第144話 未観の扉
石の台座に載っていた宝箱を開けると、中には三つ入っていた。
一本は赤い小瓶。見慣れた、あの赤だ。
もう一つは、緑色の意匠が刻まれた指輪だった。銀とも白金ともつかない地金に、細い蔓のような線が絡み、その途中に羽根のようにも見える模様が差し込まれている。装飾品として見れば綺麗だが、何に使うものかは分からない。
最後は、細く丸められた一本のスクロールだった。
まず赤い小瓶を回収する。これで使える分がまた増えた。
指輪は手のひらに載せてしばらく眺めたが、寄生体からは特に警戒も拒絶も返ってこない。嫌がる気配がないなら、少なくとも触れた瞬間に何か起きる類ではなさそうだった。
「……まあ、つけるか」
左手の指にはめてみる。
冷たい金属の感触が肌へ馴染んだが、それだけだった。痺れも熱もない。体の内側がざわつく感じもない。
分からないものは、今の時点では分からないままにしておくしかない。
最後にスクロールを開く。
乾いた皮の上には、見たことのない文字と、複雑な線の流れが描かれていた。読めるわけではない。なのに、視線を落とした瞬間、そこに書かれている内容が読むというより流れ込んでくる感覚があった。
空気を集める。
薄く、鋭く、潰す。
押し出すのではなく、切るための形へ整える。
振る。
その一連の手順が、言葉ではなく感覚として頭の奥へ沈んでいく。
気づけば、皮の上の線も文字も端から薄れていた。燃えたわけでも破れたわけでもない。ただ、書かれていたものだけが消え、最後には真っさら皮だけが手の中に残る。
「そういう仕組みか」
試しに右手を軽く振る。
指先から少し遅れて、何かが前へ走った。十歩ほど先の岩肌に、細い線が刻まれる。
刃物で撫でたような、浅いが真っ直ぐな傷だった。
火とも、水とも、雷とも違う。
手応えの薄いまま飛んでいくのに、確かに切れている。
風を、刃の形で飛ばしたらしい。
「便利そうだな」
寄生体がわずかに満足したような感覚を返してくる。魔術が増えたこと自体を面白がっているのかもしれない。
宝箱が消えたあと、部屋の奥で石の擦れる音が続いた。
黒い石の台座のさらに向こう側、壁だったはずの場所が左右へ割れ、その奥に下へ続く階段が現れる。人工的に切り出された灰色の石段だ。
その先には、一枚の扉があった。
これまでの暗渠で見てきた扉よりも大きい。飾り気は少ないが、枠の四隅にだけ、葉脈のような模様が浅く刻まれている。
俺は扉の前に立ち、一度だけ息を吐いた。
後ろには七体の蜥蜴人がいる。槍持ちが四、水の術士が一、火の術士が一、斥候型が一。姿を失った分のホワイトスウォームも、ある程度は戻っている。
なら、進める。
両手をかけ、扉を押した。
最初に入ってきたのは、風だった。
湿った地下の空気でも、古い石室の乾いた匂いでもない。冷たさと温かさが混じった、開けた場所の風だ。草と土と、遠い水の匂いが一度に流れ込んでくる。
次に、光。
ライトを向ける必要がないほど自然な明るさが、開いた隙間から差し込んだ。
思わず目を細める。
扉の向こうへ足を踏み出し、俺はその場で止まった。
そこは、丘の上だった。
緩やかな斜面に短い草が広がり、その先で地面が大きく落ち込むように下っている。丘の縁から見下ろした先には、森があった。
ただ木が群れているだけではない。
森だった。はっきりと、本物の森だった。
視界を埋める緑の層は一色ではない。深い緑、若い黄緑、湿った影の色に近い青みがかった緑。その間に、白っぽい幹が立ち、赤茶けた枝が覗き、ところどころで花か実か分からない淡い色が点になって散っている。
高い木が天蓋を作り、その隙間に低木の群れがあり、さらに足元には背の低い草地が広がっている。木の高さも揃っていない。細く真っ直ぐ伸びたもの、途中で枝を大きく張ったもの、幹がねじれて斜面へ傾いたもの。種類そのものが違うのだと、見ただけで分かる。
森の中ほどでは、一本の川が光っていた。空を映して青く見える場所と、木陰を映して黒く沈む場所がある。川幅は広くないのに、そこを境に植生が変わっているのが丘の上からでも見て取れた。岸辺には背の高い草が密に生え、その外側に明るい緑の木立が続いている。
さらに奥には、木々の切れ目のような場所があり、小さな水辺か湿地でもあるのか、陽光を鈍く弾いていた。
風が森を渡るたび、葉の色が面ごと揺れる。
ざわ、と低い音が遅れて丘まで届いた。
その音の中に、鳥に似た鳴き声が混じる。どこか遠くで獣の唸るような響きもあった。近くの草むらでは、名も分からない虫が細く鳴いている。
上を見れば、青空が広がっていた。
薄い雲が長く引かれ、その向こうには、地下のはずなのに何の疑いもなく空がある。天井の岩肌ではない。発光鉱石でもない。見上げればどこまでも続きそうな、抜けた高さがあった。
光は均一ではなく、雲に隠れるたび少し和らぎ、また強くなる。その変化が木々の影を動かし、森の表情まで変えていく。
丘の下から吹き上げてくる風が頬を撫でた。
乾きすぎてもいないし、湿りすぎてもいない。地下の密閉された空気では絶対にない感触だった。
意味が分からなかった。
ここまでの暗渠は、ずっと地下だった。
石と湿気と血と土の匂いがして、層ごとに違いはあっても、異常空間の内部としてどこか同じ文法でできていた。
だがこれは違う。
違いすぎた。
広さも、明るさも、空気も、生き物の気配も、何もかもがこれまでの延長ではない。
地下に森がある、というだけでも十分におかしいのに、目の前の景色はそんな理屈を押し流してくる。
作り物に見えない。
背景にも見えない。
そこに本当に、生態系ごと置かれているようにしか見えなかった。
「……なんだ、これ」
自分の声が、妙に小さく聞こえた。
後ろを振り返ると、蜥蜴人たちも扉の向こうで動きを止めていた。命令を待っているのか、ただ立ち尽くしているだけなのかは分からない。少なくとも俺と同じように景色へ見惚れているわけではないだろう。
なのに、誰かと一緒にこの光景を見ているという事実だけが、妙に現実感を強めた。
胸の奥がざわつく。
怖いのか、嬉しいのか、自分でも分からない。
混乱している。目の前のものを理解できていない。なのに、そのわりに、もっとどうしようもなく別のものが込み上げてきた。
懐かしい、とは少し違う。
初めて見る景色なのに、ようやく辿り着いたような気がした。
ずっと何かを探していたわけでもない。何が欲しかったのか、自分でも曖昧だったはずだ。
それでも、目の前の景色はその曖昧な部分へまっすぐ触れてきた。
気づいたときには、頬を一筋だけ何かが伝っていた。
涙だった。
自分でも意味が分からないまま、俺は丘の先の森を見た。
木々の揺れ。遠くの川。森の奥へ続いていく緑の層。青空の高さ。風に運ばれてくる生きた匂い。
喉の奥が詰まり、うまく息ができない。
けれど苦しくはなかった。
「ああ、ああ、これだ」
何が、とは言えない。
言葉にしようとした瞬間、違うものになる気がした。
ただ、何かの核心に触ったような感覚だけがあった。ずっとぼやけていたものへ、ようやく指先が届いたような、そんな感覚だった。
俺はしばらく動けなかった。
丘の上に立ったまま、ただ森を見ていた。
後ろの蜥蜴人たちも、命令がないからか、その場に止まっている。槍を持った影が、丘の風の中で静かに並んでいた。
青空の下、俺と蜥蜴人たちはしばらくその景色を見続けた。
森は何も語らないまま、ただそこに広がっていた。




