴を見つけて、怖くなって逃げた。そういうことにします。いや、それもだいぶ変ですけど、今のやつよりはましです」
俺は破片を床に落とさず、リュックから小さなビニール袋を出して入れた。砕けた記録媒体でも、ここに捨てる気にはなれない。何がどう残るか分からないし、ダンジョン内に余計なものを残すのも嫌だった。
もう一度、通路の方を指差す。
「あ、はい。帰ります。今度こそ帰ります。絶対に寄り道しません。虫も見ません。何か動いても見ません」
男は早口で言い、撮影機材を抱え直した。胸元のカメラは電源を落としたらしく、赤い光は消えている。手持ちの機材も同じだ。男は足元を確認しながら通路へ向かった。さっきまでの危機感のなさは、少しは削れたらしい。遅すぎるが、ないよりはいい。
広間の入口近くまで行ったところで、男は一度だけ振り返った。
「本当に、ありがとうございました」
俺は頷かなかった。ただ、出口の方を指差したままにした。男はそれ以上何も言わず、通路の奥へ消えていった。足音は慎重だった。さっきとは違う。ようやく、ここが虫を探す場所ではないと理解したのだろう。
男の気配が遠ざかってから、俺は大きく息を吐いた。声を出さずに済んだ。顔も、たぶんまともには映っていない。記録媒体も壊した。安全とは言えないが、最低限の処理はしたはずだ。
ただ、最低限でしかない。
俺は広間に残ったものへ目を向けた。巨大スライムの体は完全に消えている。床には、濁った青緑色の核片が数個と、小型スライムのものよりはるかに大きい灰色の結晶が残っていた。光を当てると、奥で微かに鈍い光が揺れる。魔石。そう呼べるものなのかは分からないが、ただの石ではない。
手袋を確認し、ビニール袋をもう一枚出す。直接触りたくはなかった。結晶は見た目より重かった。掌に乗せると、ずしりと沈む。核片の方は半透明で、割れた飴のようにも見える。だが、表面にはまだぬめりが残っていて、綺麗だとは思えなかった。
曲がったトレッキングポールも回収する。先端近くがわずかに歪んでいた。ロック部分も少しおかしい。もう普通には使えないかもしれない。それでも、置いていくわけにはいかない。俺が使ったものだ。ここに残せば、誰かが見つけるかもしれない。
広間の奥へライトを向ける。
行くべきではない。さっきまでの出来事を考えれば、すぐに引き返すのが正しい。配信者も帰らせた。巨大スライムも倒した。初めてのボス部屋らしき場所で、生きている。それだけで十分すぎる。
だが、俺は動かなかった。
広間の奥に、低い石段のようなものが見えた。自然にできた段差ではない。三段ほどの黒い石段。その上に、小さな箱のようなものが置かれている。箱と言っても、木製ではない。黒ずんだ石か金属のような素材でできた、手のひら二つ分ほどの小さなものだ。
宝箱。
また、そういう言葉が頭に浮かんだ。
俺は思わず笑いそうになった。スライム、魔石、ボス部屋、今度は宝箱か。世界はどこまでゲームじみれば気が済むのか。だが、笑えない。ここでは、そういう馬鹿げた単語が現実になっている。
ただ、馬鹿げた現実を求めて、俺はこんな事をしている。
箱にはすぐには触らなかった。罠があるかもしれない。ネットでは、宝箱に罠があるだのないだの、半分冗談みたいに騒がれていた。あの時は他人事だった。今は、冗談で済ませる気になれない。
トレッキングポールの曲がった先端で、箱の周りの床を軽く突く。何も起きない。次に、箱そのものを少し押す。動かない。蓋らしき部分に隙間はある。罠の解除方法など分かるはずもない。俺はしばらく眺め、結局、手袋越しに慎重に蓋へ触れた。
開いた。
あまりにも普通に開いたので、逆に怖かった。中には、小さな瓶が一本入っていた。親指ほどの太さで、長さは十センチほど。透明な液体が半分ほど入っている。瓶の口は、蝋のようなもので封じられていた。
ポーション。
そう思った。思っただけで、確証はない。飲むのか、かけるのか、毒かも分からない。けれど、ダンジョンのボス部屋らしき場所で、スライムを倒した後の小さな箱に入っていた液体だ。何かしらの効果があるのは間違いない。
俺は瓶もビニール袋に入れた。これ以上は危ない。そう判断した。欲を出せば、また何か起きる。ボスを倒したから安全とは限らない。配信者を帰らせた以上、こちらも長居するべきではなかった。
そう思ったのに、ライトの光が石段のさらに奥を拾った。
宝箱の後ろ、壁の陰に、下へ続く階段があった。
俺は息を止めた。
細い階段だった。人一人が通れるくらいの幅しかない。黒い石でできていて、数段先からもう闇に沈んでいる。上から見るだけでは、どこまで続いているのか分からない。水門から入ったはずの場所に、ボス部屋があり、その奥に階段がある。考えるほど馬鹿馬鹿しい。だが、目の前にある。
下りるべきではない。
俺は顔も声も隠したが、ここに長く残る理由はない。リュックには魔石らしきものも、核片も、謎の瓶も入っている。十分すぎる収穫だ。
なのに、足は階段の方へ向いていた。
怖い。
だが、見たい。
この感情が一番厄介だった。暗渠の横道を見つけた時と同じだ。戻るべきだと分かっているのに、奥を見たい。何があるのか知りたい。そう思っている自分に、嫌なほど覚えがある。
ただ、あの時とは違う。
今の俺は、何も知らない会社員ではない。ゴブリンを倒した。小型スライムを倒した。大型スライムの核を砕いた。足は以前より速い。視界も、反応も、明らかに変わっている。敵を見てから逃げるくらいなら、できるかもしれない。
そう考えた瞬間、背筋が冷えた。
できるかもしれない。
その言葉が危ない。
俺は曲がったトレッキングポールを見た。武器としてはもう頼れない。少なくとも、さっきのような使い方は無理だ。代わりに、足元の石片をいくつか拾った。黒く硬い、拳より少し小さいものを三つ。小型スライムなら核を狙えば石でも倒せる。ゴブリン相手でも、目や足元を狙えば逃げる隙くらいは作れるかもしれない。
武器と呼ぶには頼りない。
だが、今の俺の手で投げれば、ただの石でもただの石では済まない。
俺は石をポケットに入れ、ライトを階段へ向けた。闇は深い。水音は聞こえない。代わりに、乾いた石の匂いが下から上がってくる。目の奥が、薄く熱を持った。
帰るべきだ。
そう思いながら、俺は階段の一段目に足をかけた。




