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第11話 検証


 自分の体を観察すると決めた。そう決めたはずなのに、最初にやったことは、体温を測ることでも、脈を数えることでもなかった。体温計は洗面所の棚にある。スマホにも健康管理アプリは入っている。やろうと思えば、いくらでも細かく記録できる。体温、脈拍、睡眠時間、歩数、消費カロリー。そういう数字を並べれば、少しは安心できるのかもしれない。だが、そこまで考えたところで、俺はやめた。


 数字を並べたところで、目の奥に入った白いものの正体は分からない。左腕の傷を塞いでいる白い膜が、何なのかも分からない。そもそも、今の俺に必要なのは、健康診断ごっこではなかった。昨日、俺はゴブリンを殴り飛ばした。行き止まりに追い詰められ、左腕を斬られ、目から何かに入られた直後のことだ。あの時の自分の動きは、どう考えても普通ではなかった。


 問題は、それが今も残っているのかどうかだった。腕力を試す気にはなれない。左腕はまだ傷がある。腕立て伏せも懸垂も論外だ。右腕だけで何かを殴るのも嫌だった。部屋の壁に穴を開けました、理由は寄生虫の影響を試したかったからです、などという人生の底みたいな報告はしたくない。だから、走ることにした。軽く。短く。無理はしない。


 スマホの地図を開き、自宅周辺を確認する。昨日の橋がある方向には、視線を向けない。そこへ向かう道も選ばない。川沿いも、水路沿いも避ける。人通りがそこそこあり、コンビニや住宅が並ぶ普通の道。何かあればすぐ立ち止まれる場所。俺はメモに、新しく決めたルールを書いた。昨日の橋には近づかない。暗渠、水路、橋の下には寄らない。腕は使わない。全力で走らない。異常を感じたら帰る。そこまで書いて、少しだけ安心した。


 ルールを決められる。守ろうと思える。少なくともその時点では、俺はまだ自分でブレーキを踏めているように感じられた。着替えながら、左腕を確認する。包帯の上から、ゆるい長袖を着た。動かすと鈍く痛むが、日常動作に支障が出るほどではない。昨日のような熱はかなり引いていた。ありがたい。ありがたいが、頼んでいない。その感想にも、少し慣れてきている自分が嫌だった。


 靴を履き、玄関の前で一度止まる。鍵を閉める前に、俺はもう一度メモを見た。昨日の橋には近づかない。その一文を指でなぞる。


「行かない」


 声に出してから、玄関を出た。外はいつも通りだった。昼前の住宅街。遠くで車の音がして、どこかの家から洗濯物の柔軟剤の匂いが流れてくる。昨日、暗渠の奥でゴブリンに追い詰められたことなど、この街のどこにも残っていない。軽く歩いて体を慣らし、それからゆっくり走り始めた。


 最初は、何も変わらないと思った。足が地面を蹴る。靴底がアスファルトに当たる。息を吸い、吐く。左腕を揺らさないように、少し体の横に固定する。普通のランニングだ。会社員時代、健康のために何度か走ろうとして、三日でやめた時と大きくは変わらない。だが、五分ほど走ったところで違和感が出た。息が上がらない。


 いや、上がってはいる。呼吸は早くなっているし、心臓も普段より強く動いている。足にも負荷はある。だが、苦しくなるまでが遅い。胸が詰まる感じがない。肺の奥まで空気が入って、吐く時にも余裕が残る。運動不足の三十歳としては、妙に調子がよかった。俺はペースを上げそうになって、すぐに落とした。今日は検証で、挑戦ではない。そう自分に言い聞かせる。


 次に気づいたのは、足元だった。歩道の端に小さな段差がある。路面のひび割れ。乾いた小石。排水溝の蓋。そういうものが、妙にはっきり見えた。見えているだけではない。踏む前に、体が勝手に避けている。大げさな動きではない。ほんの少し足の置き方が変わるだけだ。だが、その調整がやけに滑らかだった。昔の俺なら、疲れてくれば足元が雑になる。段差に靴先を引っかけたり、排水溝の蓋で少し滑ったりする。今日はそれがない。


 足がよく動くというより、体が地面をよく読んでいる。その表現が頭に浮かんだ瞬間、少し背中が冷えた。身体能力が上がっている。そう言い切るほどではない。いきなりアスリートになったわけでも、車より速く走れるわけでもない。普通の範囲から少しだけ外に出た程度だ。だからこそ、不気味だった。分かりやすい超能力なら、まだ笑えたかもしれない。いや、笑えはしないが、異常だと分かりやすい。だが今の変化は、日常の中に薄く混ざっている。昨日より少し走れる。昨日より少し見える。昨日より少し反応が早い。その「少し」が、一番信用できなかった。


 信号の手前で足を止める。赤信号。車が通り過ぎる。自転車が横を抜けていく。俺は呼吸を整えながら、何となくその自転車を目で追った。車輪のスポークが見えた。普通なら、回転している輪としてしか見えないはずだ。もちろん一本一本を完全に数えられるわけではない。だが、流れていく細い線が、ただの銀色の円ではなく、ちゃんと構造を持ったものとして目に入ってくる。


 視力が上がった、のかもしれない。道路の向こう側にある看板の小さな文字も、前より読みやすい。電線に止まった鳥が首を動かす、その細かい揺れまで見える。風で揺れる葉の動きも、以前より輪郭がはっきりしていた。目が良くなったというより、動くものへの焦点が合いやすくなっている。その時、電線の鳥が羽ばたいた。俺の視線が、自然にそちらへ向いた。


 鳥が飛ぶ。羽の角度。体の傾き。空中での向きの変え方。足の細さ。首の可動域。小さな体のわりに、ずいぶん無駄がない。そこまで考えて、俺は眉をひそめた。今、何を見ていた? 鳥がいた。普通なら、鳥が飛んだ、で終わる。あるいは、カラスか、鳩か、そんな程度だ。だが、今の俺は違う見方をしていた。形。動き。重さ。逃げる方向。使えるかどうか。最後の感覚だけが、明らかにおかしかった。使える、とは何だ。


 信号が青になる。俺は歩き出し、それからまた軽く走った。鳥のことは考えないようにする。今日は橋に行かない。水路にも寄らない。生き物を追わない。ただ走って、帰る。それだけだ。そう決め直した直後、今度は散歩中の犬とすれ違った。


 柴犬だった。短い足取りで歩き、リードの先で時々鼻を地面に近づけている。飼い主の老人はゆっくり歩いていて、犬はその速度に合わせながらも、周囲に意識を向けていた。かわいい。最初にそう思った。その次に、別の情報が入ってきた。肩の動き。後ろ足の蹴り。首の太さ。顎の力。反応速度。嗅覚。体重。噛みつける位置。逃げようとした時の進行方向。


 俺は反射的に視線を外した。見られる。そう思った。犬にではない。自分の中の何かに、犬を見せているような気がした。犬は何も知らずに通り過ぎていく。飼い主もこちらを気にしていない。ただの日常の一場面だ。そこにいるのは、散歩中の犬と、軽く走っている男だけでいい。それ以上のものを持ち込むな。


 俺は足を止めた。呼吸は少し荒い。汗も出ている。だが、まだ走れる。まだ余裕がある。予定していた距離の半分も来ていない。それでも、帰ることにした。異常を感じたら帰る。自分で決めたルールだ。


 俺は来た道を引き返した。帰りは走らず、歩いた。走れるのに歩く。その選択ができることを確認したかった。途中、草むらで小さな虫が跳ねた。視線が吸われそうになる。俺は正面を向いたまま、意識して見ないようにした。見ない。そう決めると、見ずにいられた。完全に安心はできない。だが、少なくとも俺はまだ、視線を外せる。足を止められる。予定を切り上げて帰ることができる。その事実だけは、今日一番の収穫だった。


 部屋に戻ると、まず玄関で靴を脱いだ。鍵を閉め、チェーンをかける。昨日と同じ動作なのに、今日は少しだけ意味が違う。逃げ込んだのではなく、自分で帰ってきた。洗面所で顔を洗い、左腕の包帯を確認する。走ったせいで少し汗ばんではいるが、血はにじんでいない。痛みも増えていなかった。


 俺は部屋に戻り、スマホを開いた。メモアプリに直接書くのはやめた。寄生、身体補助、行動操作。そんな単語が並んだメモをそのまま残しておくのは、どう考えても危ない。代わりにAIを起動し、会話のタイトルを変える。


『自作小説 メモ』


 雑だ。あまりにも雑な偽装だった。だが、もし誰かに見られても、体に得体の知れないものが入っている男より、痛い創作メモを抱えた男の方がまだましだった。俺は入力欄に、今日のことを箇条書きで打ち込んだ。


『主人公の変化メモ

・軽く走ったら普段より息が上がりにくい

・足元の段差や小石を自然に避ける

・動いているものがよく見える

・鳥や犬を見た時、かわいいとか怖いじゃなくて、動きや体の作りを観察してしまう

・自分の意思とは別の視線が混ざる感じ

設定として整理して』


 送信する。しばらくして、画面に返答が表示された。


『設定として整理するなら、かなり使いやすい変化です。主人公の身体能力は、急激に超人化したというより、基礎性能が少し底上げされた状態に見えます。特に変化が出ているのは、持久力、足場判断、動体視力、周辺の生物への観察能力です。


腕力などの直接的な強化は、常時発動ではなく、危険時や戦闘時に強く出る設定にすると自然です。普段は「少し調子がいい」程度で、命の危険がある時だけ補正が大きくなる形です。


鳥や犬を見た時の反応は、主人公本人の感情ではなく、寄生生物側の認識が混ざっている描写として扱えます。かわいい、怖い、気持ち悪いではなく、対象の動き・骨格・反応速度・利用価値を見る。そうすると、主人公の中に別の観察主体がいることを読者に伝えられます。


ただし、この段階では完全な操作ではなく、視線や注意が引っ張られる程度に留めるとよいです。主人公が自分の意思で視線を外せる、帰る判断ができる、危険な場所に近づかない、という描写を入れると、まだ自制できている安心感が出ます。』


 俺は画面を見つめた。自分で入力した。自分で整理させた。ただの文章だ。AIが俺の体を見たわけではない。傷口を見たわけでも、昨日の暗渠を知っているわけでもない。それでも、最後の方の文章が妙に刺さった。別の観察主体。完全な操作ではない。自分の意思で視線を外せる。帰る判断ができる。


 俺は、今日の行動を思い返した。昨日の橋には近づかなかった。水路にも寄らなかった。犬から目を外した。虫を見なかった。途中で走るのをやめて、帰ってきた。できている。まだ、できている。その確認だけで、胸の奥にあった重いものが少しだけ下がった。


 俺はスマホを置き、床に座った。左腕の奥がかすかに熱を持っている気がする。痛みとは違う。かゆみとも違う。そこに何かがいると、思い出させるような熱だった。返事ではない。同意でもない。ただの反応かもしれない。それでも、俺は小さく息を吐いた。


「今日は行かなかったぞ」


 誰に言ったのかは分からない。自分に言ったのかもしれない。中にいるものに言ったのかもしれない。あるいは、昨日の暗渠の方角に向けて言ったのかもしれない。返事はなかった。だが、返事がないことに少しだけ安心した。俺はまだ、自分で止まれる。その事実を、今日の記録として残すことにした。


 AIの返答の下に、短く打ち込む。


『今日は橋に近づかなかった。自分で帰ってきた。』


 送信はしなかった。ただ、その一文を見ていた。見ているのは俺だ。そう思いたかった。けれど同時に、もう一つの視線が、画面の文字ではなく、その奥にある俺の判断を見ているような気がした。俺はスマホを伏せる。俺はまだ、自分で止まれる。だが、見ているのは俺だけではなかった。


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