第10話 今は生きている
目が覚めた時、部屋の中は明るかった。
カーテンの隙間から差し込んだ光が、床の上に細い線を作っている。スマホは枕元に転がっていて、画面を点けると朝の九時を少し過ぎていた。
眠れた。
まず、そのことに驚いた。昨夜の状態なら、一晩中まんじりともせず天井を見ていると思っていた。目を閉じれば白いものが見える。体の中で何かが動く。そんな想像ばかりしていたはずなのに、気づけば朝になっている。
体は重い。頭も鈍い。だが、徹夜明けのような酷さはない。むしろ、深く眠った後のだるさに近かった。
それがまた、嫌だった。
俺は布団の上でしばらく動かず、天井を見つめていた。見慣れた白い天井。薄いシミ。照明の丸いカバー。何度も見てきた自分の部屋の景色なのに、今日は少し距離がある。
夢ではなかった。
そう確認するより先に、左腕が疼いた。
俺はゆっくりと上体を起こし、包帯を見た。昨夜より血のにじみは少ない。痛みもあるにはあるが、昨日のように腕全体が熱を持つ感じではなかった。
普通なら、喜ぶところだと思う。
でも、普通じゃない。
その言葉が、朝から頭の真ん中に居座っていた。
洗面所へ行き、包帯を外す。昨夜よりは張りつきが弱かった。剥がす時の痛みも軽い。鏡の前で左腕を持ち上げると、傷口は明らかに変化していた。
裂けた皮膚の周囲はまだ赤い。血の跡もある。だが、傷の開きは少し狭くなっているように見えた。問題は、その内側だった。
白い。
昨日より、白い部分がはっきりしている。
傷口の縁をなぞるように、薄い膜のようなものが張っている。脂肪や筋では説明できないとは言い切れない。俺に医学知識はない。だが、少なくとも見慣れた怪我ではなかった。
白い部分は、血に混じっているのに濁らない。傷を塞ぐようにそこにあり、肉の代わりに何かが仮止めしているようにも見えた。
俺は指を近づけかけて、やめた。
触るのはまだ無理だった。怖いというより、触った瞬間に自分の中で何かが決定してしまう気がした。
治っている。
そう言えば、聞こえはいい。
だが正確には、治っているというより、塞がれている。俺の体が自力で治しているのではなく、別の何かが穴を埋めている。そんな印象の方が近かった。
鏡に映る自分と目が合う。
目は普通だった。充血もない。瞳孔もおかしくない。昨日と同じように、外から見れば何も起きていない。
外側は普通。
内側は不明。
会社を辞めて数日で、自分の健康状態が未確認生物欄に入るとは思わなかった。
笑えない。
いや、少しだけ笑いそうになった。
人間、本当に追い詰められると、変なところで冷静になるらしい。
俺は新しいガーゼを当て、包帯を巻き直した。昨日より手つきはましだった。傷口を見ないようにすれば、ただの怪我の処置に近い。そう思い込むことにした。
部屋に戻り、水を飲む。喉が渇いていた。コップ一杯では足りず、ペットボトルの水を半分ほど一気に飲んだ。胃の中に水が落ちる感覚がやけにはっきりしていて、自分がまだ普通に生きていることを思い出す。
腹も減っていた。
それにも少し驚いた。あんな目に遭った翌朝でも、体は食べ物を要求する。テーブルの上に置きっぱなしだった栄養バーを開け、半分ほど齧った。味はした。甘さも分かる。吐き気はない。体が拒否する様子もない。
普通に食える。
普通に飲める。
普通に動ける。
だからこそ、どこまでが普通なのか分からない。
俺はスマホのメモアプリを開いた。頭の中だけで考えるのは危ない気がした。怖い想像と事実が混ざる。混ざったものを信じ始めたら終わりだ。
まず、起きたことを書き出す。
黒い石。
白い何か。
目から入った。
左腕の白い組織。
痛みが遠くなる。
出血が少ない。
ゴブリンを殴り飛ばした。
危ない道へ進もうとした時、足が止まった。
そこまで打って、画面を見つめた。
完全に正気のメモではない。
誰かに見られたら、病院か警察か、少なくともスマホを閉じて寝ろと言われる内容だった。
だが、全部事実だ。
俺はさらに下へ文字を打った。
寄生。
その二文字を入力した瞬間、指が止まった。
書きたくなかった。
でも、他にしっくり来る言葉がない。
体内に入り、傷に関与し、痛みや動きに影響する。宿主を殺さず、むしろ生かす方向に働いている。そう考えれば、寄生という言葉が一番近かった。
俺はスマホを手に取り、いつものようにAIを起動した。
会社を辞める前にも、俺はこれに相談した。人生を左右する願いについて聞いて、その翌日に退職願を出した。今考えると、あの時点でだいぶおかしかったのかもしれない。
だが、今の状況に比べればまだ普通だ。
入力欄をしばらく見つめたあと、俺は短く打ち込んだ。
『寄生虫って、どんなものがある?』
送信してから、自分の質問文を見て嫌になった。
朝一番にAIへ聞く内容ではない。少なくとも、まともな三十歳の独身男性が休日に聞く内容ではない。
少し待つと、画面に回答が表示された。
『寄生虫といっても種類は多いです。宿主から栄養を奪うもの、宿主の体内で成長するもの、宿主をすぐには殺さず長期間利用するものなどがあります。中には、宿主の行動に影響を与える例も知られています。
たとえばハリガネムシは、カマキリなどの宿主を水辺へ向かわせることで知られています。ロイコクロリディウムは、カタツムリの触角を目立つ姿に変え、鳥に食べられやすくする例として有名です。
一方で、すべての寄生関係が単純に「宿主を殺す」ものではありません。宿主を生かしたまま利用するものもありますし、広い意味では共生に近い関係もあります。ただし、もし実際に体内異物や感染が疑われるなら、医療機関に相談するべきです。』
最後の一文に、俺は小さく息を吐いた。
それはそうだ。
聞き方をぼかしたところで、まともな答えはそこに行き着く。体に異物が入ったかもしれません。傷の治り方がおかしいです。そう言われて、病院へ行くなと答えるAIがいたら、その方が怖い。
だが、俺の目はその手前の文章に戻っていた。
宿主をすぐには殺さず、長期間利用する。
宿主の行動に影響を与える。
共生に近い関係。
文字の並びが、妙に生々しく見えた。
俺の中にいるものも、今のところ俺を殺してはいない。左腕の傷を塞ぎ、痛みを遠ざけ、死にかけた俺を動かした。もしそれを寄生と呼ぶなら、少なくとも宿主を即座に壊すタイプではない。
そう考えかけたところで、ハリガネムシとロイコクロリディウムの話が頭に引っかかった。
宿主を生かす。
宿主を利用する。
宿主を動かす。
並べてみれば、その三つはまったく別の話ではなかった。
昨日、分かれ道で足が止まった。左の通路へ進もうとした俺の体が、勝手に止まった。その直後、奥から足音が聞こえた。助かったと思った。だが、あれは本当に俺を助けたのか。
それとも、俺という宿主を失わないように、危険から遠ざけただけなのか。
もっと悪く考えれば、いつか別の目的地へ向かわせるために、今は生かされているだけなのかもしれない。
背筋が冷える。
それなのに、胸の奥のどこかが、わずかに熱を持っていた。
恐ろしい。自分の意思が自分だけのものではないかもしれないと考えるだけで、指先が冷たくなる。
だが同時に、俺は知りたいと思っていた。
寄生。共生。行動操作。宿主。
画面に並ぶ言葉は、どれも自分の体に突き刺さっている。死ぬかもしれない。化け物になるかもしれない。普通なら、それだけで終わりのはずだった。
なのに、俺はまだ画面を閉じられなかった。
ついにおかしくなっちまった。
そう思うと、乾いた笑いが漏れた。
スマホを伏せ、俺はもう一度左腕を見た。包帯の下で、あの白いものが傷を塞いでいる。そう考えるだけで気味が悪い。だが、気味が悪いだけなら、昨日のうちに泣きながら病院へ駆け込んでいたはずだ。
俺は怖がっている。
それは間違いない。
だが、怖いだけではなかった。
それを認めるのが、一番怖かった。
この世界にはもうダンジョンがある。ゴブリンもいる。ネットでは魔石だのポーションだの宝箱だのを、半笑いで語っている。なら、寄生する何かがいてもおかしくない。そう考えたところで、俺は首を振った。
おかしくないわけがない。
おかしい。
全部おかしい。
ただ、世界全体がおかしくなったせいで、自分だけが狂ったのかどうか判断しにくくなっている。
俺は深く息を吐いた。
落ち着け。
事実だけを見る。
こいつは、俺を殺していない。今のところは。
左腕の傷は悪化していない。むしろ塞がり始めている。昨日、俺が死ななかったのは、たぶんこいつのせいだ。
だが、助けてくれたと考えるのは危険だ。人間だって家畜を生かす。道具も壊れないように手入れする。生かしていることと、こちらの味方であることは同じではない。
俺は自分の胸に手を当てた。
心臓は普通に動いている。呼吸もできる。体温もある。腹も減る。眠りもする。
それでも、自分の体が完全に自分のものだとは言い切れなかった。
昨日、恐怖で固まらなかったのは俺の意思か。
ゴブリンを殴った右手は、俺が動かしたのか。
分かれ道で足が止まった時、あれは俺の危機察知だったのか。それとも、中の何かが俺の体を止めたのか。
考えても答えは出ない。
ただ一つだけ確かなのは、俺の中にいるものは、まだ俺の言葉を理解しているわけではなさそうだということだった。
昨日も今日も、会話はない。返事もない。頭の中に声が響くこともない。こちらの考えに対して、明確に反応する様子もない。
あるのは、体の反応だけだ。
痛みが遠のく。
出血が抑えられる。
危険な方へ行こうとすると、足が止まる。
それが意思なのか、本能なのか、ただの防衛反応なのかは分からない。
分からないなら、分からないまま扱うしかない。
俺はもう一度スマホを取り、メモの続きに書いた。
仮説一、寄生されている。
仮説二、宿主を生かす性質がある。
仮説三、意思疎通はまだできない。
仮説四、体の一部を操作、または補助している。
仮説五、目的不明。
並べると、研究者のメモみたいだった。
研究対象は自分だが。
最悪だ。
俺は小さく笑った。笑い声は乾いていて、自分でもあまり楽しそうには聞こえなかった。
次にニュースを確認する。政府発表、ダンジョン関連の注意喚起、民間ライセンス制度の検討、未確認入口を見つけた場合の通報呼びかけ。どれも昨日までより近い話に見えた。
ライセンス。
登録探索者。
ダンジョン産品の売却。
少し前なら胸が躍った言葉だ。今は、そこに自分が近づいていいのか分からない。
俺はもう、普通の探索希望者ではない。
ダンジョンに入った人間でもある。
モンスターを倒した人間でもある。
そして、何かに入られた人間でもある。
この状態で登録などしたら、検査で何かが見つかるかもしれない。逆に、何も見つからなかったらそれはそれで怖い。見つからない異物を抱えていることになる。
警察に行く。
病院に行く。
政府に通報する。
いくつかの選択肢は、頭の中にずっとある。
だが、今すぐ選べるものはなかった。行けば説明が必要になる。説明すれば、証明が必要になる。証明しようとすれば、自分の体を差し出すことになる。
まだ無理だ。
怖いからではない。
いや、怖いからだ。
俺はそこだけは正直に認めた。
怖い。
何が怖いのかも、だいたい分かっている。
死ぬのが怖い。
化け物になるのが怖い。
誰かに捕まって、検査されるのが怖い。
そして一番怖いのは、自分の判断がもう自分だけのものではない可能性だった。
俺は立ち上がり、部屋の中をゆっくり歩いた。左腕は痛むが、日常生活に支障が出るほどではない。右手を握る。開く。膝を曲げる。視線を動かす。呼吸を止め、また吸う。
どれも、自分でできる。
少なくとも今は。
次に、机の上の小銭を一枚つまんで、指先で転がした。特別に器用になった感じはない。壁に向かって軽く拳を構えたが、昨日のような異常な力が湧くわけでもなかった。
条件があるのかもしれない。
危険を感じた時だけ。
死にそうになった時だけ。
あるいは、俺がまだ使い方を知らないだけ。
考えかけて、首を振る。
使い方。
その言葉は危険だった。
俺はまだ、これを力として見てはいけない。便利な能力だと考え始めたら、たぶん感覚がずれる。昨日の俺は助かった。だが、それは借金のようなものかもしれない。返済方法も利息も分からない借金だ。
俺はメモの最後に、今日やることを書いた。
外に出ない。
左腕の変化を見る。
体温、痛み、食欲、睡眠を記録する。
中の何かに期待しない。
信用しない。
無理に試さない。
そこまで書いて、少し迷った後、もう一行足した。
【それでも、今は生きている。】
画面に表示されたその一文を見て、胸の奥が少しだけ静かになった。
会社を辞めた時、俺は命の危険に晒されてもいないのに、死にたくないと思った。昨日は本当に死にかけた。そして今、体の中に得体の知れないものを抱えている。
状況は最悪に近い。
けれど、まだ終わってはいない。
俺は、俺の体を観察することにした。
逃げるためではない。戦うためでもない。ましてや、力を使いこなすためでもない。
まず、自分がまだ自分なのかを確かめるために。




