第132話 用意された答え
隔離区画から出られたのは、帰還から三日後だった。
コールの脚には傷痕すら残っていない。血液検査、画像検査、神経反射、運動機能の測定を繰り返しても、今回の負傷による異常は見つからなかった。
赤い液体を飲んだことによる副作用も、現時点では確認されていない。
その結果を聞いたエレナは、安心するより先に医師へ尋ねた。
「現時点では、ですね」
「そうです。未知の物質ですから、長期的な影響については判断できません」
「経過観察は続けます」
答えたのはコールだった。
検査着のまま椅子へ座り、採血された腕を押さえている。三日間で抜かれた血の量を数え、途中から文句を言うのを諦めていた。
「次は何を取られる?」
「今日はもうありません」
「その言葉を昨日も聞いた」
「昨日の検査は追加で必要になったものです」
「今日は追加がないことを祈るよ」
医師が退室すると、入れ替わるようにスーツ姿の男女が入ってきた。
スポンサー企業の広報担当と法務担当だった。
グラントは二人が持ってきた資料へ目を落とした。
「会見は午後一時から。予定どおり?」
「はい。主要な報道機関へは既に案内しています」
広報担当が三人へ薄い冊子を配った。
表紙には会見の進行予定、その下にはハウンド・スリー帰還報告と書かれている。
「先に、想定される質問と回答方針をご確認ください」
グラントは最初のページを開いた。
第四層の危険度について。
黒い槍の性能について。
赤い液体を使用した経緯について。
コールの現在の体調について。
質問ごとに、推奨される回答が記されている。
「これは誰が答える文章だ」
「皆さんです」
「俺たちの名前で、そっちが作った文章を読むのか」
「表現を統一するためです。情報が錯綜すれば、誤解や模倣行為につながります」
エレナが冊子をめくる。
赤い液体についての回答欄で手が止まった。
「緊急時対応手順に基づき、現場判断で使用した」
「何か問題がありますか」
「そんな手順はなかった」
広報担当の表情は変わらなかった。
「生命に重大な危険がある場合、現場で使用できることは契約書にも記載されています」
「使用を認める条項があっただけです。何を確認して、誰が判断するかという手順は決まっていなかった」
「細部まで説明すれば、企業側が使用を妨害したと受け取られる可能性があります」
「実際、止めようとしたでしょう」
法務担当が口を挟んだ。
「未知の物質を人体へ投与しようとしていたのです。地上側が慎重になるのは当然です」
「それは理解しています」
エレナは冊子を閉じた。
「だから、起きたことをそのまま説明すればいい。地上は使用を保留するよう求め、私は救助まで持たないと判断して使った。どちらにも理由があった」
「短い会見で、その差異が正確に伝わる保証はありません」
「正確に伝える努力をするのが、今日の会見じゃないんですか」
広報担当はすぐには答えなかった。
コールが横から冊子を覗き込む。
「俺の状態は重度の脚部負傷となってる」
「医療情報を必要以上に公開しないためです」
「脚が千切れかけたって言わなくていいのか」
「千切れかけてはいません」
エレナが訂正した。
「じゃあ、かなり裂けて骨もやられていた」
「それも推奨しません」
広報担当が答えた。
「負傷の映像は刺激が強く、赤い液体の効果を過度に印象づけます。既に一部では万能治療薬という表現も使われています。会見では、負傷の詳細よりも、現在は健康であることを強調してください」
「それだと、少し怪我をして薬を飲んだら治ったみたいに聞こえる」
「映像は後日、適切な編集を行ったうえで公開します」
グラントが顔を上げた。
「編集するのは誰だ」
「映像権は契約に基づき、共同管理となっています」
「共同なら、俺たちの同意なしには出せない」
「安全保障上の問題や、企業機密に該当する部分を除外したうえで――」
「第四層で起きたことが、いつから企業機密になった」
室内が静かになった。
グラントは冊子を机へ置いた。
「黒い槍も、赤い小瓶も、そっちが作ったものじゃない。俺たちが見つけて持ち帰った。今回はコールが死にかけ、エレナが使うと決めた。地上が止めようとしたことも含めて、全部が現場記録だ」
「皆さんの行動を否定しているわけではありません」
「なら、整えて別の話にするな」
広報担当は法務担当と視線を交わした。
「会見そのものを延期することもできます」
「どうして」
「回答方針について合意できない状態で、公の場へ出すことはできません」
「もう記者は呼んでるんだろ」
コールが尋ねた。
「延期は可能です」
「俺たちの体調を理由に?」
「必要であれば」
コールは自分の脚を軽く叩いた。
「これはよく動く。会見を休む理由にはならないな」
午後一時、三人は会見場の舞台裏にいた。
壁の向こうから大勢の話し声が聞こえる。国内の報道機関だけでなく、海外メディアや動画配信事業者まで集まっていた。
企業側との話し合いは、結局まとまらなかった。
会見は予定どおり開く。
ただし、赤い液体の詳細な使用映像は公開せず、三人は質問に自分の言葉で答える。企業側は、契約上開示できない情報に触れた場合のみ進行を止める。
妥協と呼ぶには、互いに警戒が残りすぎていた。
「緊張してるか」
グラントが尋ねる。
「ロデオの決勝よりカメラが多い」
コールは新しいズボンの上から脚を撫でた。
「でも、牛はいない」
「記者の方が話は長い」
エレナは腕時計を確認した。
「余計なことは言わないで」
「どこからが余計なんだ」
「今の質問も含む」
会場へ出ると、一斉にフラッシュが光った。
三人が席へ着く前から、記者たちは名前を呼び、質問を投げかけてくる。
司会者が静粛を求め、企業側の説明が始まった。
ハウンド・スリーは第四層で新たなモンスター二体と遭遇した。コール・マーサーが負傷したが、回収済みの赤色物質を使用して回復。三人は自力で帰還し、現在の健康状態に問題はない。
説明が終わると、最初の記者が立った。
「マーサーさん、赤い液体を飲んだ直後、どのような感覚がありましたか」
「脚の中が熱くなった。その後、痛みが消えた」
「現在も体調に変化はありませんか」
「採血されすぎて、そっちで倒れそうだ」
会場に小さな笑いが起きた。
別の記者が手を上げる。
「ルイスさん。あの液体は、どのような怪我でも治せる万能薬と考えてよいのでしょうか」
「考えないでください」
エレナは即座に答えた。
「確認できたのは、一本の赤い液体を一人へ使い、今回の負傷が回復したという事実だけです。別の怪我、別の人間、別の量で同じ結果になる保証はありません。安全性も確認中です」
「しかし、重傷が数分で治ったことは事実ですね」
「はい。だからこそ、勝手な使用を勧めるつもりはありません」
「重傷とは、具体的にどの程度だったのでしょうか」
司会者が回答を制限しようとしたが、エレナが先に口を開いた。
「大腿部の深い裂創と大量出血があり、骨か関節にも損傷があると判断しました。止血を続けても、救助が到着するまで持たない可能性が高かった」
会場の空気が変わった。
「地上の医療班も、使用を推奨したのですか」
エレナは一度だけ企業側の席を見た。
「地上からは保留を求められました。未知の物質なので、慎重になる理由は理解できます。私は現場で、待てば死亡する可能性の方が高いと判断しました」
「命令に反して使用したということですか」
「現場の医療判断は私に任されていました」
グラントが続ける。
「コールを生きて戻すために必要だと判断した。俺も同意した」
「通信を切ったという情報がありますが」
会場の端で、企業関係者が動いた。
司会者が次の質問へ移ろうとする。
「事実です」
グラントが答えた。
「複数の人間が同時に話し始め、現場で必要な情報が聞き取れなくなった。判断を終えるまで送信を止めた」
「スポンサー企業との間に対立があったのでしょうか」
「地上は未知の物質を残したかった。俺たちは目の前の一人を残したかった。それだけだ」
シャッター音が増えた。
「ヘイルさん。黒い槍についても、企業側と公開方針が一致していないと聞いています」
「聞いた相手に確認してくれ」
「黒い槍には、モンスターの防御を無効化する能力があるのですか」
「無効化という言葉は使わない。第四層の甲殻へ、通常の武器より深く刺さった。確認できたのはそこまでだ」
「次の探索でも使用しますか」
「使える状態なら使う」
「次の探索を行う予定があるのですか」
グラントは左右を見た。
エレナは表情を変えない。
コールは机の下で両脚を動かし、怪我がないことを確かめていた。
「俺たちは第四層の入口を少し歩いただけだ」
グラントは答えた。
「一人が死にかけ、持っていた赤い小瓶を一本失った。それで攻略したと言うつもりはない」
「では、再挑戦を?」
「条件が整えば戻る」
企業側が準備していた回答にはなかった言葉だった。
記者たちの声が重なる。
次の契約は決まっているのか。黒い槍の所有権は誰にあるのか。赤い液体を再び発見した場合、誰が管理するのか。
司会者が一度会見を止め、質問を一つに絞るよう求めた。
コールがマイクへ顔を近づける。
「一つだけ言っておく」
会場が静かになった。
「赤い薬を探しに第四層へ行こうと思ってる奴がいるなら、先に映像の最初から最後まで見ろ。俺は助かった。でも、あれを飲めるところまで持っていく仲間がいなければ、瓶を持っていても死んでいた」
隣でエレナがわずかに目を細めた。
グラントは止めなかった。
「薬だけ持って帰ってきた英雄みたいに書くな。あの二人が連れて帰ったんだ」
短い沈黙の後、またフラッシュが光った。
会見終了後、三人は舞台裏の廊下へ戻った。
広報担当が待っていた。
「合意した回答範囲を超えています」
「どこが」
グラントが尋ねる。
「通信の遮断、使用判断を巡る意見の相違、再探索の可能性。いずれも事前調整が必要な情報です」
「質問されたから答えた」
「契約には、企業価値を損なう発言を避ける義務があります」
コールが自分の胸元を見下ろした。企業のロゴがいくつも並んでいる。
「今日、一番映ったのはこれだ。価値は上がったんじゃないか」
「冗談で済む問題ではありません」
「俺が生きてることも宣伝に使うんだろ」
広報担当が言葉を止めた。
エレナが間へ入る。
「検査には引き続き協力します。使用記録も渡す。ただし、あの時の判断を企業の手順どおりだったことにはしません」
「今後の契約にも影響します」
「それは契約の時に話しましょう」
グラントが出口の扉を開けた。
建物の外には、会見を終えた記者たちが回り込み、三人を待っていた。警備員が通路を作っているが、呼びかける声は途切れない。
ハウンド・スリー。
奇跡の生還者。
第四層の英雄。
次々に違う名前で呼ばれる。
企業が用意した車へ乗り込むと、エレナはすぐに広報担当から渡された資料を開いた。次回契約の協議事項と、探索映像の公開範囲がまとめられている。
車が動き出してからも、彼女は顔を上げなかった。
「次は、今の三人では行かない」
グラントが声を落として言った。
コールは隣へ顔を向けた。
「企業の監視役でも連れていくのか?」
「斥候だ」
グラントは窓の外を見たまま続ける。
「前方の索敵、地形の記録、退路の確認。今回、俺たちは進行方向しか見ていなかった」
「俺が後ろを見てた」
「見つけられなかっただろ」
コールは言い返さなかった。
壁の亀裂から伸びた尾に気づいた時には、既に脚を貫かれていた。
「エレナが治療へ回れば、俺は周囲を守る。一人倒れただけで、前を見る人間も退路を確認する人間もいなくなる」
「四層は、三人じゃ足りないってことか」
「少なくとも、今の役割のままではな」
コールは少し考えた後、口元を緩めた。
「それなら、やっとこのダサい名前から解放されるな」
「おい。それ、気に入ってる奴もいるから気をつけろよ」
「おいおい。まさかグラント、お前、意外とセンスがないのか?」
グラントは首を横に振った。
それから、前の座席で資料を読み続けているエレナへ目を向ける。彼女は二人の会話に気づかず、契約書の一文へ線を引いていた。
コールもその視線を追った。
「まじで?」
「まじだ」
声を抑えた二人の会話は、走行音に紛れた。
エレナは振り返らない。
コールはしばらく黙った後、窓へ身体を寄せた。
「四人目が入っても、名前はそのままか?」
「本人に聞け」
「聞けるわけないだろ」
グラントは答えず、タブレットを取り出した。
「必要なのは、戦闘が得意な人間じゃない。俺たちより早く異常を見つけて、止まるべき時に止まれる人間だ」
「見つかるのか、そんな奴」
「探すところから始める」
グラントが候補者資料の請求画面を開く。
第四層へ戻る意思は、三人とも変わっていなかった。
次に必要なのは、新しい武器でも追加の報酬でもない。
三人より先に危険を見つけられる、もう一人の探索者だった。




