第147話 本番
六層へ続く扉を開けると、昨日と同じ風が吹き込んできた。
草と土と水の匂い。
扉の向こうには青空が広がり、丘の先で森が揺れている。
昨日は景色を見ただけで引き返した。
今日は森へ入るために来た。
俺は扉を抜け、後ろに続く寄生ゴブリンと七体の蜥蜴人が出てくるのを待った。
槍持ちが先に丘へ散り、斥候型が周囲の匂いを探るように首を動かす。火と水の術士型は、黒い杖を持ったまま俺の近くに残った。
昨日と変わらない景色のはずなのに、改めて見るとやはり現実感が薄い。
ここが地下の暗渠から続いている。
頭では分かっていても、目の前の青空がそれを否定しているようだった。
丘を下りる前に装備を確認しようとしたところで、背後から甲高い声が聞こえた。
振り返る。
開いたままの扉の前に、小人たちがいた。
一人ではない。
灰色の肌をした小人が五人、短い棒や小さな袋を持って、こちらを見上げている。
「……どこから来たんだ、こいつら」
俺は寄生ゴブリンと蜥蜴人を連れて、魔法陣から直接五層へ来た。
そのあと六層へ続く扉を開けたが、途中で小人の集落には寄っていない。
考えられるとすれば、俺が六層へ入る前からグリフォンの部屋付近まで来ていて、蜥蜴人たちに紛れてついてきたくらいだ。
小人たちは俺の疑問に答えることなく、目の前の景色を見て騒ぎ始めた。
互いに腕を叩き、森を指し、聞き取れない声を上げている。
昨日の俺とは随分と違う反応だった。
感動しているのかと思ったが、そうでもないらしい。
一人が棒を掲げる。
ほかの四人もそれに続いた。
次の瞬間、小人たちは丘を駆け下りていった。
「おい」
止まらない。
短い脚をせわしなく動かし、そのまま草地を越えて森へ突っ込んでいく。
何をしに来たのかも分からない。
そもそも、ここが安全かどうかも確認していない。
「……まあ、放っておくか」
四層で暮らしていた連中だ。
大蛇に脅かされながらも集落を維持していたのだから、見た目ほど弱くはないのかもしれない。
俺は森へ入る準備を続けた。
まずは丘から見える範囲を確認する。
入口付近に大型生物の姿はない。木々の間に小さな熱は点在しているが、距離と重なりのせいで正確な数までは分からなかった。
蜥蜴人をどう配置するか考えていると、森の中から声が響いた。
先ほどとは違う。
明らかに慌てている。
枝が折れる音が連続し、下草が激しく揺れた。
最初に飛び出してきたのは小人だった。
五人とも両手を振り回し、丘へ向かって全力で走っている。
「何してんだ……」
その後ろから、大きな獣が現れた。
虎に似ている。
橙色の毛皮に黒い縞が入り、低く伸びた身体を四本の脚で支えている。ただし、現実の虎より一回り以上大きい。肩の高さだけで小人の背丈を越え、前脚は不釣り合いなほど太かった。
口を開くと、上顎から伸びた二本の牙が見える。
小人たちは、こちらへ逃げてきている。
そのうち一人が振り返り、短い棒を投げた。
棒は虎もどきの鼻先にも届かなかった。
「余計なことするな!」
獣の注意が、その小人へ向く。
俺は足元から拳ほどの石を拾い、走りながら投げた。
石は虎もどきの側頭部へ当たった。
大きな音がして、獣の頭が横へ振れる。
倒れはしない。こちらを見た目に、はっきりとした怒りが浮かんだ。
「こっちだ」
俺が次の石を拾う前に、虎もどきが小人たちを追うのをやめた。
地面を蹴り、こちらへ走ってくる。
速い。
熱の塊が一気に近づく。
左右へ分かれろ。
意図を受けた槍持ちが散り、斥候型が森側へ回り込む。
俺は正面に残り、虎もどきが飛びかかる直前に横へ踏み込んだ。
前脚が振られる。
爪の先が服を掠めた。
身体を深く捻って避け、そのまま獣の脇腹へ短棒を叩き込む。
硬い。
毛皮の下に、厚い筋肉の層がある。
打撃を受けても虎もどきは止まらず、後脚を軸に身体を反転させた。
太い尾が横から迫る。
腕で受けると、足が地面から離れた。
草地を転がりながら衝撃を逃がす。
虎もどきが追ってくるより早く、二体の蜥蜴人が左右から槍を突き出した。
一方の穂先は肩へ刺さり、もう一方は外れた。
獣が吠え、刺さった槍ごと蜥蜴人を振り回す。
水の術士型が杖を向けた。
細い水流が虎もどきの顔を打ち、視界を塞ぐ。
その隙に斥候型が背後から飛びついた。
爪を毛皮へ食い込ませ、首元へしがみつく。
虎もどきが身体を激しく振った。
俺は立ち上がり、赤錆の山刀を抜く。
獣が斥候型を振り落としたところへ踏み込み、肩へ刺さったままの槍をさらに押し込んだ。
虎もどきの前脚が沈む。
そこへ別の槍が反対側から入り、火球が地面すれすれを通って腹へ当たった。
毛が燃える。
虎もどきは炎を消そうと地面へ身体を擦りつけた。
その動きで、首の側面が露出する。
俺は踏み込み、赤錆の山刀を深く振り抜いた。
刃が毛皮と筋肉を断ち、血が草地へ散る。
虎もどきは数歩よろめき、前脚から地面へ崩れ落ちた。
四肢が一度だけ土を掻き、そのまま動かなくなった。
しばらく周囲を警戒したが、ほかの熱源が近づいてくる気配はなかった。
小人たちは、少し離れた場所からこちらを見ている。
「終わったぞ」
意味が伝わったかは分からない。
五人は互いの顔を見合わせると、一斉に虎もどきへ駆け寄った。
そのうち二人が死体の上へよじ登る。
一人は頭の上に立ち、先ほど投げたものとは別の棒を高く掲げた。
残りも周囲で声を上げている。
まるで自分たちが倒したような騒ぎ方だった。
「ああ、そう。よかったね」
俺は少し遠い目で小人たちを見た。
助けなければ食われていたはずだが、本人たちが満足しているなら、もうそれでいい気もした。
扱いに困る。
虎もどきの上でしばらく勝利を祝っていた小人たちは、急に騒ぐのをやめた。
一人が腰の袋から、薄い石の刃を取り出す。
ほかの小人も死体から下り、それぞれ道具を並べ始めた。
「何を――」
石の刃が虎もどきの腹へ入る。
一人が毛皮を引き、別の二人が脚を押さえる。
残った小人は近くの枝を集め、地面へ並べていた。
解体している。
それも、初めてではない。
手順を知っている動きだった。
俺はしばらく眺めてから、別の違和感に気づいた。
虎もどきの死体が残っている。
血は草を濡らし、土へ染み込んでいた。
切り開かれた腹から見える肉も、引き剥がされ始めた毛皮も、その場から消える様子がない。
これまで倒したモンスターは、時間が経てば輪郭を失い、ダンジョンへ吸収されるように消えていた。
グリフォンも、俺たちが先に吸収しなければ、いずれ同じように消えていたはずだ。
だが、目の前の死体にはその予兆がない。
「ダンジョンに吸収されない?」
しゃがみ込み、切断された毛皮の端へ触れる。
温かい。
血が付く。
毛皮も肉も、現実の動物と変わらない物質としてそこにあった。
小人が俺の手を邪魔そうに押し退け、作業を続ける。
「悪かったよ」
立ち上がり、解体されていく虎もどきを見る。
空がある。
森がある。
川が流れ、生き物同士が互いを捕食している。
倒したものは消えず、肉も皮も骨も残る。
小人たちは、それを食料か素材として持ち帰ろうとしている。
ここまでの階層とは、根本から法則が違う。
ふと、一つの考えが浮かんだ。
今までのダンジョンは、チュートリアルだった?
敵は決められた場所に現れた。
進む道も、倒すべき相手も分かりやすく用意されていた。
敵を倒せば死体は消え、ボスを倒せば報酬と次の道が現れる。
魔術も、身体の変化も、寄生体を使った戦い方も、そこで覚えた。
そして六層から、急に本物の環境が始まった。
確証はない。
そもそも、誰に向けたチュートリアルだったのかも分からない。
考えて答えが出る話ではなかった。
「ひとまず、この階層を攻略するか」
疑問は残る。
それでも、森へ入らなければ何も分からない。
俺は丘の上から、改めて森を見渡した。
道はない。
入口から最奥へ続く通路も、次の階層を示す扉も見えない。
森は左右にも奥にも広がり、木々の向こうに何があるのか分からなかった。
ボス部屋らしい建物もない。
階段がありそうな場所もない。
昨日は、その広さを見て心を動かされた。
今日は、別の意味で同じ景色に圧倒されている。
「……といっても」
森を攻略する。
言葉にするのは簡単だった。
「これ、どう攻略すればいいんだ」
答える者はいない。
近くでは、小人たちが虎もどきの毛皮を剥ぎながら、また楽しそうに騒ぎ始めていた。




