第159話 腕が多い
北東の森を避け、拠点から川へ向かう道を進む。小人たちが使っている採取路の一つで、足元には何度も踏み固められた跡が残っていた。
今日は蜥蜴人を四体連れている。槍持ちが二体、水の魔術を使う術士が一体、壁や木を使った移動に慣れた斥候型が一体。六層へ入るたびに全員を連れ回せば食料の消費も増えるため、必要な役割だけを選んだ。
森へ散らした小動物から伝わる感覚にも、今のところ大きな乱れはない。北東側にあった空白とは違い、こちらには小さな反応が広く動いている。
小人たちが使っている道だから安全、とは限らない。それでも、何がいるのか分からない場所へ踏み込むよりは判断材料が多かった。
道の途中には、地面へ浅く埋めた籠や、枝へ吊るされた袋があった。小人たちが採った木の実や根を一時的に置くためのものらしい。空になっている籠もあれば、茶色い殻の実が半分ほど入ったままのものもある。
そのうちの一つが、道の脇で潰れていた。
編んだ枝は踏みつけられ、木の実が泥の上へ散らばっている。食べられたというより、掴んで砕いたような跡だった。
斥候型の蜥蜴人がしゃがみ込み、長い指で地面へ触れる。次に木の幹を見上げ、喉の奥を小さく鳴らした。
俺も見上げる。
幹の高い位置に、樹皮がまとめて剥がれた跡があった。爪痕の幅は俺の手より広い。さらに上では、腕ほどの太さがある枝が根元から折られていた。
虎もどきの仕業には見えない。
少し進むと、同じように壊された籠がもう一つ見つかった。近くに張られていた罠は、仕掛けを外されたのではなく、支柱ごと引き抜かれている。
小人たちが森の奥へ採取に出ている気配はある。だが、この道に限っては引き返した跡の方が新しかった。
上から、何かが落ちてきた。
俺は一歩横へ退く。握り拳ほどの木の実が地面へ当たり、硬い殻を割って中身を飛び散らせた。
自然に落ちた角度ではなかった。
斥候型が木の幹へ飛びつき、低い枝へ身体を引き上げる。槍持ち二体は左右へ分かれ、術士は杖を胸の前で構えた。
葉の重なりの向こうで、枝が沈んだ。
最初に見えたのは、黒褐色の指だった。太い枝を上から掴み、続いて同じような手がもう一本現れる。その二本より下から、さらに短く太い腕が枝の左右へ伸びた。
胴体が葉の間から滑り出す。
猿に似ている。
熊より大きな身体を灰色の毛が覆い、肩から伸びた二本の腕は膝より下まで届いていた。その脇腹に近い位置から、もう一対の腕が生えている。下側の腕は短い代わりに太く、四本すべてで枝を掴みながら体重を支えていた。
顔も猿に近いが、口は前へ突き出し、犬歯が唇の外へ覗いている。
四本腕の猿は俺たちを見下ろし、片方の長い腕で枝を折った。
次に、それを投げてきた。
槍持ちの一体が身を沈める。枝は頭上を通過し、背後の木へぶつかって葉を落とした。先端が尖っていたわけではないが、まともに受ければ防具の上からでも骨が折れる。
猿は次の枝へ腕を伸ばす。
ここが一時的な縄張りなら、避けて通る選択もある。だが、小人たちの籠を壊し、罠まで引き抜いている。木の実を奪うだけならまだしも、採取路そのものを使えなくし始めていた。
追い払っても、食べ物があると覚えていれば戻ってくる。
猿が二本目の枝を折る。
「倒す」
言葉が伝わったわけではない。俺の意図を受けた寄生体を通じて、蜥蜴人たちの動きが変わった。
槍持ち二体が木の左右へ広がる。術士は杖の先を地面へ向け、猿の真下へ水を流した。乾いていた土が黒く湿り、表面がぬかるんでいく。
斥候型は幹を駆け上がり、猿がいる枝とは反対側へ回った。
猿が枝を投げる。
今度は俺を狙っていた。
軌道を見てから避ける。風を切った枝が肩の横を通り抜け、地面へ突き刺さった。
俺は右手を上げ、指先へ風を集めた。
狙うのは猿ではない。猿が移ろうとしている隣の枝、その根元だけを切る。
薄い風の刃が走り、枝の表面へ線が入った。完全には断てていないが、猿が長い腕を掛けた瞬間、重さに耐えきれず折れた。
猿の身体が沈む。
残った三本の腕が別の枝を掴み、落下を止めた。四本ある分、一本外した程度では足りないらしい。
斥候型が上から飛び移り、猿の背へ短い槍を突き立てた。
灰色の毛を裂いて刃が入る。致命傷には遠い。猿は振り向かず、下側の腕を背中へ回した。
斥候型が槍を手放して飛び退く。その直後、太い指が何もない空間を握り潰した。
猿は枝を揺らし、地上へ飛び降りた。
ぬかるんだ土へ四本の腕と両脚が着く。大きな身体が沈み、泥が周囲へ跳ねた。
槍持ちが左右から突く。
猿は長い腕で片方の槍を払い、もう一方を下側の手で掴んだ。柄が軋み、そのまま槍持ちごと引き寄せる。
俺は間へ入った。
虎もどきの素材で作られたナイフを抜き、槍を握っている下側の腕へ振るう。刃は毛を抜け、手首の内側を横切った。
太い指が開き、槍持ちが後ろへ下がる。
猿の長い腕が横から来た。
身体を沈めても、完全には避けられない。前腕が肩へ当たり、押し飛ばされる。木の根を踏んで止まった時には、猿が四本の腕を使って地面を蹴り、すぐ目の前まで来ていた。
上側の二本が俺の両腕を狙う。下側の一本は傷ついているが、残る一本は地面を掴み、身体を引き寄せるために使われていた。
人間の腕が四本ある、と考えるから面倒になる。
こいつは六本の手足で動く獣だ。
掴みに来た右腕の外側へ踏み込み、肩の下を抜ける。もう一本の長い腕が背中へ回ってきたが、槍持ちの一体が横から柄を差し込み、軌道を逸らした。
猿がそちらへ顔を向ける。
術士が杖を振った。
水の塊が猿の顔へぶつかり、鼻と目を覆う。大きな身体が後ろへ下がり、ぬかるんだ地面で脚を滑らせた。
斥候型が再び背中へ飛びつく。今度は傷つけるためではなく、首の毛を掴んで頭を後ろへ引いた。
猿は斥候型を振り落とそうと、二本の長い腕を背中へ回す。
地面を支える腕が減った。
二体の槍持ちが同時に踏み込み、左右の脚へ穂先を入れる。猿の膝が折れ、胸が沈んだ。
俺は正面へ回る。
突き出した顎の下に、毛の薄い場所が見えた。
ナイフを逆手に持ち、そこへ刃を入れる。硬いものへ当たる感触はなく、切っ先は抵抗を裂きながら奥まで進んだ。
猿の四本の腕が一斉に動く。
俺はナイフを手放し、後ろへ跳んだ。長い指が胸元を掠め、服の表面を裂く。
槍持ちと斥候型も距離を取る。
猿は喉元のナイフを抜こうとしたが、傷ついた下腕の指はうまく閉じず、もう一本は泥へついた身体を支えている。上側の腕が首へ届いた時には、口から流れた血が胸の毛を濡らしていた。
立ち上がろうとして、脚が滑る。
四本の腕で地面を掻き、身体を前へ進めようとする。
やがて一番長い腕が肘から崩れ、続いて残りの腕も力を失った。
大きな身体が泥の上へ横倒しになる。
しばらく待っても、起き上がる気配はなかった。
寄生体から、死体へ近づきたい欲求が伝わってくる。四本の腕を持つ身体構造に興味があるのか、それとも単に大きな獲物として見ているのかは分からない。
「これは持って帰る。全部食うなよ」
寄生体が理解したかどうかは怪しい。少なくとも、白い糸が死体を覆い始めることはなかった。
ナイフを回収し、刃についた血を拭う。小人たちが作った物は、太い首の筋肉を貫いた後でも欠けていない。
槍持ちの一本は武器を掴まれた際に腕を痛めていたが、骨までは折れていないようだった。斥候型にも目立った傷はない。
俺一人でも倒せたかもしれない。
四本の腕を全部相手にしながら、森を壊さず、傷を増やさずに済んだかは分からない。少なくとも、今より時間はかかった。
小人たちの拠点へ戻ると、猿の死体を見た者たちが集まってきた。
驚いたように四本の腕を触り、指を曲げ、肩の位置を確かめている。食料として見る者、骨の長さを測る者、毛皮の厚みを調べる者に分かれ、すぐに解体の準備が始まった。
俺が説明するまでもなく、どこをどう使うか考え始めている。
川へ向かう採取路を塞いでいたものは倒した。
北東にいる何かとは違う。こいつは拠点へ近づき、小人たちの食べ物を奪い、罠を壊していた。避けて生活を続けられる相手ではなかった。
四本の腕は、まもなく胴体から切り離され、用途ごとに運ばれていく。
数が多くても、倒してしまえば働き手が増えるわけではない。
ただ、あの腕から何を作るつもりなのかは、少し気になった。




