第14話 迷子の迷子の危機感さん
背後の足音は、思ったより早く近づいていた。こちらは足元を確認しながら進んでいる。罠があるかもしれない。スライム以外の魔物がいるかもしれない。そもそも、ここは水門の横道から繋がった正体不明のダンジョンだ。慎重にならない理由がない。だが、後ろの男は違った。足音に迷いがない。時々立ち止まっている気配はあるが、警戒しているというより、カメラの向きを変えたり、何かを撮ったりしているだけに聞こえる。
「いや、これ完全にダンジョンじゃない? 水門の奥でこんなの見つかることある? 虫探しに来たんだけどな……」
遠くから聞こえる声に、俺は内心で頭を抱えた。虫探しに来たなら虫だけ探して帰れ。いや、そもそも水門の中に入るな。もっと言えば、黒い石の横道を見つけた時点で通報して離れろ。そう思うが、声の主は止まらない。むしろ、少し楽しそうですらあった。
俺は速足で進みながら、何度も後ろを振り返りたくなるのをこらえた。振り返ってライトを向ければ、こちらの位置を教えることになる。かといって、このまま進めば未知の奥へ行くしかない。右も左も壁。道は一本道。戻れば配信者、進めばダンジョン。選択肢の形をしているだけで、まともな選択肢は一つもなかった。
通路はゆるく曲がりながら続いていた。黒い石の壁はところどころ湿っているが、床そのものは乾いている。水門から入ったはずなのに、水の気配はほとんど消えていた。代わりに、乾いた石と土の匂いが濃くなる。目の奥はずっと薄く熱を持っていて、左腕の古傷も服の下でかすかに反応している。ここが普通の地下通路ではないことは、もう疑いようがなかった。
しばらく進むと、前方の闇の質が変わった。通路の先が開けている。ライトの光が壁に当たらず、奥へ吸い込まれていく。俺は足を止め、ゆっくり光を動かした。そこだけ、明らかに広い空間になっている。通路が急に膨らんだような場所。天井も高い。奥までは光が届かない。床は平らに見えるが、中央付近だけ妙に暗い。
ボス部屋。
頭に浮かんだ単語を、俺は即座に否定したかった。ただ広いだけの部屋かもしれない。水門の奥にできた異常空間なら、途中に広い場所があってもおかしくない。そう思おうとした。だが、ここはもう水門ではない。さっき俺はスライムを倒した。粘液が消えた後に、核と魔石らしきものまで残った。希望的観測にも限度がある。
俺は広間の手前で立ち止まり、ライトを下げた。入るべきではない。少なくとも、何も考えずに踏み込む場所ではない。通路の端に身を寄せ、背後の音を確認する。配信者の足音は近づいている。距離はまだあるが、さっきより確実に近い。しかもペースが落ちない。
こっちはボス部屋かもしれない場所の前で人生を考えているのに、後ろの男は遠足の速度で近づいてくる。何でだ。後ろの人間は危機感をどこに置いてきた。
このまま顔を見られるのはまずい。俺はリュックを下ろし、虫除け用に入れていた日除け帽子を取り出した。つばが広く、首元まで布が垂れ、顔の前にも薄いメッシュが下りるタイプのものだ。水辺や草むらで虫を避けるために買った。まさかダンジョン内で顔バレ防止に使うことになるとは思わなかった。
帽子をかぶり、顔の前にメッシュを下ろす。視界は少し暗くなるが、見えないほどではない。ヘッドライトの位置を調整し、メッシュ越しでも足元が見えるようにする。鏡がないので自分の姿は分からないが、たぶんかなり怪しい。水門の奥で、虫除け帽子をかぶって無言で立っている男。自分で想像しても、関わりたくない。
それでも、素顔を撮られるよりはましだった。
背後の足音が止まった。ライトの光が、曲がり角の向こうで揺れる。配信者が近い。俺は広間の手前、壁際に立ったまま動かなかった。声をかけるべきか。来るなと言うべきか。だが、言えば会話が始まる。会話が始まれば、説明が必要になる。ここで何をしているのか。さっきの音は何か。顔を隠している理由は何か。答えられることが一つもない。
考えているうちに、男が曲がり角から姿を現した。
年は二十代後半から三十代くらいだろうか。アウトドア用の服に、長靴に近い靴。肩から虫捕り網のようなものを下げ、小型のケースを腰につけている。胸元には小さなカメラ、片手にはライト付きの撮影機材。顔は興奮で少し紅潮していた。目が合う前に、男はまず広間を見て、それから俺に気づいた。
「うわっ、人いた!?」
こっちの台詞だ。
俺は声に出さず、壁際に立ったまま男を見る。男は驚いて一歩引きかけたが、すぐにカメラを少し下げた。
「あ、すみません。撮影してますけど、顔は映さないようにします。えっと、もしかして探索者の方ですか?」
俺は答えなかった。答えられなかった。探索者ではない。登録もしていない。そもそも、ここが正式にダンジョンかどうかも分からない。分からないが、スライムを倒してドロップらしきものを拾った直後だ。正直に言えることが何もない。
沈黙が数秒続いた。男は少し困ったように笑い、俺の顔を覆うメッシュを見て、さらに気まずそうに視線を逸らす。
「えーと……虫対策、ガチですね。いや、ここ、虫どころじゃないですけど」
何を和ませようとしているんだ。
俺は内心で呻いた。会話を広げるな。そこで引け。帰れ。撮影機材をしまえ。そして通報しろ。だが、男は俺の沈黙を拒絶というより、ただの無口な先客だと受け取ったらしい。視線はすでに俺ではなく、前方の広間へ向いていた。
「この先、広くなってます? ちょっとだけ見てもいいですかね。いや、すごいなこれ……」
俺は止めようとした。少なくとも、手を上げるくらいはするべきだった。だが、その前に頭の中でいくつもの計算が走った。声を出せば録音される。手を伸ばせば触れる距離になる。強く止めれば揉める。弱く止めれば無視される。相手はカメラを持っている。こっちは顔を隠している。広間は怪しい。背後は一本道。全部が面倒だった。
その数秒が、最悪だった。
男は俺の横を通り過ぎるようにして、広間の入口へ近づいた。危機感がない。いや、本人なりには警戒しているつもりなのかもしれない。ライトを広間へ向け、足元を照らし、カメラの角度を調整している。だが、それはダンジョンに入った人間の警戒ではない。珍しい虫がいそうな場所を覗き込む時の動きだった。
「うわ、広っ。これ、マジで何なんだ……?」
男が広間へ一歩踏み入れた。
その瞬間、目の奥が強く熱を持った。
俺は反射的に上を見た。男はまだ前を見ている。広間の中央、床、壁、奥の暗がり。上を見ていない。俺の口が動いた。
「っ、」
声になる前に、天井が落ちた。
正確には、天井に張りついていたものが落ちてきた。半透明の巨大な塊。さっきのスライムをそのまま何倍にも膨らませたようなものが、暗い天井から剥がれ、重力に従って真下へ落下する。薄い青緑色の体がライトを受けてぬらりと光り、中に大きな濁った核のようなものが浮いていた。
べちゃり、ではなかった。
どん、でもない。
どーーん。
そう書くしかない音だった。
巨大なスライムは、男の目の前に落ちた。直撃はしていない。ほんの一歩前。あと少し進んでいれば、頭から飲まれていたかもしれない位置だ。床が震え、粘液のような体が波打つ。衝撃で飛んだ水っぽいしぶきが、男の靴とズボンにかかった。
男は口を半開きにしたまま固まっていた。カメラもライトも、巨大スライムに向いたままだ。数秒前まで撮れ高を気にしていた顔が、きれいに空白になっている。
俺は無言で頭を抱え、のけ反った。
(馬鹿がよお!)。
声には出さなかった。出していたら、たぶん全力だった。
巨大スライムの表面が、ゆっくり波打つ。男のライトを受けて、体内の濁った核が鈍く揺れた。さっき倒した小型とは比べものにならない。大きさは、人間を丸ごと包めそうなほどある。広間の天井から落ちてきたということは、最初からそこにいたのだ。俺がボス部屋だと思った広い空間で、天井に張りつきながら待っていた。
男が、ようやく声を出した。
「……ス、スライム?」
そこで確認するな。
俺は顔のメッシュ越しに、男と巨大スライムを見た。助けるべきか。逃げるべきか。隠れるべきか。選択肢が一気に頭の中を埋める。だが、巨大スライムはもう動き始めていた。ゆっくりと、だが確実に、目の前で固まっている男の方へ体を伸ばしている。
状況は、またしても最悪だった。
しかも今回は、俺一人の問題ではなくなっていた。




