第13話 水門ダンジョン
水門に入ると決めた時点で、俺の中では半分くらい結論が出ていたのだと思う。危険だ。やめた方がいい。昨日撮った写真だけでも通報する理由にはなる。分かっている。分かっているが、あの奥から感じた臭いのようなものを、ただの気のせいで済ませることはできなかった。
装備は最低限にした。ヘッドライト、懐中電灯、手袋、水、救急セット、ホイッスル、折りたたんだトレッキングポール。リュックに詰めながら、少しだけ自分に呆れる。会社を辞めて、ダンジョンを探して、目から何かに入られて、今度は水門に潜る。順番に並べると、人生の軌道修正というより、坂道を転げ落ちているようにしか見えない。
それでも、今は進むしかない。そう言い聞かせる。進むと言っても、無茶はしない。水門の奥を確認するだけだ。危険を感じたら戻る。昨日の暗渠には行かない。人に見られたら散歩中に興味本位で覗いただけの顔をする。通用するかは分からないが、何も考えないよりはましだった。
水門は昨日と同じように、日差しの下で普通にそこにあった。青緑色の鉄扉、コンクリートの斜面、浅い水路、注意書き。見た目はただの治水設備だ。だが、近づくにつれて、目の奥がじわりと熱を持つ。鼻ではない場所で、あの臭いを嗅いでいる。水と苔と錆びた鉄の奥に、乾いた石の気配が混じっていた。
周囲を確認する。堤防の上に人影はあるが、こちらを見ている者はいない。自転車が通り過ぎるのを待ち、俺は斜面を下りた。コンクリートは少し湿っている。足を滑らせないよう慎重に進む。こういう時、昨日から変わった足場の読みやすさが嫌でも役に立った。
水門の開口部に近づくと、外の音が少し遠くなった。かわりに水の音が濃くなる。鉄とコンクリートに反響した低い音。奥は暗い。懐中電灯を向けると、水路の上に狭い通路のような空間が続いていた。見た目は水門の内部だ。少なくとも、入口から見える範囲はそうだった。
俺はライトを持ち直し、浅い水の脇を進んだ。足元の幅は狭いが、歩けないほどではない。しばらくはコンクリートの壁が続いた。湿った匂い。苔の色。天井から落ちる水滴。普通の水路に見える。俺は何度も自分に言い聞かせた。異常があれば帰る。入るのは確認だけ。昨日の暗渠とは違う。
十数メートルほど進んだところで、右手の壁際に横道があった。
俺は足を止めた。点検用の通路ではない。排水設備にも見えない。水路の壁に、そこだけ無理やり別の空間を差し込んだような穴が開いている。奥は黒い。ライトを向けても、光が途中で沈むように見える。コンクリートの縁は途中から黒ずんだ石に変わり、水の近くなのに、そこだけ乾いた空気が流れていた。
あるはずがない。
そう思った。
少なくとも、普通の水門にこんな横道があるとは思えない。水路としての構造から外れている。工事で作られた通路にも、点検用の逃げ道にも見えない。そこだけが、昨日の暗渠の奥と同じ匂いをしていた。
目の奥が熱を持つ。
ここだ。
そう思ったのが、俺なのか、中の何かなのかは分からなかった。だが、足は横道の方へ向いていた。俺は立ち止まり、深く息を吐く。まだ戻れる。ここで写真を撮って帰ることもできる。いや、帰るべきだ。そう考えながら、俺は横道の入口にライトを向けた。
奥は見えない。
見えないなら、入るな。
その当たり前の判断を、俺は数秒だけ握っていた。握って、握り潰した。自分で潰したのか、潰されたのかは分からない。ただ、次に気づいた時には、俺は横道へ足を踏み入れていた。
横道の中は、水門の湿った空気とは違っていた。足元から水の気配が消え、床はざらついた黒い石へ変わる。壁も、天井も、どこか歪んだ石造りの通路になっていた。水路の音は背後で急に遠ざかる。たった数歩しか進んでいないはずなのに、外の気配が薄くなる。
当たりだ。
今度は、認めるしかなかった。
俺はヘッドライトを点け、手持ちのライトと合わせて奥を照らした。通路は緩く曲がりながら続いている。幅は人が一人歩くには十分だが、二人並ぶには狭い。床は濡れていない。代わりに、乾いた土と石の匂いがする。暗渠で感じたものと似ているが、まったく同じではない。あちらが古い石室の匂いなら、こちらは閉じた地下道の匂いだった。
しばらく進んだところで、背後から声がした。
「……え、何これ。水門の中にこんな道ある?」
俺は足を止めた。声はかなり遠い。普通なら聞こえない距離だと思う。水門の水音と、黒い石の通路の反響に混じって、かすかに耳に引っかかっただけだ。だが、確かに人の声だった。
誰かが横道を見つけた。
そして、入ってきている。
声は一人分だった。複数ではない。独り言にしては少し大きい。誰かと会話しているというより、カメラに向かって喋っているような調子だった。
「いや、これヤバくない? 完全に人工物じゃないっていうか……虫、いるかな。いや、虫どころじゃないか、これ」
最悪だ。
俺は口の中で呟いた。生き物を探しに来た人間。たぶん動画撮影。ライブかどうかまでは分からないが、カメラを持っている可能性は高い。俺がここにいるところを撮られたらまずい。説明できることが何もない。
戻るか。そう考えて、すぐに却下した。戻れば鉢合わせる。相手がただの生物系配信者だとしても、こんな場所でリュックを背負った男が奥から出てきたら、どう見ても怪しい。しかも俺は、すでに普通の水門ではない場所に踏み込んでいる。
先へ進むしかない。
嫌な結論だったが、それしかなかった。俺はライトを少し下げ、足音を抑えて奥へ進んだ。通路はさらに水門らしさを失っていく。水音は背後へ遠ざかり、代わりに自分の呼吸と靴底の音がやけに大きく聞こえる。壁は黒い石で、時々、薄い筋のような模様が走っていた。触りたくはなかった。
曲がり角の先で、俺は足を止めた。通路の中央に、何かがいた。
最初は、落ちている袋かと思った。半透明の塊。薄い青緑色で、光を当てると中がぼんやり透ける。大きさは縦横五十センチほど。水ようかんを雑に固めて床に置いたような質感だった。だが、それはゆっくりと脈打っていた。表面が波打ち、内側に浮いた小さな濁った粒が、わずかに動く。
スライム。
そう呼ぶしかないものだった。
俺は息を止める。ゴブリンほどの恐怖はない。牙も爪もない。だが、正体不明の生き物が通路を塞いでいるというだけで十分に厄介だった。近づきたくない。触りたくない。できれば迂回したい。だが通路は狭く、横を抜けるにはかなり近づく必要がある。
足止めを食らうわけにはいかない。背後には人がいる。相手がどれくらい近づいているかは分からないが、のんびり観察している余裕はない。俺は足元に落ちていた石を拾った。黒ずんだ、小さな拳ほどの石片だ。投げて反応を見る。最初はそれくらいのつもりだった。倒せるとは思っていない。ただ、動くのか、こちらへ向かってくるのか、それを確かめるだけのつもりだった。
石を握った瞬間、肩から指先までの感覚が少し変わった。嫌な予感がした。だが、もう投げるしかない。
俺はスライムの中央、内側に浮いた濁った粒を狙って石を投げた。普通に投げたつもりだった。全力ではない。肩を痛めない程度に、軽く鋭く投げる。そのはずだった。石が、思ったより速く飛んだ。腕だけではない。腰、肩、手首、指先。その全部が、投げる瞬間だけ妙につながった。狙ったというより、当たる場所へ体が勝手に線を引いたような感覚だった。
石はまっすぐ飛び、半透明の塊の中にある濁った粒へ叩き込まれた。ぐしゃり、と湿った音がした。続いて、硬いものが割れるような小さな音が響く。スライムの体が大きく震え、表面が波打つ。半透明の体が一瞬だけ膨らみ、それから力を失ったように床へ崩れた。水とゼリーの中間のようなものが、じわじわと広がっていく。
俺は石を投げた姿勢のまま固まっていた。倒した、のか。呆気なさすぎる。だが、動かない。スライムの体は床に広がったまま、元の形へ戻らない。中の濁った粒は割れ、細かい欠片になっていた。しばらく見ていると、広がった粘液のような部分が少しずつ薄くなっていく。床に吸われているようにも、水に溶けているようにも見えた。
その後に、小さなものが二つ残った。一つは、親指の爪ほどの半透明な欠片。薄い青緑色で、さっきのスライムの内側にあった粒の一部に見える。もう一つは、米粒よりは大きく、小石よりは小さい結晶のようなものだった。淡く濁った灰色で、光を当てると奥がわずかに光る。
魔石。
その言葉が浮かんだ。
もちろん、確証はない。ネットで見た噂と、掲示板で語られていた情報を雑に当てはめただけだ。スライムの核。魔石。そう呼べそうなものが残った、というだけ。だが、これがダンジョン産の何かであることは間違いないように思えた。
俺は手袋をして、二つを拾った。直接触りたくはなかった。小さなビニール袋に入れ、リュックの外ポケットへ押し込む。名前も価値も分からない。だが、置いていく選択肢はなかった。
その時、背後から声が跳ねた。
「え、今の何?」
投石の音が反響したのだ。思った以上に大きく響いたらしい。水路と石壁の奥へ転がっていった音を、背後の人間が聞きつけた。足音が変わる。慎重に進んでいたものが、少し速くなる。近づいてくる。逃げる音ではない。明らかに、こちらへ向かう音だった。
いや、こっち来んのかよ。逃げろよ。危機感ぶっ壊れてんのか。
内心で叫んだ直後、少しだけ自分にも刺さった。俺も大概だった。だが、今は反省している場合ではない。
声の主はまだ遠い。姿も見えない。だが、強化された聴覚のせいか、足音の向きと速度が分かる。水門の横道からこちらへ、確実に近づいている。たぶん撮影しながらだ。今の音の正体を確かめに来ている。
厄介すぎる。
俺はスライムの跡をもう一度だけ見た。粘液のようなものは、すでにほとんど消えかけている。血も、死骸も、臭いも残らない。ただ、床が少し濡れているだけだった。これが死体の吸収なのか、スライムだから溶けただけなのかは分からない。だが、ゆっくり考える時間はなかった。
俺はライトを前へ向け、速足で奥へ進んだ。走りたい衝動はあったが、足元が悪い。音も出る。転んだら終わりだ。だから歩く。できるだけ速く、できるだけ静かに。
背後では、まだ声がする。
「今、なんか音したよな……? 石? いや、誰かいる?」
来るな。そう思った。戻れ。そうも思った。だが、声の主は止まらない。距離はまだある。だが、確実に詰まっている。俺は先へ進むしかなかった。説明できないものを拾った。説明できないものを倒した。説明できない体になっている。そんな状態で、カメラを持った人間と鉢合わせるわけにはいかない。
通路の奥は、さらに暗くなっていた。水音はもうほとんど聞こえない。水門の横道から入ったはずなのに、水の気配が遠い。かわりに、乾いた石の匂いが強くなっている。目の奥が熱い。左腕の古傷も、服の下でかすかに反応している。
前に進むほど、ダンジョンの中へ入っていく感覚が強くなる。後ろからは、人の声が近づいてくる。俺は奥へライトを向けた。
逃げているのか、進んでいるのか、自分でも分からなかった。ただ、ひとつだけはっきりしている。もう、水門の入口で引き返すだけの話ではなくなっていた。
タイミング最悪すぎだろう。




