第145話 自己主張が激しい
どれほど丘の上に立っていたのか、分からなかった。
森を渡る風は絶えず吹いていた。木々は揺れ、遠くの川は光を反射し、その上を小さな影が横切っていく。
見ているだけで、次々と新しいものが目に入った。
本当なら、すぐにでも丘を下りたかった。
森の中へ入って、川へ近づき、鳴き声の主を確かめたい。奥に何がいるのか、どこまで続いているのか、自分の足で見て回りたかった。
それなのに、身体が動かなかった。
感情だけが先に溢れ、考えが追いついていない。
今の状態で森へ入れば、普段なら見落とさないものまで見落とす気がした。
「……今日は、やめるか」
口に出すと、ようやく少しだけ現実へ戻れた。
惜しくないはずがない。それでも、ここはもう消えない。
扉の向こうに、確かにある。
俺は森へ背を向けた。
七体の蜥蜴人も、俺の動きに合わせて向きを変える。誰一体として景色へ未練を残す様子はなかった。
少しくらい惜しそうにしてもいいと思う。
そんなことを考えられる程度には、頭が動くようになっていた。
扉を閉める直前、もう一度だけ振り返る。
丘の先には、変わらず青空と森が広がっていた。
次に来たときは、あの中へ入る。
そう決めて、扉を閉じた。
階段を上り、グリフォンのいた部屋へ戻る。
先ほどまで血と羽毛と白い群れで埋まっていた場所は、吸収を終えたことで静かになっていた。折れた石柱や床の傷だけが、ここで戦闘があったことを残している。
俺は部屋を横切ろうとして、足を止めた。
床が光っていた。
「……なんだ、あれ」
部屋の端、石扉から少し離れた場所に、円形の模様が浮かんでいる。
直径は三メートルほど。何重もの円と、意味の分からない記号を組み合わせたような図形が、青白い光を断続的に放っていた。
先ほどまではなかったはずだ。
少なくとも、グリフォンと戦っていたときにあれが光っていれば、嫌でも気づいている。
円の外周から内側へ光が走り、中心で一度強く輝く。また暗くなりかけたところで、同じ動きを繰り返す。
「……めっちゃ自己主張激しいな」
感動の余韻に浸る隙もなく、思わず床へ突っ込んでしまった。
目を逸らしても、視界の端でピカピカと光っている。
近づくと、寄生体から警戒らしい反応は返ってこなかった。熱もなく、風も起きていない。床そのものに段差があるわけでもない。
頭の中では、なんとなく予想がついていた。
「絶対ワープ床だよな」
ダンジョン物ではお馴染みの設備だ。
ボスを倒したあとに開放され、入口や到達済みの階層へ一瞬で移動できる。長い道のりを毎回歩かなくて済む、探索者に優しい便利機能。
見た目も、それ以外には考えにくい。
ここまで階層、ボス部屋、宝箱、魔術のスクロールと揃ってきた。今さら転移設備が出てきても、流れとしてはむしろ自然だった。
「ダンジョンって、結局なんなんだ」
生態系ごと存在する森を見せた直後に、ゲームで見慣れた便利設備が床で光っている。
どちらか片方なら、まだ理解しようとする余地があった。
両方を同じ場所が用意しているせいで、考えるほど分からなくなる。
円の縁まで近づき、片足を出しかける。
どこへ飛ぶのかは分からない。
入口へ戻れるのか、別の階層を選べるのか。そもそも本当に転移するのかも、俺が勝手に予想しているだけだ。
寄生体が拒絶していないからといって、安全とは限らない。
「……やめとくか」
今日はもう、新しいものを試せるほど頭に余裕がなかった。
光る床を避け、来た道を戻る。
七体の蜥蜴人は五層の洞窟まで連れていき、その場に残した。俺が戻るまで周囲を守り、敵が来れば排除する。その意図を伝えると、槍持ちは通路へ散り、斥候型は岩壁を上っていった。
術士型二体も、それぞれ杖を持ったまま別の方向へ進む。
ここなら身体のつくりも戦い方も環境に合っている。無理に一層まで連れ帰るより、五層の拠点として残す方が使いやすい。
ホワイトスウォームの一部も残し、俺は一人で階段を上った。
四層の集落へ戻ると、小人たちが何体かこちらへ寄ってきた。
俺の後ろに蜥蜴人がいないことを確認したあと、変わらず頭を下げる。
今見たものを伝える言葉はなかった。
青空も、森も、その向こうに何があるのかも、彼らが知っているのか分からない。
俺は軽く手を上げ、そのまま集落を抜けた。
三層へ上がり、石の椅子の横を通る。
さらに下層を抜け、一層まで戻るころには、身体よりも頭の方が疲れていた。
見たものが多すぎる。
グリフォン。指輪。スクロール。風の魔術。扉の先の森。そして、あの光る床。
整理しようとするたび、丘から見た景色が割り込んでくる。
一層のボス部屋へ入ったところで、俺はまた足を止めた。
床の端が、青白く光っている。
「……」
グリフォンの部屋にあったものと、ほとんど同じ円だった。
何重もの線と記号が組み合わさり、外周から中心へ光が走っている。
以前ここへ来たときにはなかった。
六層へ到達したことで出現したのか。グリフォンを倒したことで開放されたのか。それとも、今まで見落としていただけなのか。
考え始めた瞬間、頭の中で何かが止まった。
もう無理だった。
脳の処理能力が限界に達している。
俺は横目で光る床を確認し、そのまま通り過ぎた。
調べるのは次でいい。
今踏んで、また別の知らない場所へ飛ばされたら、たぶん立ち直れない。
寄生ゴブリンたちの状態を確認し、入口側の三体と奥に残していた二体へ異常がないことを確かめる。白い群れも外へ向かう動きを見せていない。
最低限の確認だけを済ませ、俺は暗渠を出た。
家へ着いてからは、いつもと同じように動いた。
装備を外し、持ち帰ったものを確認する。
赤いポーションを所定の場所へ置き、緑色の指輪は指にはめたままにした。外して保管することも考えたが、今のところ異常はない。
服を着替え、身体を洗い、水を飲む。
簡単に腹へ入れられるものを食べ、歯を磨く。
どれも普段から繰り返している動作だった。
その間も、頭の中では森が揺れていた。
布団へ入り、仰向けになる。
目を閉じると、青空が見えた。
暗い部屋にいるはずなのに、雲の形や、光を反射する川まで思い出せる。
ダンジョンって、なんなんだ。
そもそも、今までの階層はなんだった。
石造りの通路。モンスター。階層ごとのボス。倒せば現れる宝箱。使用方法が頭へ入るスクロール。到達した場所同士を繋ぐらしい光る床。
そこまでは、誰かが考えたダンジョンの形に見える。
だが、六層の森は違った。
本物だった。
少なくとも、俺にはそう見えた。
木が生え、川が流れ、虫や鳥や獣の気配があり、それぞれが互いに関わりながら生きている。
なら、あそこだけ別なのか。
それとも、今まで通ってきた五つの階層の方が別だったのか。
疑問のほとんどを置いたまま、俺はここまで進んできた。
考えても答えが出ないから、見てから決めればいいと思っていた。
結局――
そこまで考えたところで、思考が途切れた。
次に意識がなくなるまで、ほとんど時間はかからなかった。




