第141話 猶予の使い方
スマートフォンに届いた通知は、異常空間民間調査員制度の登録者へ一斉送信されたものだった。
【未申告異常空間に関する相談窓口の開設について】
確認されていない異常空間を発見し、すでに利用している者へ向けた呼びかけだった。一定期間内に相談し、安全確認や制度への移行に協力すれば、過去の未申告だけを理由に行政処分を行わない。発見者や土地所有者の情報は原則として公表せず、匿名での相談も受け付ける。
安全が確認された場合には、申告者の継続利用や優先活動枠も検討するらしい。猶予期間は、ひとまず三か月。
思っていたより、ずっとまともな条件だった。
秘密の入口を見つけたものの、報告した瞬間に全て取り上げられると思って黙っていた。そんな人間なら、名乗り出る理由にはなるだろう。
俺には関係がなかった。
隠しているのが入口だけなら、まだ考えたかもしれない。暗渠には寄生ゴブリンがいて、一層には白い群れが広がっている。俺自身も寄生体とほとんど融和し、魔術まで使えるようになった。
人間への寄生と行動支配も、すでに行っている。
入口を見せて安全を確認してもらえば済む段階は、とっくに過ぎていた。
政府の呼びかけは、普通の未申告者を救うための現実的な条件に見えた。この内容で助かる者もいるはずだ。
国が未申告の異常空間を正式な問題として扱い始めた以上、これまでと同じではいられない。
国や制度側が暗渠へ辿り着くまでには、まだ時間がかかるだろう。俺には未申告の異常物品を使ったという注意記録も残っている。疑われる材料が重なれば、いつまでも偶然や勘違いでは押し通せなくなる。
三か月待つ理由はなかった。
俺は通知を閉じ、その日のうちに暗渠へ向かう準備を始めた。
周囲に人影がないことを確かめ、暗渠の入口から奥へ入った。湿った空気と古い水の匂いが薄れ、代わりに乾いた土と石の匂いが混じり始める。
境目を越えてしばらく進むと、壁際の暗がりから白いネズミが一匹現れた。床へ腹をつけるように近づき、俺の靴の前で止まる。
しゃがんで背中へ指を触れた。
細い感覚が指先から広がり、一層の奥へ伸びていく。地図や個体数までは把握できない。伝わってきたのは、広い範囲に大きな乱れがなく、外へ向かおうとしているものもいないという感覚だけだった。
寄生体から返ってきたのは、わずかな満足だった。
「問題はなさそうだな」
白いネズミは返事もせず、壁際の穴へ戻っていった。
言葉そのものではなく、外へ出ない、人間を餌にしない、敵意のない人間には触れないという意図が伝わっている。今のところ、指示を外れた動きもなかった。
少し先では、入口側に残していた三体の寄生ゴブリンが通路の脇へ並んだ。損傷はなく、身体にも目立った変化はない。奥へ進む途中で残りの二体とも合流し、五体全ての無事を確認した。
一層は、少なくとも俺の決めた範囲では管理されている。
隠していた装備を確認し、赤い小瓶を一本だけ鞄へ入れた。もう一本は残しておく。二本とも持ち出して一度に失うより、確実に一つ残っている方がいい。
灰色の胸当てとリッチの杖も持っていく。どちらも効果は分かっていないが、四層より先へ進むなら、調べられるものは手元に置いておきたかった。
寄生ゴブリンには一層へ残るよう意図を伝え、俺は一人で奥へ進んだ。
以前は戦いながら進んだ通路も、今では道順を確認する必要すらなかった。ボス部屋に残っていた血や傷は消え、そこで何かが死んだ痕跡もほとんど残っていない。
植物と菌類が広がる下層では、以前と同じ湿った熱気が漂っていた。遠くで歩くキノコ型の影が動いていたが、こちらへ近づいてはこない。進路から外れている相手を、わざわざ追う理由もなかった。
足を止めずに下層ボス部屋まで抜け、黒い石の階段を下りる。
前室へ着いたところで、魔術の確認をすることにした。
植物の多い場所で火を試す気にはならない。周囲が石だけでできたこの部屋なら、少なくとも燃え広がる心配はなかった。
右手を前へ出し、指先へ意識を集める。
小さな炎が浮かんだ。
前に出したときよりも迷いは少ない。指先ほどの火を掌ほどまで広げ、また小さく戻す。大きさを変えるたびに形は揺れたが、消そうと思えばすぐに消えた。
出せるだけでは足りない。狙った大きさで保ち、必要な瞬間に止められなければ、狭い場所で使うには危険すぎる。
次は水を試した。
掌の上に透明な水が滲み出し、少しずつ量を増していく。丸くまとめようとしたが、形を保てず指の間から床へこぼれた。
二度目は拳一つ分ほどの塊になったものの、維持できたのは数秒だった。攻撃に使う以前に、狙った場所へ飛ばせるかも分からない。
最後に雷へ意識を向ける。
床に置いた錆びた金属片へ手を向けると、指先から白い光が弾けた。短い音とともに電気が走り、金属片が床の上を跳ねる。
「危なっ」
狙いは外していないが、放電した瞬間に手首まで痺れが返ってきた。痛みというほどではない。何度も続けて使えるものかは分からなかった。
少し距離を変え、もう一度だけ試す。今度も金属片には届いたが、最初より光が弱い。
火、水、雷。三つとも出すことはできる。
使えることと、戦闘で信用できることは別だった。火はまだ制御しやすいが、水は形にならず、雷は射程も消耗も分からない。
連続して試したせいか、頭の奥に薄い重さが残っている。魔術による消耗なのか、ここまで歩いた疲れなのかも、まだ切り分けられなかった。
「練習が必要だな」
寄生体から、肯定とも満足とも取れる感覚が返ってきた。
魔術を使えたことを喜んでいるだけかもしれない。
前室を出て三層へ入ると、空気がさらに乾いた。石の椅子は以前と同じ場所にあり、その上にはもう何も座っていない。
リッチも、灰になった敵も、五体の寄生ゴブリンが倒れた痕跡も消えている。
足が一度だけ止まった。
ここで失ったものも、俺がその先へ進むために使った事実も消えない。俺は一度だけ石の椅子を見て、その横を通り過ぎた。
地下集落は静かだった。
灰色の石で造られた小さな建物が並び、通路には前に来たときと同じように道具や籠が置かれている。生活の痕跡はあるが、姿は見えない。
俺が近づいたことで、どこかへ隠れたのかもしれない。
武器へ手を伸ばさず、その場で待つ。
しばらくすると、建物の陰から灰色の顔が半分だけ覗いた。
小人族の一体だった。
目が合う。
小人はしばらく動かなかったが、やがて身体ごと物陰から出てきた。手には小さな籠を持っている。武器ではない。
俺と、集落の奥にある大蛇のいた建物を交互に見たあと、胸へ手を当てて深く頭を下げた。
それを合図にしたように、別の建物からも小さな影が現れる。
武器を構える者はいなかった。老人に見える個体も、子供ほどの大きさしかない個体も、物陰から俺を見ている。やがて一体が近づくと、前回と同じように大蛇のいた奥を指し、それから俺へ手を向けた。
言葉はない。
それでも、何を示しているのかは分かった。
大蛇を倒した人間と、目の前にいる俺を結びつけている。
俺が忘れられていないと分かると、小人たちは少しずつ距離を詰め始めた。最初に姿を見せた個体は、もう一度だけ頭を下げる。
どうやら、覚えられていたらしい。




