第150話 器用の範囲
森の奥で感じた大きな異常から距離を取り、俺たちは入口の丘へ戻ることにした。
姿も正体も確認できていない。
それでも、移動するだけで周囲の小動物が一斉に逃げ、近くにいた寄生体の反応がまとめて途切れるような相手だ。初日の探索で追いかける理由はなかった。
森の中へ散らした寄生体は、そのまま残す。
鼠もどきや甲虫、小型の蜥蜴に入り込んだものも、無理に呼び戻さなかった。俺が入口へ戻っても、それぞれが森の中で動き続ければ、時間とともに拾える反応は増えていく。
自分の足で歩いた範囲だけを地図にする必要はない。
森の生き物と一緒に、少しずつ感覚を広げていけばいい。
帰り道では、先ほどのような大きな異常には遭遇しなかった。
木の上で何かが走り、離れた茂みから獣の息遣いが聞こえたが、どちらもこちらへ近づいてこない。先行させた寄生体の反応を頼りに、熱の密集している場所を避けながら進んだ。
森を抜けると、丘の上の景色が朝とは変わっていた。
扉を囲む柵が、既に俺の腰ほどの高さまで伸びている。
細い木を何本も並べ、横から枝と蔓で固定しただけのものだが、作りは思ったより頑丈そうだった。森側には小さな落とし穴が並び、その間へ骨と石を結んだ紐が張られている。
何かが触れれば音が鳴り、柵まで来る前に気づける仕組みらしい。
扉の近くには、虎もどきの毛皮を屋根代わりにした小さな作業場までできていた。
枝へ吊るされた肉から細く煙が上がり、その下には陶器の器が並んでいる。解体場所も草地から少し離され、流れた血を集めるための溝まで掘られていた。
「早いな」
俺が森へ入っていた時間は、半日にも満たない。
その間に、小人たちは入口付近を野営地らしい形へ変えていた。
人数も増えている。
最初にいた五人だけではない。四層から来たらしい小人たちが十人以上動き回り、木を運ぶ者、石を積む者、肉を切る者に分かれていた。
誰か一人が細かく命令している様子はない。
それぞれが自分のやることを分かっているように動いている。
俺たちに気づいた一人が声を上げた。
作業をしていた小人たちが一斉にこちらを見る。
何人かが駆け寄ってきたが、その中の一人だけが両手で何かを抱えていた。
細長い物を、虎もどきの皮で包んでいる。
俺の前まで来ると、小人はそれを両手で差し出した。
「俺に?」
小人は何度も頷いた。
皮を開く。
中に入っていたのは、一本のナイフだった。
刃は白に近い薄黄色で、緩やかに反っている。
金属ではない。形と色から考えると、虎もどきの爪を削ったものらしい。根元の厚い部分を残し、先端へ向かって薄く整えられていた。
柄も木ではなかった。
白い骨を一本削り出し、俺の手に収まる太さへ整えてある。表面には細かな溝が何本も刻まれ、濡れた手でも滑りにくそうだった。
爪と柄の接合部には、薄く裂いた皮と乾燥させた腱らしきものが何重にも巻かれている。
ただ縛っただけには見えない。力のかかる方向を考え、刃がずれないよう角度を変えながら締めてあった。
握ってみる。
軽い。
刃が大きいわりに先端へ重さが偏っておらず、手の中で向きを変えやすい。
小人たちが使うには大きすぎる。最初から俺に渡すつもりで、柄の長さまで合わせたらしい。
「これを、ここで作ったのか?」
小人は胸を張った。
作業場を見る。
あるのは石刃、木槌、縄、火、それから形の違う陶器くらいだ。
炉はない。
金属を削る工具もない。
固定用の作業台すら、太い丸太へ溝を掘った程度のものしかなかった。
それで、刃と柄の噛み合わせに隙間のないナイフを作った。
「器用って範囲で片づけていいのか、これ」
小人は褒められたと思ったのか、さらに胸を張った。
周囲にいた仲間も声を上げる。
虎もどきの上で勝ち誇っていたときと、ほとんど同じ騒ぎ方だった。
「分かった。ありがとう」
礼を言うと、目の前の小人が両腕を上げた。
ほかの小人たちも同じように腕を上げる。
受け取った以上、使えるか確かめておきたい。
解体場所の近くには、切り残された虎もどきの毛皮があった。脚の付け根に近い部分で、厚みがあり、小人たちも後回しにしていたものらしい。
その端へ刃を当てる。
軽く引いた。
手応えがほとんどなかった。
刃が毛の中へ沈んだと思った次の瞬間には、厚い皮まで切れている。押し込んでもいない。腕に力を込める前に、切断面が開いていた。
「……軽すぎるな」
もう一度、今度は少し長く引く。
毛皮だけではなく、下に残っていた筋までまとめて切れた。
普段使う市販の鉄製ナイフなら、毛を避け、刃を押し込み、何度か往復させる必要がある厚さだった。
この刃には、それがない。
近くに落ちていた親指ほどの枝を拾い、片手で持つ。
刃を斜めに当てて振ると、枝の先が落ちた。
断面は潰れていない。
繊維を押し折ったのではなく、綺麗に断ち切っている。
「鉄より切れるな」
見た目は、骨と爪を組み合わせただけの原始的な道具に近い。
実際の性能は、俺が持っているどのナイフよりも高かった。
刃先を指で触れないよう注意しながら確認する。
二度毛皮を切り、枝まで落としたのに、欠けた様子はない。
虎もどきは、俺と蜥蜴人たちで問題なく倒せた相手だった。
六層では、あれより大きな生き物が森の中を歩いている。
その牙、爪、骨、皮。
倒したあとに残るものすべてが、現実の動物とは違う性質を持っている可能性がある。
そして小人たちは、初めて触れたはずの素材を、短時間で道具へ変えてみせた。
素材が良いだけではない。
どう削れば刃になるか、どの骨を柄に使えば折れにくいか、どの程度まで薄くしても強度が残るか。それを知らなければ、この形にはできない。
「お前たち、こういうの得意なんだな」
小人の一人が、解体途中の虎もどきを指す。
次にナイフを指し、自分の胸を叩いた。
自分たちが作ったと言いたいのだろう。
「それは見れば分かる」
俺はナイフをもう一度握った。
軽く、鋭く、手にも馴染む。
設備の整った工房で作られたと言われても、不思議には思わない完成度だった。
これまで、小人たちを頼りないと思っていた。
虎もどきに追われ、助けられた直後にその死体へ登って騒ぐような連中だ。
だが、森で生きるために必要な技術では、俺より遥かに先を行っている。
解体。
保存。
罠。
建築。
素材の加工。
俺が戦って獲物を持ち帰り、小人たちがそれを使える形へ変える。
役割として考えれば、かなり相性がいい。
問題は、俺が頼んだわけでもないのに、向こうが勝手に拠点を作り始めていることだった。
「……まあ、助かるからいいか」
骨の柄に、残った虎皮で作られた細い紐が結ばれている。
腰へ下げられるよう、簡素な鞘まで用意されていた。
そこまで作ったのかと感心しながら、ナイフを腰へ固定する。
森へ散らした寄生体から、細かな反応が重なっていた。
水辺へ近づいた個体。
木の上で止まった個体。
何かに追われ、急に進路を変えた個体。
入口へ戻っている間も、探索は止まっていない。
森の輪郭が見えてくるまで、まだ時間はかかる。
その間に、俺は装備を整え、小人たちは拠点を広げる。
灰色の小さな職人たちは、既に次の骨を削り始めていた。




