第15話 クリティカルヒット
巨大スライムは、すぐには飛びかかってこなかった。床に落ちた衝撃で半透明の体を大きく波打たせ、広間の中央寄りから入口側へ、ゆっくりと形を整えている。幅も高さも、人間一人を包むには十分すぎる。俺は一瞬、なぜ直撃しなかったのかを考えた。広間は広い。二十メートル四方はある。スライムは中央付近の天井に張りついていて、そこから入口近くへ落ちてきた。配信者を狙ったのだろうが、距離が足りなかった。だから、目の前に落ちた。
配信者は固まっていた。ライト付きの撮影機材を持ったまま、口を半開きにして、目の前の巨大な塊を見ている。足元には、落下の衝撃で飛んだ粘液が散っていた。靴の先に、薄い青緑色の液体が絡みついている。まだ動ける。だが、本人は動いていない。
「え、いや、え? これ、本物……? いや本物だよな。え、これ逃げた方がいいやつ……?」
逃げた方がいいに決まっている。
俺は声に出さなかった。顔は隠せている。だが、声は残る。相手はカメラを持っている。胸元の小型カメラがまだこちらを向いているかもしれない。撮影機材のどこかで録音が続いているかもしれない。ここで叫べば、俺の声が残る。顔をメッシュで隠した意味が半分消える。
それでも、何もしないわけにはいかなかった。巨大スライムの体が、配信者の方へ伸び始めている。速くはない。だが、あれに捕まったら終わりだ。取り込まれる。息ができなくなる。服も皮膚もどうなるか分からない。小型スライムとは違う。サイズも、圧も、体液の量も違いすぎる。
助けたいから動くのか。そう考えかけて、すぐに違うと思った。ここで死なれると困る。カメラがある。声も入っている。俺の姿も、たぶんどこかには映っている。行方不明になれば警察が動く。動画データが残れば誰かが見る。何より、目の前で人が溶けるかもしれないのを見て、そのまま背を向けられるほど、俺はまだ割り切れていなかった。
そういうことにして、俺は動く理由を作った。
右手には、広間の前で抜いていたトレッキングポールがある。ボス部屋かもしれないと気づいた時点で、リュックの横から外していた。顔を隠す前に伸ばし、ロックもかけてある。水路や暗い通路で足元を見るための杖。登山用品。武器ではない。だが、先端のゴムキャップを外せば、金属の石突きが出る。
時間が、薄く伸びた。
そう感じた。
巨大スライムの体が、配信者の足元へ向けて広がっていく。半透明の体内で、濁った球が揺れていた。核。小型スライムの時にも見たものだ。ただし、こちらは大きい。十五センチほどはある。鈍い灰色の球が、落下の衝撃と前へ伸びようとする体液の流れに遅れて、わずかに入口側へ寄っている。普段なら分厚い体液に守られているはずの核が、その一瞬だけ浅い位置に見えた。
届く。
そう思った瞬間、俺の左手はポールの先端へ動いていた。指先がゴムキャップをつまむ。力任せではない。爪をかけ、ひねり、引き抜く。動きが妙に正確だった。焦りで震えているはずなのに、指だけが冷静すぎる。外れたゴムキャップが手の中に残り、石突きがライトを受けて鈍く光った。
配信者が、ようやく一歩下がろうとした。だが、靴底に絡んだ粘液のせいで足がもつれる。
「あ、やば、靴が――」
遅い。
俺は床を蹴った。
景色が流れた。自分で走った感覚より、体が前へ撃ち出された感覚に近かった。足裏が黒い石を捉え、膝が沈み、次の瞬間には距離が縮んでいる。メッシュ越しの視界が揺れる。風が顔の布を叩く。広間に踏み込んだと理解するより先に、俺は配信者の横を抜けていた。
左肩で、配信者の体を押しのける。
「うわっ!?」
配信者が後ろへ倒れ込む。悪いとは思った。だが、丁寧に退かしている時間はなかった。巨大スライムの表面が波打つ。さっきまで配信者を狙っていた体液が、こちらの動きに反応して遅れて膨らむ。だが、まだ遅い。俺を敵として捉えきっていない。落下直後。取り込みの初動。核が浅い。隙はそこにしかなかった。
最後の一歩で、体が勝手に沈んだ。足、腰、背中、肩、腕。ばらばらだった部品が、一本の線になる。トレッキングポールを両手で握る。石突きの先が、半透明の体へ向く。投げるのではない。押し込む。全身の勢いを、細い一点に集める。
石突きが、スライムの体液に触れた。
抵抗があった。水ではない。ゼリーでもない。粘つく肉のようなものが、ポールの先端に絡みつき、勢いを殺そうとする。普通なら止まる。腕だけなら届かない。だが、俺の体は止まらなかった。足が床を噛み、腰が前へ入る。肩が押し出される。腕がそれに遅れずつながる。自分でも気持ち悪いくらい、動きに無駄がなかった。
体液が割れた。
石突きが奥へ進む。
濁った核が、目の前で大きくなる。硬い。そう分かった。見ただけで分かった。表面は柔らかい体液に守られているが、核そのものは硬い。けれど、硬いだけなら割れる。細い一点で、正しい角度から、十分な勢いを乗せれば。
甲高い音がした。
石突きが核に当たり、白い亀裂が走った。次の瞬間、濁った球が内側から砕ける。割れたガラスのような音と、湿ったものが潰れる音が重なった。巨大スライムの体が、全体で大きく震える。波打っていた体液が一瞬だけ持ち上がり、それから支えを失ったように崩れた。
俺はポールを引き抜こうとした。だが、粘液が絡みついて抜けない。無理に引いた瞬間、先端近くが嫌な音を立てた。曲がった。構っていられない。俺はポールを手放し、後ろへ跳んだ。足元に広がる体液を踏まないよう、床の乾いた場所を選ぶ。自分で選んだというより、足がそこへ行った。
巨大スライムは、形を保てなくなっていた。半透明の体が床に広がり、重い粘液のように崩れていく。まだ動くかもしれない。そう思って身構えたが、核が割れた場所から全体が薄くなり始めている。小型スライムの時と同じだ。体液が床へ吸われるように消えていく。量が多いせいで時間はかかるが、復元する気配はなかった。
配信者は尻餅をついたまま、こちらを見上げていた。顔はさっきより白い。撮影機材は手から落ち、床に転がっている。胸元のカメラが赤い小さな光を点けていた。
「……え、今、何が起きました?」
俺は答えなかった。
答えられるわけがない。俺が聞きたいくらいだった。俺が突いた。それは間違いない。走ったのも俺だ。ポールを握ったのも俺だ。核を割ったのも、たぶん俺の手だ。だが、あの踏み込みを俺だけでやったとは思えない。あの角度を、あの速度を、あの迷いのなさを、自分のものだと言い切れなかった。
配信者は、巨大スライムが消えていく床を見て、俺を見て、また床を見た。
「あ、あの……助けてくれた、んですよね?」
俺は少し迷ってから、短く頷いた。
「ありがとうございます……いや、ほんとに。今の、俺、普通に死んでましたよね?」
頷く。
「ですよね……」
配信者は乾いた笑いを漏らした。すぐにその笑いは引きつった。足元に残った粘液の跡を見て、ようやく自分が何に近づいていたのか理解したらしい。遅い。あまりにも遅い。だが、生きている。少なくとも今は。
俺は転がっている撮影機材を指差した。次に、配信者の胸元のカメラを指差す。それから、首を横に振った。
「あ、撮影……あ、そうですよね。止めます。止めます、今すぐ」
配信者は慌てて胸元のカメラを外し、震える指で操作した。ライトのせいで画面までは見えない。本当に止まったのかは分からない。床に落ちた機材の方にも手を伸ばす。こちらも何度かボタンを押してから、配信者は俺の方を見た。
「止めました。たぶん。いや、すみません、こういう時にたぶんって言うのもあれなんですけど……止めたと思います」
俺は黙ったまま、配信者を見た。
たぶん。
その二文字で、胃のあたりが重くなった。最悪はまだ終わっていない。映像が残っているかもしれない。音声も残っているかもしれない。俺が巨大スライムへ走り、トレッキングポールで核を砕いた場面が、どこかの記録媒体に入っているかもしれない。
巨大スライムの体は、ほとんど消えていた。床には、濁った破片と、拳ほどもない結晶のようなものが残っている。さっきの小型スライムとは比べものにならない大きさの欠片だ。魔石なのか、核片なのか、別の何かなのかは分からない。だが、間違いなくダンジョン産の何かだった。
配信者もそれに気づいたらしい。
「……あれ、残ってますよね。ドロップ、ってやつですか?」
俺は答えず、ゆっくり首を横に振った。知らない、という意味で。配信者がその意味を正しく受け取ったかは分からないが、少なくとも近づこうとはしなかった。さっきまでの危機感のなさが、ようやくどこかへ引っ込んだらしい。
俺は曲がったトレッキングポールへ目を向けた。先端は巨大スライムの消えかけた跡に半分埋もれ、石突きの周囲には濁った核の欠片が絡みついている。もう登山用品としては使えないかもしれない。それでも、あれがなければ終わっていた。少なくとも、配信者は死んでいた。
俺は息を吐いた。
声は出さない。
出してはいけない。
まだ、この男が何者なのか分からない。どこまで撮っていたのかも分からない。俺のことをどう受け取ったのかも分からない。助けたから安全になったわけではない。むしろ、助けたせいで厄介ごとが増えた気すらする。
配信者は膝に手をつきながら立ち上がった。さっきまでの勢いは消えている。けれど、完全に折れてはいない。恐怖と興奮が混ざった顔で、広間と俺を交互に見ている。
「あの、俺、帰った方がいいですよね?」
俺は、強く頷いた。
「ですよね。はい。帰ります。帰るんですけど……その、あなたは?」
俺は答えなかった。
広間の奥はまだ暗い。ボスらしき巨大スライムは倒した。だが、それで終わりなのかどうかは分からない。入口まで戻れるのか。ボス部屋の外へ出られるのか。拾うべきものはあるのか。撮影データをどうするのか。考えることが多すぎる。
俺は顔のメッシュ越しに、配信者を見た。男は何か言いたそうに口を開き、結局閉じた。そして、小さく頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
俺は頷かなかった。
代わりに、通路の方を指差した。帰れ、という意味で。
配信者は何度も頷き、撮影機材を抱え直す。今度は足元を何度も確認していた。遅すぎる学習だったが、しないよりはましだ。
俺は広間に残った結晶と、曲がったトレッキングポールと、配信者のカメラを順番に見た。
助けた。
確かに助けた。
だがその結果、俺はまた一つ、説明できないものを増やしていた。




