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第12話 河原の違和感

 左腕の傷は、翌日には塞がっていた。


 包帯を外した時、俺はしばらく声が出なかった。裂けていたはずの皮膚は閉じている。赤黒く滲んでいた血もない。白い膜のように見えていたものも、表面からはほとんど分からなくなっていた。ただ、傷のあった場所だけ肌の色が少し薄い。新しい皮膚が張った後のような、怪我をした場所にありがちな色の違い。人に見せたとしても、たぶん「治りかけですね」で済む程度だった。


 それが一番気持ち悪かった。


 ありがたいことではある。痛みはない。腕も動く。押せば少し違和感があるが、日常生活には問題ない。普通なら喜ぶべきだ。だが、昨日まで包帯を巻いていた傷が、翌日には薄い跡だけになっている。いくらなんでも早すぎる。治癒というより、修理されたように見えた。


 俺は洗面所の鏡の前で、左腕をしばらく眺めていた。目を凝らせば、肌の下に何かがいるのではないか。白い糸のようなものが、皮膚の裏側を這っているのではないか。そんな想像が浮かぶ。けれど、何も見えない。ただ薄く色の違う皮膚があるだけだった。


 もう遅い。


 口には出さず、そう思った。


 気持ち悪い。おかしい。病院に行くべきだ。警察に言うべきだ。考えようと思えば、いくらでも正しい選択肢は浮かぶ。だが、あの白いものはもう俺の中にいる。昨日今日で突然始まった話ではなく、目から入られた時点で、とっくに戻れないところへ来ている。なら、今やるべきことは、気持ち悪がって固まることではない。


 事実を積む。


 そう自分に言い聞かせた。


 その日は外に出なかった。腕が治っていることを確認し、前日のランニングで気づいた身体の変化をもう一度メモにまとめ、ニュースを眺め、余計な検索をして、何度かスマホを伏せた。暗渠の場所は開かなかった。昨日の橋も見なかった。見れば、考えてしまう。考えれば、行く理由を探し始める。それが分かっていた。


 そして、さらに次の日。俺は再探索に出る準備をした。


 再探索、と言っても、昨日の暗渠へ行くつもりはなかった。あそこに戻るのは、まだ無理だ。怖い。正直に言えば、かなり怖い。閉じた水路、低い天井、黒い石の通路、ゴブリン、祭壇、割れた黒い石。思い出すだけで目の奥がざわつく。勇気がないと言われれば、その通りだと思う。


 だが、完全に逃げるつもりでもなかった。


 ランニング中に、一か所だけ気になる場所があった。俺自身が気になったというより、体の奥が一瞬だけそちらを向いた場所だ。住宅街を抜けた先、堤防沿いにある浅い水門。青緑色の鉄扉が並び、コンクリートの斜面の下を水が流れている。普段ならただの治水設備だ。立ち止まる理由はない。だが、あの前を通った時だけ、目の奥がわずかに熱を持った。


 見たわけではない。嗅いだ、と言うのが近い。けれど、鼻で匂いを感じたわけでもなかった。水門の奥、黒く沈んだ開口部の向こうから、体の中に直接触れるような何かがあった。


 もし外れなら、それでいい。


 むしろ外れてほしい。水門を見て、何もなくて、俺の勘違いでした。それで済むなら最高だ。その時は、改めて暗渠のことを考える。できれば考えたくないが、後回しにしているだけで消える問題ではない。


 俺はリュックの中身を軽くした。ヘッドライト、懐中電灯、予備電池、手袋、ホイッスル、水、携行食、簡易救急セット、タオル。トレッキングポールも持つが、あくまで歩行補助として畳んだまま入れる。ナイフのようなものは持たない。持てば安心するかもしれないが、安心より面倒の方が大きい。警察に職務質問されて、ダンジョンに行くためですとは言えない。


 玄関を出る前に、俺はスマホへ短くメモを残した。


 水門を確認する。

 入らない。

 写真と位置だけ記録。

 異常が強ければ帰る。

 暗渠は最後。


 それを見て、少しだけ笑った。まるで遠足のしおりだ。行き先が水門で、目的が寄生虫の反応確認でなければ、もう少し楽しい気分になれたかもしれない。


 外はよく晴れていた。日差しは強すぎず、風もある。歩いているだけなら、ただの散歩日和だ。俺は人通りのある道を選びながら、堤防の方へ向かった。昨日と同じく、橋のある方角には行かない。遠回りでも構わない。自分で決めたルートを外れないことを、ひとつずつ確認する。


 体は軽かった。


 左腕はもう痛まない。リュックの重みもそれほど気にならない。歩幅が自然に安定し、足元の段差を避ける感覚も昨日と同じように残っている。慣れてきている、と思った。異常に慣れている。その事実には少し抵抗があったが、同時に、使えるものを無視して転ぶ方が馬鹿らしいとも思った。


 そうやって考え始めている自分にも、内心で舌打ちする。


 便利なものとして扱うな。


 まだ早い。


 堤防に近づくにつれ、草の匂いと川の湿った空気が混じり始めた。道の向こうに、低い土手と水門の上部が見える。青緑色の鉄製のゲート。上には管理用の手すり。両側には草の生えた斜面。コンクリートの護岸が水路へ向かって下り、中央の開口部から暗い水音が響いている。


 俺は少し離れた場所で足を止めた。


 見た目は、本当にただの水門だった。古びてはいるが、壊れているようには見えない。立入禁止の表示もある。水路の水は浅く、ゆっくり流れている。近くを自転車が通り、堤防の上では犬を連れた人が歩いている。現実の風景だ。昨日の暗渠のように、世界から切り離された感じはない。


 なのに、目の奥が熱くなった。


 俺は顔をしかめる。左腕ではない。目の奥だ。あの白いものが入った場所。その奥が、じわりと反応している。痛みではない。かゆみでもない。暗い場所から細い糸を引かれているような、ひどく薄い感覚だった。


 臭い、と思った。


 だが、鼻で感じた臭いではなかった。水の匂いも、苔の匂いも、錆びた鉄の匂いもある。だが、その奥に混じっているものは、もっと別の感覚だった。暗渠の奥で感じた、乾いた石室の空気。水のそばにあるのに、そこだけ乾いているような、光が入りきらない場所の匂い。それに似たものが、水門の奥からかすかに流れてきていた。


 俺はスマホを取り出し、写真を撮った。水門全体。堤防。周囲の道。立入禁止の表示。位置情報も保存する。こういう時、自分が妙に手順を守っていることに気づく。勢いで近づくな。まず記録。そう決めていたからだ。


 それから、ゆっくりと水門へ近づいた。


 階段ではなく、護岸の斜面に沿って下りる形だった。コンクリートには苔があり、ところどころ水で濡れている。足を滑らせれば、浅いとはいえ水路に落ちる。俺は慎重に足を置いた。昨日までなら少し怖かったかもしれない。だが今は、濡れていない場所、踏んではいけない角度、靴底が滑りそうな面が妙にはっきり分かった。


 助かる。


 そう思って、すぐに取り消す。


 今は感謝する場面ではない。


 水門の前に立つと、音が変わった。上では風の音や車の音がしていたはずなのに、下へ降りると水の音が大きくなる。コンクリートに反響し、鉄扉の奥から低くこもった音が返ってくる。開口部の奥は暗い。完全な闇ではないが、昼の光が入りきらず、水面だけが鈍く揺れている。


 俺は懐中電灯を取り出した。ヘッドライトはまだ点けない。ここで本格装備の姿になるのは目立ちすぎる。手持ちのライトだけを開口部へ向ける。


 光が入る。


 コンクリートの壁。水面。鉄の補強。奥へ続く短い通路。水路としては普通だ。少なくとも、見た目だけなら異常はない。


 だが、体の奥が違うと言っている。


 俺は唾を飲んだ。自分で決めたルールを思い出す。入らない。写真と位置だけ記録。異常が強ければ帰る。ここまでで、すでに異常はある。つまり、帰るべきだ。そう考えられる。考えられるのに、足はまだ動かない。


 奥を見たい。


 その気持ちは、俺のものだった。


 たぶん。


 俺は水門の縁に手を触れないよう気をつけながら、もう少しだけ身を乗り出した。奥から流れてくる空気は湿っている。水路なのだから当然だ。だが、その湿り気の奥に、冷たい乾きがある。矛盾している。水の近くなのに、古い石を砕いたような匂いがする。


 左腕の治った跡が、服の下でわずかに熱を持った。


 今度は目の奥だけではなかった。左腕も反応している。薄く色の違う皮膚の下で、何かが水門の奥へ向かって耳を澄ませているような感覚があった。


「ここか?」


 小さく呟いた。


 返事はない。


 だが、否定もなかった。


 俺は一歩下がった。意識して、下がった。ここで入るな。そう自分に言い聞かせる。入るなら準備が足りない。そもそもここは水門だ。水がある。足場が悪い。暗渠と違って、滑れば怪我をする。誰かに見られる可能性もある。立入禁止の表示もある。入る理由より、入らない理由の方がずっと多い。


 それでも、見つけたかもしれない。


 そう思ってしまった。


 俺はもう一度写真を撮り、動画も短く撮った。水の音、開口部、奥の暗がり。ついでに周囲に人がいないタイミングで、できるだけ自然に水門の左右を確認する。管理扉のようなものは見当たらない。上に上がれば設備の点検通路はあるが、鍵がかかっているだろう。正面から入るなら水路を通るしかない。


 正面から入るなら。


 その言葉が頭に浮かんだ時点で、俺はスマホをポケットにしまった。


 今日は終わりだ。


 ここで終わらせる。


 俺は斜面を上がった。足元は滑らなかった。上へ戻ると、車の音と風の音が一気に戻ってくる。さっきまで水門の奥から感じていた臭いのようなものも、少し薄れた。距離を取るだけで弱くなる。なら、やはりあの開口部が中心なのだと思う。


 堤防の上から振り返る。青緑色の水門は、日差しの下で普通に立っていた。草の斜面、コンクリート、水の流れ、注意書き。どこにでもありそうな景色だ。だが俺には、もうそう見えなかった。


 暗渠に行く必要は、まだない。


 そう思った時、安堵と落胆が同時に来た。


 あそこへ戻らなくていい。少なくとも今日すぐには。そう考えると、胸の奥が少し軽くなる。だが同時に、新しい場所を見つけてしまったという感覚があった。逃げ道を探していたはずなのに、別の入口を拾ってしまった。そんな感じだった。


 帰り道、俺は寄り道をしなかった。コンビニにも入らない。水門の周囲をもう一周することもしない。橋の方角も見ない。まっすぐ家へ戻る。できるだけ普通に歩く。左腕の下で、薄い熱がまだ残っている。


 部屋に戻ると、鍵を閉めてからスマホを開いた。会話タイトルは、前と同じままにしておく。


『自作小説 メモ』


 俺は撮った写真を見返しながら、今日のことを打ち込んだ。


『新しい入口候補

・水門

・水とコンクリートと鉄扉

・見た目は普通

・鼻じゃない臭いがする

・目の奥と左腕が反応

・暗渠と似た乾いた石の気配

・今日は入らずに帰った』


 そこまで書いて、指が止まる。


 今日は入らずに帰った。


 その一文を見て、少しだけ息が抜けた。俺はまだ、入らずに帰ることができる。昨日の橋にも行っていない。暗渠にも戻っていない。水門にも入っていない。できている。まだ、できている。


 だが、写真の中の開口部は黒かった。


 昼の光の中にあるのに、そこだけ沈んでいる。水路の奥、鉄扉の下、コンクリートの影。普通の暗がりだと言い聞かせることはできる。だが、俺の目はその奥を見ようとしていた。画面の中の闇に、焦点を合わせようとしていた。


 見ているのは俺だ。


 そう思った直後、目の奥がかすかに熱を持った。


 俺はスマホを伏せた。


 暗渠に戻らなくてもよかった。


 だが、それは安全になったという意味ではない。


 俺がダンジョンを探しているのか。


 それとも、俺の中の何かが、次の入口を探しているのか。


 その区別は、もう少しずつ曖昧になり始めていた。


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