第146話 向こう側の俺
翌日、俺は一層のボス部屋にある光る円の前へ戻っていた。
何重もの線と記号で描かれた床は、昨日と変わらず青白い光を放っている。外周から中心へ流れた光が一度強く輝き、また最初へ戻る。
見間違いでも、疲労による幻覚でもなかったらしい。
「やっぱりあるな」
当然だが、一晩寝ても用途を説明する表示は出ていなかった。
近づいて調べても、床との境目すら見つからない。模様が刻まれているわけではなく、石の表面そのものから光が浮かんでいるように見える。
寄生体から拒絶はない。
それでも、自分から踏み込む気にはなれなかった。
俺の横には、一層へ残していた寄生ゴブリンが立っている。
昨日は疲れ切っていたから避けた。今日は検証するために戻ってきた。ここまで準備しておいて、怖くなったから帰るという選択肢はさすがになかった。
だからといって、最初から自分で試す必要もない。
俺は寄生ゴブリンへ、光る円の中心へ進むよう指示を出した。
その前に、向こうへ着いたあとの行動も伝えておく。
五層にいる蜥蜴人を探す。そのうち一体を、向こう側にあるはずの光る床へ乗せる。
どこまで正確に伝わったかは分からない。寄生ゴブリンが蜥蜴人へ直接指示を出せるのか、寄生体同士で意図を受け渡せるのかも試したことはなかった。
後は、寄生体がうまく動くことを願うしかない。
「行け」
寄生ゴブリンが一歩進み、光る円へ足を入れた。
変化はない。
二歩、三歩と進み、身体全体が円の内側へ収まる。
光が強くなった。
反射的に目を細めた次の瞬間、寄生ゴブリンの姿が消えた。
音も、風もなかった。
光の柱が立つことも、身体が透けていくこともない。そこに立っていたものが、持っていた武器ごと一瞬でいなくなった。
「……本当に消えたな」
円の中心には何も残っていない。
血も、衣服の切れ端もない。
無事に五層へ着いたのか、別の場所へ飛ばされたのか、それとも途中で消滅したのか。こちらから確かめる方法はなかった。
俺は光る円の前で待った。
一分。
二分。
何も起きない。
指示が伝わらなかったのかもしれない。五層へ着いても、蜥蜴人を光る床まで連れてくる方法が分からず止まっている可能性もある。
そもそも、この円が一層と五層を結んでいるという予想自体が間違っているのかもしれない。
自分の足で確かめに行くべきかと考え始めたところで、円の光が強くなった。
中心に影が現れる。
最初は輪郭だけだった。
次の瞬間には、石槍を持った蜥蜴人が円の上に立っていた。
「来た」
暗緑色の鱗も、太い尾も、昨日と変わらない。身体に新しい傷はなく、槍も失われていなかった。
寄生ゴブリンへ出した指示が、何らかの形で向こうの寄生体へ伝わったらしい。
近づいて肩へ触れる。
体温がある。脈も動いている。身体の動かし方や周囲への反応にも、不自然なところは見つからなかった。
「問題なさそうだな」
寄生ゴブリンが向こうへ移動し、蜥蜴人がこちらへ来た。
二つの円がつながっていると考えてよさそうだった。
俺は蜥蜴人へ、もう一度円へ入るよう指示する。
青白い光が強まり、その姿が消えた。
無事に五層へ戻ったかは、ここからでは確認できない。
ただ、一度こちらへ来られた以上、同じように向こうへ戻れる可能性は高い。
生き物だけでなく、武器も一緒に運ばれる。
往復にも使える。
そこまで確認しても、円の前へ立つと足は止まった。
俺は昔どこかで見た、転送装置についての話を思い出していた。
人間の身体を細かな情報まで読み取り、その場で分解する。
読み取った情報を遠くへ送り、向こう側で同じ身体を組み立てる。
完成した人間は、転送装置へ入る前までの記憶を持っている。自分は間違いなく移動しただけだと感じ、何の疑問もなくその後を生きていく。
だが、最初に装置へ入った人間は、分解された時点で死んでいるのではないか。
向こう側に現れるのは、同じ記憶と身体を持ち、自分が本人だと思い込んでいる別人にすぎない。
そんなサイエンスホラーじみた話だった。
「余計なこと思い出したな……」
寄生ゴブリンも蜥蜴人も、転移したあとまで同じように動いているように見えた。
それが同じ存在である証明にはならない。
向こう側へ現れた蜥蜴人が、転移前と完全に同じ情報を持つ別の身体だったとしても、外から見分ける方法はない。
魔法なら、身体をそのまま移動させているだけかもしれない。
空間を曲げ、入口と出口を一時的につないでいる可能性もある。
そもそも、魔法に対して分解や再構成という考え方を持ち込むこと自体が間違っているのかもしれない。
それでも、一度思い浮かべてしまったものは簡単には消えなかった。
魔法陣へ入った瞬間、今ここで考えている俺は消える。
五層に現れた何かが、転移に成功したと思って続きを始める。
そんな可能性を否定できる知識はなかった。
「便利設備に対して考えることじゃないだろ」
自分で言っても、不安は消えない。
理屈の分からない装置へ身体を預けるのだから、怖くて当然だった。
とはいえ、これを使わず毎回一層から五層まで歩くのも現実的ではない。六層の森を探索するなら、移動だけでかなりの時間を使うことになる。
今後さらに深い階層が続けば、なおさらだ。
ダンジョン側が用意した設備を利用しなければ、まともに探索できなくなる。
俺は円の前で何度か呼吸した。
寄生体は静かだった。
危険を感じていないのか、俺と同じように判断できずにいるのかは分からない。
「俺が消えたら、お前も一緒か」
それなら、一人ではない。
慰めになっているのか自分でも分からなかったが、少しだけ足を動かしやすくなった。
右足を円の中へ入れる。
何も起きない。
左足も進める。
光が足元を流れ、中心へ近づくほど明るさが増した。
引き返そうと思えば、まだ戻れる。
円の中央へ立つ。
青白い光が視界を覆った。
分解される痛みを想像し、思わず歯を食いしばる。
次の瞬間、景色が変わっていた。
グリフォンのいた部屋だった。
折れた石柱。戦闘で傷ついた床。奥には六層へ続く階段がある。
先に送った寄生ゴブリンと、一層から送り返した蜥蜴人が、光る円の外で待っていた。
どうやら蜥蜴人も、問題なく戻れたらしい。
痛みはない。
手足も動く。
自分の名前も、ここへ来た目的も覚えている。
寄生体からは、戸惑いに近い感覚が伝わってきた。俺と同じく、何が起きたのか完全には理解していないらしい。
俺は胸へ手を当てる。
心臓は、少し速いだけで普通に動いていた。
「……着いたな」
声も同じだった。
少なくとも、そう聞こえた。
転移する前の俺と、今ここにいる俺が本当に同じ存在なのかを確かめる方法はない。
それでも俺は、光る円の外へ足を踏み出した。
向こう側へ来た俺は、六層へ続く扉を見上げていた。




