第131話 一本分の命
四層へ続く石段の前で、グラント・ヘイルは三度目の装備確認を終えた。
元陸軍のグラントが持つ黒い槍には、傷一つない。胸元には小型カメラ、背中には予備弾薬と水、腰には撤退用の発煙筒。前回と違うのは、三人分の装備に企業のロゴがいくつも貼られていることと、その槍が加わったことだった。
「その角度だと、スポンサーが映らない」
コール・マーサーが、グラントの肩に貼られたロゴを指した。
牧場で働きながらロデオへ出ていた男で、企業から支給された装備にも、すぐ自分なりの使い方を見つけている。胸元のロゴだけは気に入らないらしく、出発前から何度も位置を直していた。
「戦っている最中に読ませるつもりか」
「金を出す側はそうだろ」
「読めた奴には余裕がある。救助は要らないな」
エレナ・ルイスが二人の間を抜け、石段の先へライトを向けた。
救急救命士として働いてきたエレナの胸元には、武器よりも医療器具が多く収められている。その一番内側に、前回持ち帰った赤い小瓶があった。
「喋る余裕があるなら、もう一度確認する。赤い小瓶は私が持つ。使用判断も私がする。異論は?」
「ない」
「使わず持ち帰れれば追加報酬だったよな」
コールが言うと、耳元の通信機から地上管制の声が返った。
『正確には、未使用状態での回収に対する研究協力金です。現場で生命に重大な危険がある場合、使用は禁止されていません』
「禁止してないだけで、使ってほしくもない」
『未知の物質です。副作用を確認できていない以上、慎重になるのは当然です』
「聞いただけだ」
エレナは赤い小瓶を胸元の保護ケースへ戻した。前回、宝箱から出た時のまま、中身は濁りのない赤色を保っている。
採取できた量は小瓶一本分だけだった。蓋を開ければ成分が変質する可能性があるとして、地上では外側からの検査しか行われていない。
三人は石段を下りた。
第四層は、前回確認した時と同じ乾いた空気に満たされていた。床と壁は赤褐色の岩でできており、通路の幅は二人が並べる程度しかない。高い位置に細い亀裂が走り、そこから弱い光が差し込んでいる。
グラントが先頭に立ち、エレナ、コールの順で続く。
黒い槍は全長が二メートル近くあり、狭い場所では取り回しにくい。持ち帰った後に金属組成を調べても、既知の合金とは一致しなかったが、強度や重量だけなら現代の装備から大きく外れてはいなかった。
異常が現れたのは、第四層へ入って二十分ほど進んだ頃だった。
前方の岩が動いた。
壁の一部に見えていた塊が持ち上がり、四本の脚を床へつく。胴は大型犬より一回り大きく、背から頭まで重なった甲殻に覆われていた。隙間から覗く皮膚も硬く、前回は同型の個体へ撃ち込んだ弾が浅く食い込んだだけで止まっている。
「一体。正面」
グラントが槍を構えた。
甲殻獣が床を蹴る。
銃口を向けるより先に距離を詰め、頭を低くして突っ込んできた。
グラントは半歩横へずれ、黒い槍を突き出した。
穂先が甲殻へ触れる。
硬い衝撃を予想していた腕が、前へ流れた。
黒い穂先は一枚目の甲殻を割らずに沈み、その下まで深く入った。グラントは体勢を崩しかけながら柄を押し下げ、甲殻獣の勢いを床へ逃がす。巨体が横倒しになり、脚が岩を掻いた。
「入ったぞ」
「見えてる」
コールが駆け寄り、露出した腹側へ短槍を突き込む。甲殻獣は数秒暴れた後、動かなくなった。
グラントは黒い槍を引き抜き、穂先を確認した。欠けも曲がりもない。甲殻には細い穴が開いているが、その周囲に大きな割れはなかった。
『映像を確認しています。通常の刺突に見えません』
「こっちも同じ感想だ」
グラントは甲殻へ靴をかけ、もう一度穂先を当てた。死体へ押し込んでも先ほどほど軽くは入らない。それでも、支給された鋼製の槍より明らかに深く沈んだ。
「力が増えた感じは?」
エレナが尋ねる。
「ない。硬いところだけ抜けた」
『サンプル採取後、撤退を推奨します』
「第四層へ入って一体倒しただけだ」
『武器特性の確認という主要目的は達成しています』
グラントは通路の先を見た。
前回は入口を確認し、宝箱を回収したところで時間切れになった。今回はまだ、第四層の地形すらほとんど分かっていない。
「次の退避可能地点まで進む。そこで戻る」
『了解しました。滞在上限は変更しません』
三人は甲殻の一部を切り取り、先へ進んだ。
通路は緩やかに下り、やがて左右へ分かれた。右側には風が流れ、左側からは断続的に石を引っ掻く音が聞こえる。
グラントが右を示した時、最後尾から短い叫び声が上がった。
振り返る。
壁の亀裂から伸びた黒褐色の尾が、コールの脚へ巻きついていた。尾の先には返しのついた骨のような突起があり、厚手のズボンを貫いている。
コールの身体が壁へ引かれた。
エレナが腕を掴み、グラントが黒い槍を尾の根元へ振り下ろす。穂先は岩の隙間へ入り込み、内部で何か硬いものを断った。
尾が緩む。
三人が後ろへ下がった直後、亀裂の奥から細長い獣が飛び出した。前脚だけが異様に長く、岩壁へ爪を立てたまま身体を横へ滑らせる。
グラントが槍を突き、エレナが二発撃つ。
一発は外れ、もう一発は肩口へ入った。獣の動きが鈍ったところへ黒い槍が胸を貫いた。
倒れたことを確認するより先に、エレナはコールのそばへ膝をついた。
ズボンを切り開く。
尾の突起は腿の外側から深く入り、引かれた際に傷口を大きく裂いていた。血が勢いよく流れ、岩の床へ広がっていく。
「止血帯」
グラントが手渡す。
エレナは傷より上を締め、時間を読み上げた。コールの顔色は急速に悪くなっている。
「骨は?」
「折れてる気がする」
「動かすな」
足の向きがおかしい。壁へ引かれた際に膝の近くまで捻られている。
『状態を報告してください』
「大腿部に深い裂創。動脈損傷の疑い。膝関節か大腿骨にも損傷がある。意識は保っている」
『止血を維持し、直ちに撤退してください。救助班を入口へ向かわせます』
「到着まで何分」
『最短で四十五分です』
エレナはコールの瞳孔を確認し、脈へ指を当てた。
「四十五分は持たない」
『映像上、出血は抑制されています』
「今はな。ここから担いで階段まで戻る。途中で外れれば終わる」
『赤色物質には人体への使用実績がありません』
「だから何だ」
『未知の急性毒性、神経作用、不可逆的な変化の可能性があります。まず通常の救命処置を――』
「通常の処置で救助まで持たせられないと言っている」
通信の向こうで別の声が重なった。医療担当と研究担当が同時に話し始め、内容が聞き取れなくなる。
コールが浅い呼吸の合間に口を開いた。
「追加報酬、消えるな」
「黙ってろ」
「牛に踏まれた時より、痛い」
「喋れるならまだ余裕がある」
エレナは胸元の保護ケースを開いた。
『使用判断を保留してください。現在、医療責任者が――』
グラントが通信機へ手を伸ばし、送信を切った。
耳元が静かになる。
「後で揉めるぞ」
「生きて戻ればな」
エレナは小瓶を取り出した。
赤い液体は、揺らしても粘りを見せない。蓋を外して匂いを確かめると、薬品臭も甘い匂いもなかった。
「全部飲め」
「半分残せないか」
「副作用が分からないものを半量で試す方が怖い」
コールは瓶を受け取り、一息で飲み込んだ。
数秒は何も起きなかった。
エレナは空になった瓶を回収し、脈を測り続ける。コールが突然、息を詰めた。
「熱い」
「どこが」
「脚。中が、熱い」
止血帯の下で筋肉が震えた。
開いていた傷の縁がゆっくり寄り、流れ出ていた血が止まる。裂けた皮膚は濡れた跡を残したまま塞がり、腫れていた膝の形も戻っていった。
エレナは言葉を失ったまま、止血帯を緩めた。
出血は再開しない。
「足首を動かせる?」
コールが動かす。
「膝は」
「痛くない」
「ゆっくり曲げろ」
折れていたはずの脚が、引っ掛かりもなく曲がった。ズボンは裂け、靴の中には血が溜まっている。それでも皮膚の下に触れた骨と筋肉は、左右でほとんど差がなかった。
エレナはコールの肩を押し、立たせる。
一歩目は慎重だった。二歩目で体重をかけ、三歩目には自分で歩いた。
「どうだ」
グラントが尋ねる。
「腹が減った」
グラントが通信を戻した。
『応答してください。現場、応答してください』
「使用した。負傷は回復している。自力歩行可能」
数秒、誰も返さなかった。
『……使用時刻と全症状を記録してください。空瓶、血液の付着した衣類、止血帯、使用前に接触した器具はすべて回収対象です』
「先に撤退指示じゃないのか」
『直ちに撤退してください。帰還後、三名とも隔離検査を行います』
グラントは黒い槍を持ち直した。
「聞いたな。帰るぞ」
コールは破れたズボンから覗く脚を見下ろし、何度か膝を曲げた。
「これ、映像に全部残ってるんだよな」
「複数系統で記録している」
「俺の脚より高く売れそうだ」
エレナは空の小瓶を保護ケースへ収めた。
「脚は売るな。帰ったら血を抜かれるだけで済むよう祈れ」
三人は来た通路を戻った。
第四層入口へ着くまで、回復した脚に異常は出なかった。グラントが先頭で黒い槍を構え、エレナは数分おきに後ろを振り返ってコールの歩き方を確認した。
地上の隔離区画へ戻ると、待機していた医療班と研究員が一斉に動いた。
コールは担架へ乗せられ、無傷に見える脚へ検査器具を当てられる。裂けたズボンはその場で切り取られ、血の染みた布まで密封袋へ収められた。
エレナが空瓶を差し出すと、研究員は両手で受け取り、内側に残った一滴を探すように照明へ透かした。
「残留液は?」
「ない」
「口腔内の採取を。胃内容物も可能なら早く」
研究員の視線は、既に次の検査項目へ移っていた。
その横を、コールが自分の足で検査室へ歩いていく。医療班に止められ、結局は車椅子へ座らされたが、本人は不満そうに両脚を動かしていた。
空になった小瓶は密封され、番号のついたケースへ納められた。
持ち帰る予定だった赤い液体は、もう残っていない。
代わりに、一本分の結果が歩いていた。




