第127話 巣の主
男たちは、暗渠の外へ向かって歩いていった。
足取りは遅い。何度か立ち止まりかけ、そのたびに体のどこかを引かれたように前へ進む。振り返ることも、ポケットへ手を入れることもできない。俺が伝えたとおり、警察署のある方向から外れられないまま、二人の背中は暗がりの向こうへ消えていった。
あれで本当に最後まで行くのか。途中で誰かに声を掛けられたらどうなる。転んだら。車道へ出たら。
考え始めると確認したいことはいくらでも出てきたが、今の俺にできるのは、あいつらが自分で歩ける程度にしか縛っていないと信じることくらいだった。
少なくとも、殺してはいない。
それで済ませていいのかは、また別の話だ。
二人の中に入ったものを、今から抜けるのかも分からない。仮にできたとして、抜けばここのことを話せるようになるかもしれない。残せば、あいつらの命をこれからも握ったままになる。
俺は後者を選んだ。
自首させるためだった。亀山さんを狙った連中だった。そう並べれば理由にはなる。それでも、やったことの名前まで変わるわけではない。
俺はしばらく入口を見たまま立っていた。遠くで水の流れる音がする。そこでようやく、ここへ来た本来の理由を思い出した。
「……そうだ。こっちも片付いてないんだった」
返事はない。腹の奥に沈んでいるものが、わずかに動いた気がしただけだ。
暗渠へ戻る。
一層の通路は、見慣れたままだった。黒い石の壁に湿った空気。足元にはゴブリンの爪先が擦れた跡が残っている。その中に、以前にはなかった細い筋がいくつも走っていた。
最初は水の跡かと思った。ライトを落とすと、その一本が壁の隙間へ潜った。
白い。
糸より太く、ネズミの尾より細い。表面だけがゆっくり波打ち、石の割れ目の奥へ消える。
その先で、小さな影が動いた。
ネズミだった。形だけなら、街中の用水路にいてもおかしくない。だが毛はなく、皮膚の下を白いものが満たしている。こちらに気づくと逃げる様子もなく、一度止まって頭を低くした。
通路の奥にもいる。壁際に二匹、天井近くの割れ目に一匹。足元の小さな穴からは白い脚が何本も覗いている。虫の形をしたものまで数え始めたら、すぐに分からなくなった。
「増やすなって言ったよな」
口に出してから、違うと気づく。
寄生ゴブリンは増えていない。
入口側に三体。一層の奥に二体。五体とも、伝えた位置の近くにいる。装備も外見も大きくは変わっていない。
増えたのは、その周囲だ。
俺は一番近くにいた寄生ゴブリンの足元へしゃがんだ。石の隙間に、乾いた黒い欠片が詰まっている。拾い上げると、薄い皮と骨のような感触がした。
少し離れた場所には、ゴブリンが使っていたらしい石刃が落ちていた。柄に巻かれていた布だけが残り、持ち主の姿はない。
狩ったのだ。
近づいてきたゴブリンを倒し、その死体を材料にしてネズミや虫へ広がった。
寄生ゴブリンの数は増やさず、敵のゴブリンも近づけない。俺が伝えた二つを、どちらも守っている。
「そういう意味じゃない、は前にやったんだよな」
また返事はない。
胸の奥で、警戒や満足、まだ足りないものを探すような薄いざわつきが重なった。
会話ではない。俺が勝手に意味を当てはめているだけかもしれない。それでも以前より、混ざったものを別々に感じ取れる。
そのせいで、余計に誤魔化しにくかった。
こいつらは俺の意図を、俺が伝えた範囲で正確に実行している。
入口から奥へ向かって歩く。
白い小動物は好き勝手に散っているようで、実際には偏りがあった。曲がり角や脇道の手前、ゴブリンが通れる幅のある場所にネズミ型が伏せている。虫型は壁や天井の割れ目に入り、通路を跨ぐように細い白い筋を伸ばしていた。
さっきの男が躓いた場所にも、それがある。通ろうとした足へ偶然絡みついただけかもしれないが、侵入者の動きを止める仕組みとして機能していた。
入口から入り込んだ人間を見つけ、近づき、俺が気づくより先に体内へ入り込む。
俺がいなくても、ここは守られていた。
五体の寄生ゴブリンに加え、壁の中や床の下には、俺の把握していない数の白いものがいる。
ここはもう巣になっている。
男がそう理解した感覚を、俺も今さら追いかけている。
気味が悪い。
それでも、全部消そうとは思わなかった。
あの二人が刃物を振り下ろした時、俺は背中を向けていた。最初に足を止め、噛みついて体を硬直させたのはこいつらだ。いなかったとしても斬られていたとは思わないが、対処は遅れていたかもしれない。
四層まで降りた時も、リッチと戦った時も、俺一人の身体だけで進んだわけではなかった。
白いものを使う時だけ頼り、勝手に増えれば気味が悪いから消す。それでは都合が良すぎる。
問題は、俺の知らない場所で広がり、その後の動きを把握できていなかったことにある。
「増えるな、じゃないな」
腹の奥がわずかに脈打つ。
俺は一番近くにいた白いネズミへ手を伸ばした。逃げる様子はない。指先が頭に触れると、冷たい感覚が皮膚の内側へ入り込んだ。
通路の奥に、いくつもの小さな気配がある。
視界を共有しているわけではなく、正確な数や形までは分からない。それでも、五体の寄生ゴブリンを中心に細い流れが枝分かれし、入口側から一層の奥まで広がっている感覚はあった。
思っていたより広い。
広がりは、子供の頃から知っている湿った通路と黒い石の境目で止まっている。最初の寄生ゴブリンも横道の外へは出なかった。俺が隠そうとしているものまで含めて、意図は伝わっているらしい。
「外には出るな」
暗渠の入口から橋の下、川沿いの道や街へ白いものが広がる様子を思い浮かべ、境目まで押し戻す。
腹の奥に細い圧が残った。返事ではないが、反発する感覚もなかった。
「人間を餌にはするな」
次に、さっきの二人を思い浮かべた。
寄生して動きを縛ることと、体を食い潰して群体を増やすことは違う。俺へ刃物を向けた人間であっても、材料にしていいとは決めていない。
二人の体内に残ったものが、わずかに遠ざかっていく感覚があった。同じものとして繋がっていることだけは分かる。
「俺や、ここにいるやつらへ害を向けていない人間には触れるな」
害意は形のあるものではない。本人にそのつもりがなくても、危険を持ち込む人間はいる。
それでも、基準がないよりはいい。
これまで俺へ向けられた刃物やスタンガン、拘束具、銃口を順番に思い浮かべる。襲いかかる動きまで含めて伝えようとすると、警戒に近い感覚が以前より輪郭を持って残った。
最後に、暗渠の中へ広がっているものを思い浮かべる。
ゴブリンを狩り、その死体を使ってネズミや虫へ広がりながら通路を見張り、外から来た敵を見つける流れを、そのまま受け入れる。
「ここなら、増えていい」
口にした言葉が、黒い石の通路へ小さく響いた。
腹の奥から、熱とも冷たさとも違うものが広がる。満足に近い感覚とともに、張り詰めていたものがほどけ、通路の奥へ流れ出していった。
足元にいた白いネズミが動いた。壁の隙間から別の個体が顔を出し、天井近くを這っていた虫型も奥へ向きを変える。
遠くで、石を擦るような音が続いた。
白いものが集まってくるのではない。
散っていく。
通路の奥へ。脇道へ。壁の割れ目へ。
目に見えていた個体は次々と暗がりへ消え、一層は元の静けさを取り戻した。数が減った様子はなく、見張る場所へ戻ったのだろう。
俺は立ち上がり、入口側にいる三体の寄生ゴブリンを見る。少し離れた位置で、三体とも別々の方向を向いている。
その足元から、一層全体へ細い気配が伸びている。
目の前にいる五体だけが、俺の戦力ではない。
俺がここにいない間も、狩り、増え、見張り続けるものがいる。
使える。
そう考えた自分に、一瞬だけ引っ掛かる。
既に使っている。何度も助けられている。俺が認めなくても、こいつらが消えるわけでも、やったことがなくなるわけでもない。
だからこそ、知らないままにはしない。
何が増え、どこまで広がり、何を襲ったのか。次に来た時も確認する。必要なら止め、必要なら増やす。
決めるのは、俺だ。
「勝手にやるなとは言わない。ただ、俺にも分かるようにしてくれ」
無茶な注文だと思う。
寄生体は言葉で報告できず、外にいる群体へ細かい指示も出せない。俺の方も、どこまで感じ取れるのか分かっていない。
それでも、足元の奥から小さな気配が一つ戻ってきた。
石の隙間から現れた白い虫型が俺の靴へ触れる。その一瞬だけ、一層の奥へ広がる群体の動きが重なり、異常が起きていないことだけが感覚として伝わった。
俺は息を吐いた。
「できるなら、先にやってくれよ」
返事はない。
白い虫型は靴から離れ、再び壁の隙間へ潜っていった。
ライトの届かない先で、何かがいくつも動いている。
今度は、それを止めなかった。
暗渠は俺の知らないところで勝手に変わる場所から、俺が戻るまで守られ、増え続ける場所へ変わった。
ここにいるものごと、俺が管理する。
そう決めてから見る黒い通路は、来た時よりもわずかに広く見えた。




